進撃018

講義室


。こっちだよ」
 私服に着替え、向かった講義室。扉から入ってすぐの場所で立ち止り、マルコの姿を探していると、教室の真ん中あたりから声がかかった。声のした方へと視線を伸ばせば、探していたマルコの姿が目に入る。爽やかに笑うマルコは、軽く腕を持ち上げ、私を手招いた。
「マルコっ」
 私もまた、彼の名前を呼び大きく手を振り返す。周囲の視線が自然と集まる中で、マルコははにかむように笑った。
「遅れずに来れたみたいだね」
「うん、おかげさまでねー。ね、そっち行っていい?」
「もちろん。ちゃんとの分も席を取ってるよ」
「ありがとっ!」
 笑みを返しながら駆け寄ると、マルコの隣に腰掛けたジャンの姿が目に入った。だが、私が辿り着くよりも先に、元々真ん中に座っていたジャンが、マルコとの間にひとり分の空席を作るようにしてこちら側へと移動する。私が座るべき席が、ジャンのせいで消えた。あからさまな妨害に、思わずムッと唇を尖らせる。
「ジャン、詰めてよ」
「うるせぇな。お前はどっか別の席に行けばいいだろ」
 机の上に肘を立て、手のひらに頬を乗せたジャンは、ふいっと私から顔を背ける。態度の悪いジャンに、私もまた、むくれた表情を浮かべてしまう。
「なんでー?! マルコがせっかく私の分もって言ってくれたのに! 」
「お前が言わせたんだろうが!」
 こちらを振り返り、糾弾の言葉と共に机を強く叩いたジャンは、私に鋭い視線を向けた。怒鳴るジャンの手が私の方へと伸びる。突き飛ばすような手のひらを躱しつつ、その手首を掴んだ。反対の手は距離を置くようにジャンの肩へと押し付ける。これ以上悪さされないように、という防御策のつもりだったが、掴みかかるようなかたちになってしまう。腕を抑えた私に対し、ジャンはますます表情を歪めた。
「おい、っ! なんのつもりだよ!」
「なにって……叩かれないように抑えてるだけでしょー?」
「手加減してんだろうが、ちゃんとっ」
「なによぅ……さっきはかわいげあったのに…」
 すんなり手を繋いだかと思えば、邪険に扱われる。これも反抗期特有の情緒不安定というやつなんだろうか。
 ぽつりと言葉をこぼすと、怒りに顔を赤くしたジャンの手のひらが私の口元を塞いだ。これ以上、余計なことを言わせない。そんなジャンの気持ちがかち合った視線からなだれ込んでくる。
 やめてと言ったところで聞き入れてもらえそうもない。ならばその代わりに噛み付いてやろうか。強気な考えが頭をよぎったが、実行に移すとこの場が収集のつかない状況へと陥りそうなので、諦めて視線を強くすることで抵抗する。
「まあまあ。もうすぐ教官も来る頃だろうし……少し声のトーンは抑えたほうがいいよ」
 唇の前で人差し指を立てたマルコに宥められ、私もジャンも、不服ながら口をつぐんだ。だがその手をどちらが先に引くかで視線で牽制しあう。交わった視線が外されない。それどころか益々強く絡み合う。どちらからともなく、互いを掴む手に力が入った。
 口元を押さえる手を掴み、引き剥がそうとするが、ジャンの抵抗は強い。反対に私が掴む手首を強引に引き剥がそうと力を入れられ、それを抑えることに力を使ってしまう。
 黙って取っ組み合いを始めた私とジャンに対し、講義室内の視線が集まる。その中には、目下のジャンの天敵であるエレンの姿も横目に入った。おそらく、それをジャンも感知したのだろう。もしかしたら隣に座るミカサの視線が気になっただけなのかもしれない。
 他所へと意識を向けたジャンの手のひらが緩んだことで、私もまたそれに同調して突っぱねる手を解いた。1分足らずではあるが、全力で取っ組み合った代償か、訓練で強ばった腕が萎えるのを感じる。
