進撃020

医務室前


「でっけぇ溜息だな。
 いまだ医務室の入口の前で争う男子たちの姿を尻目にさっさとこの場から退散しよう。そう思い、歩みを再開させた途端、真正面から軽口を叩きつけられる。驚いて目を丸くすると、歯を見せて笑うエレンが目に入った。機嫌良さそうに見えるエレンの笑顔は、私を小馬鹿にするためだけに浮かべられたもののようだ。
「わっ、エレン」
「って……なんだよ、この人集りはっ」
 角を曲がりきる前に私と鉢合わせしたエレンは、医務室の異様な雰囲気を目の当たりにして顔を歪めた。その反応も無理もない。私も今しがた抜け出してきたばかりだからわかる。今、この訓練兵舎の中で一番、突入困難な場所は、間違いなく医務室だと断言できる。
「クリスタ目当てなんだよ、彼ら」
 溜息を添えてエレンにそう伝えると、エレンは顰めた顔をこちらへと向ける。どういう意味の表情か測りかねて首を傾けると、エレンは更に唇を尖らせた。
「クリスタって……あの小さいやつか? なんだってこんなに人が集まるんだよ」
 まったく意味がわからない、というように顔を歪めたエレンに、肩を竦めてみせる。
「かわいいからおしゃべりしてみたいんじゃない?」
「……なんだ、。お前、お呼びじゃないって追い出されたのかよ」
「違うもん! 処置が終わったから出てきたの!」
 顰めっ面を呆れ顔に変えたエレンの眼前に、処置を施されたばかりの両手を見せつけるように差し出し反論する。この際、とある当番の少年に、暗に出て行けと言われたことは内緒にさせてもらう。
――そういうエレンこそ実はクリスタ目当てに来たんじゃないの?
 そんな風に軽口を返してやろうか。意地悪な考えが頭をもたげたが、どう考えても悪ノリを慎ましく受けてくれるタイプではないエレンに、攻撃的な言葉を投げかけることははばかられる。
 それ以前に、昨日の訓練での失敗のせいで怪我だらけのエレンにかける言葉としては相応しくないことは明白だった。無視して言ったところで、見て分からないのかと益々呆れられることだろう。
 釈然としない思いを抱えたままではあるが、ひとつ、息を吐き出し気持ちを入れ替える。
「そういうエレンはどうしたの? って聞くまでもないんだろうけど」
「治療だよ、治療。オレは別に平気だって言ったんだけどミカサが行けってうるさくて」
 額に貼られたガーゼを指先で引っ掻くエレンは唇を真一文字に引き締め、不服であるとその表情に刻んだ。反抗期なのだと書いてあるようなエレンの顔つきに、思わずクスッと笑ってしまう。どうやらエレンは、ミカサに母親のように振舞われているらしい。
「傷口が化膿するといけないからかなー」
「それはアルミンにも言われたし……わかってるから」
 説教はもうごめんだ、とばかりに頭を横に振るうエレンは、大仰に溜息を吐きこぼす。口をつぐんでじっとエレンを見つめると、エレンはバツが悪そうな表情で私を睨みつけた。
「別に、怒ったわけじゃねぇぞ」
「ん、わかってるよー」
 八つ当たりであったと反省する素振りを見せるエレンに、大丈夫だと頷いてみせる。こういう誤解を弁明されることには慣れている。言い訳がましく顔を顰めるジャンを脳裏に浮かべた。似ていると伝えたらエレンは今度こそ本当に怒るんだろうな。
「あ、そうだ。さっきの講義ではごめんね」
「は? 何がだよ。お前、オレになにかしたか?」
 ジャンのことを思い出した私は、今日の講義前のことを話題に出した。私たちが取っ組み合っている姿を眺めていたエレンは、さっきと同じように顰めた顔をしていことも同時に思い出したからだ。
「エレンにってわけじゃないんだけど……ホラ、私、講義が始まる前にジャンと喧嘩してたでしょ? うるさかったかなーって」
「あぁ、アレか。別に、気にするほどのことじゃねぇだろ」
「そう言ってもらえると助かるよー」
「おう。それに、オレはみたいな骨のあるやつは好きだしな」
