進撃019

医務室


 窓から差す夕陽が彼女の金色の髪をやわらかく彩っていた。長いまつげにおおわれた青い瞳は一心に私の指先を見つめ、包帯を掴んだ白い指先は私の手元をくるくると回る。
 ――クリスタってやっぱりかわいいんだな。
 兼ねてからの感想を、改めて胸中でひとりごちる。押し黙ったまま、目の前に座るクリスタの所作を見守り続けて、何分くらい経ったのだろうか。指を替える毎に続いたその動きがハサミで断ち切られると同時に、青い瞳に私の姿が映りこんだ。
「よし、できた」
「ありがとー、クリスタ」
 見とれていた、だなんておくびにも出さずにお礼の言葉を差し出す。ふわりと表情を緩めたクリスタの笑顔は、想像以上にやわらかかった。
「ううん。でもしばらくは無理して重いもの持ったりしたらダメだよ」
「訓練次第だね。でもなるべくそうするよー」
 講義の後、約束どおりにクリスタは私を医務室へと誘った。消毒だけでいいと進言したのだが、クリスタはそれを許さなかった。結果、擦り傷というには仰々しいほどの処置が施し、私のすべての指先に、ひとつひとつ丁寧に包帯を巻いてくれた。
 巻いてもらったばかりの手を空中にかざし、手のひらをくるりと翻せばきれいに包帯が巻かれているのが目に入る。ほつれるところなんてひとつも見当たらない。完璧な処置だと言っても過言ではないだろう。
「器用だねー、クリスタ」
「そうかな? でもそう言って貰えたら嬉しいよ」
 照れた様子で頬を赤らめたクリスタに笑いかける。クリスタは今まで出会った同じ年の頃の友達の中では一番かわいいんじゃないだろうか。トロスト区で一緒だった子を思い返してみても、クリスタ以上に可憐だという言葉が似合う人はいなかった。
 その笑顔をひとりじめできたことに内心ホクホクしていると、クリスタが小さく身じろぎしながら私に視線を差し向ける。
「ん? どうしたの?」
「ううん、あの……その、たいしたことじゃないんだけど」
「うん、なぁに?」
 言いにくそうなクリスタに問いかける。うん、とひとつ頭を揺らしたクリスタはほんの少しだけ視線を巡らせたものの、顔を上げれば真っ直ぐに私の目を射抜いた。
は……この前の入団式のこと覚えてる?」
「うーん。多分、大体のことは覚えてると思うよ」
 入団式が始まってすぐの記憶は少し緊張していたということもありかなり曖昧だったが、例の通過儀礼を終えたあとのことは結構覚えている自信がある。もっとも、サシャの芋食い事件の直後の記憶はまったくといって残ってないのだけど。
「あの時のが、頭から離れなくて……」
「え、私? なんか変なことやったっけ?」
 クリスタの思わぬ言葉に目を丸くしてしまう。教官に頭突きされてしゃがみこんだジャンや、反対に宙に持ち上げられたコニーと比較したら、つつがなく洗礼を終えたと思いこんでいた。
 だが、客観的に見たら、なにかおかしなことになっていたのかもしれない。例えば、緊張のあまり、変な顔をしていただとか。
 ジャンに変な顔をするなと怒られた経験が脳裏に怒涛の勢いで閃く。単なる罵倒と流していたが、もしかしたら気付かないうちに顔を歪めていたのかもしれない。
 唇を突き出しながら、入団式の際にどういう心境だったか思い返していると、目の前のクリスタは慌てふためいたように言葉を発した。
「ううん! 違うの! そうじゃなくて……は、大切な人を守るために、兵団を選んだって言ったでしょ」
 驚いて目を白黒させる私に、クリスタは首を横に振って弁解する。
「目的がちゃんと決まってる人はカッコいいなって思ったの」
「やだなー。もう、照れるぅ」
 まっすぐなクリスタの言葉を正面から受け止めることに気恥ずかしさを感じた私は、いけないと思いながらも冷やかすような言葉を発してしまう。クスッと小さく笑ったクリスタは、照れないでよ、とほんの少しだけ語気を強めて怒ったフリをした。
「でもそういうことなら、”人類を救うため”って言ってた人もいたし、アルミンだって”人類の勝利のために”ってすっごく立派なことを言ってたよ」
 私にはそんなだいそれたことを成し遂げるほどの気概がない。だからこそ、大切な人を守る、だなんてちっぽけな理由を選んだ。だが、それは私なりの精一杯の言葉だった。自分の命さえ守ることが難しい世界で、誰かのことを守りきることさえ、生半可な気持ちではできないことを知っているからこそ、その相手を選びたいのだ。
 結果、教官に利己的な人間だという評価をくだされ、誰も守れないと否定された。だが当初の恨みはすでに無く、ジャンのように頭突きを食らわされたわけではないからいいかと、簡易的ながらも気持ちに折り合いをつけていた。
 私の言葉に目を瞬かせたクリスタは、困ったように眉根を寄せて小首を傾げた。
「そんなおおきなことは望んでいないの。ただ……私は、目の前にいるひとの、少しでも役に立てたらって……」
「だから、兵士に?」
「ううん。私もそんな立派な目的なんてないよ。ただ、私は開拓地にいたのと……」
 言いかけて、クリスタは口をつぐんだ。言葉を捜すように視線を彷徨わせたクリスタは押し黙ったまま唇を震わせる。
 開拓地にいた子が訓練兵になる、というのは少なくない。実際、直接成り行きを聞いたベルトルト以外にも、シガンシナ区出身のミカサやエレンたちもそうなのだと風の噂で聞いている。
 その頃の辛い記憶でも蘇ってきたのだろうか。自分の手指を絡めて耐える様子を見せるクリスタをじっと見つめ、神妙な顔つきで紡がれるはずの言葉を待った。