 手のひらを振るうことで嫌な感覚を誤魔化し、本意ではないもののジャンに向けて手を差し出す。舌を打ち鳴らしながらも、私を一瞥したジャンもまた憮然とした表情で私へと手を伸ばした。弾かれた手を下げ、肩でおおきく息を吐くジャンと私を、マルコは心配そうに見つめていた。
「よし、ふたりとももう喧嘩は終わりだな。ジャンも仲直りしたんだったらに席を譲ってあげるんだ」
 ジャンの肩に手を置き、自分の隣に詰めるようにと促すマルコに視線を投げかけたジャンは、拗ねた子供のように口元を曲げる。目を細めてじっとマルコの表情を伺っていたジャンだったが、マルコが意見を変えないことを読み取ったのだろう。諦めたようにジャンは溜息を一つ吐きこぼし、私を振り返る。
「……しかたねぇから座っていいぜ。でもお前、講義中に無駄口叩いたりしたら……」
「私、マルコの隣がいい。マルコ、真ん中に座ってよ」
 今の感情のまま、ジャンの隣にいることは危険だ。ちょっとしたことでまた取っ組み合いになりかねないからこその防衛策としての提案だった。だが、ジャンにはそう聞こえなかったらしい。瞬間的に、先程以上の苛立ちをその表情に刻んだ。
「ハァ?! お前、いい加減にしろよ。マルコに迷惑かけるんじゃねぇよ」
「ジャン、落ち着け、もお前を怒らせるために言ったわけじゃないんだから」
 怒るジャンの肩に手を置き宥めるように叩いたマルコは、その柔らかな視線を私へと向ける。
「僕はいいよ。むしろ、僕が詰めるからがこっちに来るかい?」
「そうするー」
 マルコからの申し出に、即座に同意すると、自分を無視して勝手に話を進められたことに、ジャンは心底嫌そうに顔を歪めた。
 机と椅子が一体化しているため講義室の一番前か、一番後ろを横切らなければ反対側に行けない。チラリと両方へと視線を向け、前から回った方が近そうだと見当をつける。
「……クッソ。こっちこい、っ」
 マルコの隣へと向かうべくジャンに背を向けた途端、強引に腕を引かれた。背中側に倒れるのは危険だ。咄嗟の判断に体を反転させ、机の上に手をつこうとした。だが、バランスを崩した状態ではそれもうまくいかず、ジャンの膝に乗りかかるようになってしまう。
 間近で顔を見合わせた途端、私とジャンとの間で剣呑な雰囲気が噴出する。再戦だ。一瞬でそう意気込んだが、その不穏な空気も、肘から指先まで冷たくなるような痺れが走ると、そちらへと気を取られてしまう。
 転んだ拍子に肘を机にしたたかにぶつけてしまったせいなのだろう。あまりの痛みに生理的な涙が目元に浮かぶ。こんな痛みを受けたのは間違いなくジャンのせいだ。痛みと比例して恨みが
胸の内に広がる。涙を堪えるように目元に力を入れ、きつくジャンを睨み据えた。
「だから乱暴にしないでっていつも言ってるじゃない!」
「お前は紛らわしい言い方をヤメロ!」
 椅子の上に片膝をつき、ジャンの肩に手を乗せる。その肩に軽く握った拳を右左と何度も振り落とす私の糾弾を、ジャンは煩わし気に頭を振って拒絶した。だが、私の拳を黙って受け入れるジャンではない。手刀を額に落とされたかと思えば、今度は強引に腰を引かれ、隣に無理やり座るようにと押し込められる。
 釈然としないが、またバランスを崩しては適わない。そう思い、机に手をつくと、先程の訓練で痛めた指先が引き攣るのが分かった。
「痛っ」
 反射的に言葉が口をついて出た。私の声にジャンもマルコも私の様子を伺うように視線を差し向ける。痛みに眉根を寄せながら指先を検めると、訓練で負った細かな傷からほんの少しだけ血が滲んでいた。
 親指の腹で拭うと、それ以上は血が出ることは無いとわかったが、それで痛みが消える訳でもない。鈍く続く痛みに自然と唇が尖る。
「大丈夫? 