 極あっさりとした態度で、とんでもない爆弾を落としたエレンに、え、と思わず言葉をこぼす。私が戸惑っているさまを目にしたエレンは、ほんの少しだけ目元を緩めた。
はやられたから、やり返しただけだろ。喧嘩を仕掛けてくるバカどもに、負けまいとするやつは嫌いじゃない」
 好きだと言った理由を明確に提示したエレンは物騒な言葉を引っさげて自信たっぷりに笑う。なるほど。今のは好きな女性のタイプといった話ではなく、人類全般に向けたものらしい。一瞬でもドキッとしてしまった自分を誤魔化すようにエレンから視線を外す。今後もエレンに向けられる言葉に、いちいち惑わない方が良さそうだ。
 クリスタとは違う種類の真っ直ぐさから目をそらし、自分を戒める。口元を引き締めたまま、目を何度も瞬かせていると、エレンは不敵に笑った。
「でも、まぁ、お前らが気を許し合っているということは見ていたらわかるから大目に見てやるよ」
「私とジャンはもう腐れ縁みたいなものだからね」
 許すとか許さないとか。もはやそう言うことを気にするような間柄ではない。何度喧嘩をしても、それと同じ数だけ仲直りをしてきた。細い糸が幾重にも紡がれればやがて太い綱になるのと同じように、喧嘩を繰り返したからこそ、強くなった絆がある。
「だから仲いいんだー。私たち」
 口元を緩めてそう言うと、エレンは眉を下げて息を吐いた。その溜息には呆れよりも、親愛が込められているかのように感じる。
「どうしてあんなやつと仲良くやっていけるのかはちっともわからないがな」
「ふふっ。それは私にもわかんないよ」
 意外といい子なんだよ、とエレンに伝えるためには、もう少し時間が経ってからの方がよさそうだ。私が知る限りでは、ジャンとエレンとの間で交わされた会話は棘のあるものしか発生していない。喧嘩以外のことでジャンと関わってもらわないと、今のエレンには肯定してもらえないことはわかりきっている。
 曖昧に肯定してみせると、エレンはフッと小さく笑った。
「まぁ、正直者だって自分で言ってたからな、あいつ……ちゃんと喋ってもねぇのにイヤなやつだって判断するのも早計かもな」
「エレンも正直そうだよね」
「……まぁ、嘘はつかねぇようにしてるけど」
 さらりと思うがままの言葉を差し出すと、エレンは苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべた。どうやら今の発言はお気に召さなかったらしい。
 ジャンと似ているんじゃないかと言われたように感じてしまったのだろうか。でも、エレンの直向きさは、正直者に分類してもおかしいとは思えないんだけどな。
 じっとエレンの表情を伺っていると、その視線が気になったのか、エレンの手のひらが私の目元を覆うように伸びる。反射的に目をつぶれば、軽く押し返すかのように、エレンの掌底が私の額に触れた。上体を仰け反らせ、離れたばかりの手のひらを視線で追うと、柔らかく笑んだエレンと視線が交わる。
「お前はバカ正直なタイプのようだな」
 あまりにストレートな言葉だった。だがエレンの表情のせいか、その言葉に棘はないのだと信じられる。言葉は違えど、ジャンにも散々似たようなことを言われてきたのに、表情の差でこんなにも受け止め方が変わるとは、と内心で感服する。
「まぁ、オレもバカ正直って点では、と一緒だ。周りから馬鹿に見えたとしても、オレにはオレの、信念がある」
「……調査兵団に入る、ってこと?」
 初日の夕食の時、エレンは確かにそう宣言していた。あの時、私は初めてエレンに興味を持ったのだ。あの日、言えなかった言葉はそのまま伝えないまま胸の内にある。同志であることは、エレンには言わないと決めた。いずれ卒業の時を迎えた時に、エレンの心変わりがなければ、その時に打ち明ければいいだろう。今ではそう思っている。