 数秒、言い淀んだクリスタは、小さく息を吐いて、消え入りそうな笑顔を浮かべる。
「ううん、ごめん。なんでもないの。ただ、私はここを選ばざるを得なかった、というだけから」
「うん……わかるよ」
 だから、多くを語らなくても大丈夫だよ。クリスタの苦しみのすべてをわかるはずがないが、そう声をかけずにはいられなかった。クリスタにも私の気持ちが伝わったようで、曖昧に微笑みながらではあるものの、うん、とひとつ頷いてくれた。
「私も……誰か、たいせつな人を見つけて、守りたい……だから、の言葉を、私も目標にしたいって思ったの」
 言葉を切り、頬を少しだけ赤らめたクリスタの眼差しは、俯いてはいるものの真っ直ぐに一点を見つめていた。そこに揺るぎない信念が垣間見えて、華奢なクリスタの意外な芯の強さを感じ取る。
 自然と、背筋の伸びるような思いがした。目の前に座る少女が、私に対して伝えてくれた心情に見合わない人間ではいたくないという気持ちがそうさせた。
 不意に、クリスタが視線を転じ、私を見上げた。先程と同様に真っ直ぐと伸びる視線に、ぐっと喉の奥が詰まるような心境に陥る。クリスタの青い瞳はどこまでも透明で、きれいで、見ているだけで引き寄せられるような力があった。
「あ、あのさー……ちょっといい?」
「え?」
 見つめ合う私たちの空気を引き裂くように、外野の声が入り込んできた。突然のことに私もクリスタも目を丸くして入口の方へと視線を差し向ける。だが、目に飛び込んできた光景に、ポカンとおおきく口を開けることとなった。
 声をかけてきたひとりだけがやってきたのだと思っていた。だが、実際はそうではなく、廊下の窓越しに見える限りでも、10を超える人数が、ドアをくぐり抜けられないものかと医務室の中を覗き込んでいた。
「俺たちも怪我しちゃってさ……クリスタ、手当してくれないかな」
 先頭の男子がチラリとクリスタへと視線を流す。頬を赤らめ、口ごもりながらも決して外されない視線。
それだけでクリスタを一目見ようと男子たちが鈴なりになって集まっているのだと知る。
 この人数をひとりで相手するのは骨が折れそうだ。だが、献身的なクリスタのことだ。きっと誰ひとりとして無碍に扱うことはないんだろう。
「あ、俺は同じ当番だから、アンタは帰っていいぞ」
「あ……うん」
 私の懸念を感じ取ったのか、別の男子が牽制してくる。名残惜しいような気がしてクリスタへと視線を向けると、クリスタもまた不安げに私を見つめていた。
 邪険に扱われるままに寮へ戻るよりも、クリスタに寄り添いたい。自分の内にある気持ちに従い、その場にとどまっていると人垣の間から、ひとりの女子が割って入ってくるのが目に入った。
「おい、なんだこの集団は」
「ユミル……!」
 救世主だ。きっとクリスタもそう感じたのだろう。私と同じ種類の笑みを浮かべたクリスタは一心にユミルを見つめ、瞳を輝かせた。
「……チッ。たいして痛くもねぇくせに集団で来やがって…」
 しょうもない、と口には出さず、大仰に溜息を吐いたユミルは威嚇するように鋭い視線で周囲を見渡す。剣呑な空気をまとうユミルの視線に萎縮したように男子たちは小さくなってしまう。
「お前ら、そんだけ人数いるんだから互いの傷は互いでどうにかするんだな」
 オラ、と言いながら傍らにあった椅子を蹴り出したユミルはこちらへと足を向ける。不機嫌そうなその表情も、クリスタの笑顔を目に入れた途端、簡単に緩んだ。
「クリスタ。私も指を擦りむいちまったんだ。手当、してくれるか?」
「でも……」
 チラリと、クリスタの視線が廊下へと向けられる。今日の当番としての自覚が、安易な方へと傾く気持ちに歯止めをかけたのだろう。チッと舌を打ち鳴らしたユミルの手のひらがクリスタの目の前へと伸びる。驚いて視線を転じたクリスタはユミルを見上げ、その視線を受けたユミルは口元を曲げてクリスタへと伸ばした手をそのまま彼女の頬にあてがった。
「いいだろ。あの中にはお前と同じ当番のやつだっている。きっちりそいつにも仕事をさせてやれ」
「う……うん」
 戸惑いながらも頷いたクリスタに、ユミルは満足そうに笑った。ユミルがいるなら安心だ。そう思った私は、ユミルに席を譲るように立ち上がり、椅子を差し出した。
「ユミル! こっち座って!」
「悪いな、。お前の手当はちゃんと終わったのか?」
「うん。見て見て。きれいに巻いてもらっちゃった」
「へぇ……器用なもんだな」
 私が見せびらかした包帯を検分しながら率直に褒めるユミルに対し、クリスタは照れくさそうに身をよじる。頬を赤らめたクリスタの表情を、一目見たいと、周囲の男子たちが再び沸いた。だが、番犬のように歯を剥いて睨み据えたユミルの迫力に負け、彼らは萎縮したように医務室の隅へと足を進めるだけであった。
「それじゃね、クリスタ。手当してくれてありがとー。ユミルもまた夕食の時にでも」
「うん、また後でね。
 ユミルはこちらを振り向かず、左手をかざして私への返事とした。ふたりへと手を振り、医務室から出ようとしたものの、我先にと医務室に入ろうとする男子たちに阻まれて出ることすらままならない。人の間をすり抜けて集団から出るのはなかなかの苦行だった。
 息の詰まる思いで、ようやく人垣の中から飛び出した私は、その外側で大きく息を吐くことしかできなかった。



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