「んー……痛いけど、まぁ、大丈夫かな?」
 心配そうなマルコに、ジャン越しながらも笑いかけてみせる。軽く身体を傾けたせいで髪が横へと流れる。それを整えるために髪を梳いてみせると、傷口に引っかかってしまい、またしても指先に痛みが走った。反射的に顰めた顔を見咎めたジャンが小さく溜息を吐いた。
「おおげさにすんなよ」
「だってぇ……」
「あとで医務室に行っておくといいよ。たしか…今日の当番は……」
「あ、私だよ。
 記憶を探るマルコの言葉が耳に入ったのか、前の席に座っていたクリスタが振り返る。肩にかかる髪がふわりと舞い、肩に落ち着きながらもさらりと流れるさまが目に入ると、思わず息を飲んでしまうほどの可憐さがあった。
 もどかしい気持ちを抱えて目を見張っていると、クリスタの隣に座るユミルもまたこちらを振り返り、強い視線で牽制された。ただ、その視線は私だけではなく左に座るジャンやマルコへとも差し向けられたのだけど。
「座学が終わってからになるけれど……その後で一緒に医務室に行こうよ」
「うんっ! よろしくね」
 クリスタの誘いに、笑顔で応える。クリスタもまた安心したように笑った。だが、クリスタの隣に座るユミルだけは面白くなさそうに顔を顰める。チラリとその左隣に座るサシャに目を向けたが、サシャもユミルの怒りのポイントはわからないようで、私と視線を合わせつつも目を丸くするだけであった。
「おい」
 低い声で呼びかけられる。サシャから再度ユミルへと視線を転じれば、ユミルの手のひらがこちらへと差し出されていた。
、見せてみろ」
「う、うん」
 チッと舌を打ち鳴らしたユミルへおずおずと指先を差し出す。私のしおらしい態度とは違い、ユミルの対応は非常にワイルドだった。ガッと強く指先を握られたことには驚いてしまったけれど、乱雑な手つきであっても決して傷口に触れることはなかった。傷口に目を寄せ、検分したユミルは深い溜息を吐きこぼした。
「んだよ、随分騒ぐから裂けでもしたかと思えば……こんなもんツバつけとけば治るだろ」
「そう?」
 じゃあ、医務室に行くのはやめにしようかな。そんな言葉を返そうとした矢先だった。握り込まれた手が強引にユミルの口元へと連れて行かれる。チュッというリップ音が指先で響く。聞き慣れないその音に耳の裏に熱が走った。
 ユミルの行動に驚いたのはもちろん私だけではない。正面のクリスタも、横目に映るジャンもポカンと口を開いてユミルを見つめている。頬に走る熱を持て余した私は、感嘆の息を吐くことしかできなかった。
「……ヤッバイ。ユミルかっこいいー」
「アァ?」
 自然と唇から言葉がもれていた。心底嫌そうな反応を示したユミルは、目を細めて私を睨む。だけど、先程の行動のせいか、その刺々しい態度さえも、クールでかっこいいだなんて私の中で好意的に変換される。
「好きになっちゃいそう……」
「ハ?」
「え」
……?」
 ジャンやマルコ、クリスタの動揺を尻目に、ユミルにうっとりとした視線を差し向ける。私に対し、至極嫌そうに眉根を歪めたユミルの表情は固まる。ほんの少しだけ焦ったような表情を浮かべていたが、それでもユミルは無理やりその表情を笑顔に変えた。
「おいおい……お前、ただの距離感のおかしいガキかと思っていたが……どっちもイケルやつってことなのか?」
「わかんないけど……でも今のユミルにはグラっときちゃった」
 じっとユミルの目を見返す。いたずらっぽく目を細めてみせると、同じように私の瞳を射抜くユミルが小さく笑った。
「……別に私はお前くらいならいいぜ、遊んでやっても」
「ホント? じゃあ今夜一緒にいてくれる?」
「いいぜ。かわいがってやるよ、
 ユミルの手のひらが私の頬へと伸びる。柔らかく触れる手に、軽く頭を傾け摺り寄せた。だが、じっと見つめ合ったのも、ほんの一瞬の出来事で、顔を真っ赤にしたクリスタが私とユミルとの間に割って入ることで、絡み合った視線がクリスタの手のひらとともに引き剥がされた。
「ユミル! それにも、女の子なんだからそういう冗談を言ったらダメだよっ!」
「えへ、バレちゃった?」
 おどけた表情でべっと舌を出してクリスタに笑いかけてみせる。たしかにユミルの行動にドキドキはしたけれど、突然の接触に驚いただけだというのは自分自身が一番わかっていた。
 もっとも初恋もまだな私では、今感じている胸の高鳴りが恋ではないのだと完璧に否定することはできないのだけど。
「なんだよ、嫉妬するなよクリスタぁ」
「そういうのじゃないけど……」
 クリスタの肩を抱き、機嫌良く笑うユミルは私の悪戯心に加担した共犯者だ。アイコンタクトのみで悟ってくれたのは、私とユミルのふざけ方が似ているからなんだろう。また、浅い付き合いの中でもよくわかるほど正常な感覚を持つクリスタならば、私たちの悪ふざけをきちんと止めてくれるだろうという信頼があった。
「ね、ジャンも嫉妬した?」
 ユミルへと手を伸ばすために机にもたれかかっていた身体を起こしながら、隣に座るジャンに視線を向ける。ポカンと口を開いたまま固まっているジャンにニッと目を細めて笑いかけてみせると、ジャンはクリスタ以上に顔を赤く染め上げる。
「んなもんするかよっ! クソッタレっ!!」
 ダン、と強かに机を殴ったジャンは、その手を翻すや否や、私の顎を掴み、親指とそれ以外の指とで両頬を押し潰そうとする。自然と尖る唇で弁解の言葉を紡ぐことなどできるはずもなく、ただ空いた手でジャンの手を引き剥がそうと試みることしかできなかった。
「やめろよ、ジャンっ! が苦しそうだろ?!」
「いーや、コイツには説教よりも罰が必要だっ。二度と馬鹿なこと言えねぇようにしてやるっ……!」
「ダメだって! 女の子にさせていい顔じゃないっ」
 マルコの発言に、どれだけ不細工な顔をさせられているんだろうかと不安になってしまう。チラリとマルコに視線を向けてみたが、マルコはジャンを引き止めるのに精一杯な様子で私の方を見てはいなかった。
 マルコの努力の甲斐もあってか心底嫌そうに舌を打ち鳴らしながらも、ジャンは私から手を離す。顎を抑えて咳き込む私に一瞥を投げかけたジャンは、鼻を鳴らして苦言を口にする。
「クッソ。おい、…お前、本当に反省しろよ」
「うー……」
「なんだよ、その目は」
 納得がいかないわけではない。ただ、基本的にジャンが怒りっぽいという性質を差し引いても、ここまで怒られるようなふざけ方をした覚えもなかった。
 だが、反省してないにしろおとなしくした方が賢明だろう。頭を横に振り、敵意がないことを示すと、渋々といった様子ながらもジャンは私から視線を外した。その奥で、ジャンを宥めるマルコが、身体を机の方へと傾けながらも私に視線を合わせる。
「ジャンも抑えて……でもね、。クリスタの言うとおり滅多なことは言うもんじゃないと僕も思うよ。クリスタだけじゃなく僕も、ジャンも……結構驚かされちゃったから」
「ふぁーい」
 解放されたばかりの顎ではまともにしゃべれなくて随分と情けない声が出たが、素直に返事をするとマルコは困ったような表情で笑う。驚かせたいからこその悪ふざけだったのだが、マルコに窘められると、素直に従うべきだという気持ちが沸き起こる。
 ジャンも本当に驚いたんだろうか。机へと向き直り、ケホ、と顎を抑えながら咳をひとつこぼす。横目でジャンを見上げると、同じタイミングでジャンの視線が落ちてくる。目を細めたジャンの視線には、いつものような鋭さはない。訝しむように首を傾げれば、その角度に合わせてジャンの手のひらが私の額のうえで跳ねた。



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