 私がエレンの志望兵団を知っていたことに驚いたのか、意外そうに目を丸くしたエレンに、「もうみんな知ってるよ」とだけ伝えた。
 コホンとひとつ、咳を払ったエレンは、真っ直ぐに私を見つめ、静かに口を開いた。
「それは通過点だ。……オレは、この世から巨人をすべて駆逐する。そのためには、立ち止まってらんねぇし、意見の違うやつに何を言われても、考えを変える気はない」
 まっすぐなエレンの言葉に、私は黙って耳を傾けていた。調査兵団への憧れだけではなく、それが自分の生きる理由だと言わんばかりにきっぱりと言い切ったエレンは、その瞳に強く光る熱を宿していた。
「応援してるよ……」
「あぁ。――……弱音なんて、吐いてらんねぇよな」
 不意に視線を落としたエレンの小さな声で紡がれた泣き言は、エレンの心の底にほんの少しだけ残った弱い部分だったんだろう。かすかに見せられた本音を、ただ黙って受け止める。俯いていた視線をかすかに持ち上げ、私と視線を合わせたエレンに、ほんのりと口元を緩めて笑いかける。互いに口を閉ざしたまま、うんとひとつ頷き合った。
「頑張ろうね、エレン」
 いずれ、共に戦うために。伝えられない本音を隠したままだけど、その言葉もまた、私の本心からのものだった。
「あぁ。そうだな。お前もジャンに負けるなよ」
 先程までの神妙な顔つきを払拭したエレンに触発され、私もまた浮かべていた笑みを種類の違うものへ変える。いつものように、いたずらっぽく歯を見せて笑えば、湿っぽい空気はそれだけでどこかへと飛んでいった。
「それもいいかもね。ジャンは憲兵団目指しているみたいだし、それを阻むためにも10位以内を目指してみよっかな」
「お前……それじゃ相当努力しないと叶わないぞ」
「……だよね」
 調子に乗った私の言葉を、エレンは呆れ顔を隠しもせず溜息混じりに否定した。思わず目を細め、呻き声を上げる。しょんぼりと消沈している私に見向きもせず、視線を医務室へと伸ばしたエレンは、お、と感嘆の声を漏らした。
「さっきより引いたな」
 エレンの言葉に、顔を上げ、首を伸ばして医務室の中を覗き見る。医務室の中にはクリスタとユミルの他には数名しか残っていない。あんなにたくさんいたはずの人数が、ごっそりと減ってしまったのかと目を瞬かせる。大方、私とエレンがしゃべっている間に、正論と私情を並べ立てたユミルに阻まれて諦めたのだろう。
「じゃあ、オレ行くわ。またな、
「うん、お大事に。エレン」
 手のひらをひらりとかざしたエレンは、そのまま医務室の中へと吸い込まれていく。途端に「まだ来んのかよ!」とユミルの怒鳴り声が弾けたが、入ってきたのが傷だらけのエレンだと気付いたユミルがふたつめの怒声を響かせることはなかった。
!」
 医務室の中の様子を微笑ましいな、だなんて眺めていると、不意に声をかけられた。驚いて声のした方へと視線を向けるのと、私の腕がその相手に取られたのはほぼ同時のことだった。
「ベルトルト?」
 顔を上げればすぐさま心配そうな瞳と視線がかち合った。正面に立ち、息を弾ませたベルトルトは、呼吸を整える間も私のことを真剣に見つめている。
 普段の温厚そうなベルトルトからは想像もつかないほど、眉根を厳しく寄せた表情に戸惑う。強く握られた腕の痛みもあいまって、尚更困惑してしまった。
「……さっきまで……向かいの兵舎にいて……が、医務室から出てくるのが見えたから…」
 訥々と言葉を紡ぎ始めたベルトルトは、ひとつ、息を大きく吸い込み、そして吐き出しながら、かすかに曲げていた背を起こした。
「どこか、具合でも悪いの?」
 ベルトルトの言葉に、思わず目を丸くしてしまう。息を切らしているのも、真剣な表情を浮かべているのも、すべて私のためなのだと言われた気がしたからだ。触れた手の力強さは、母親にすがる子供の手のようだ。ベルトルトの不安が、私に痛みとして伝わって来る。
「もう……心配症なんだから、ベルトルトは」
 浅く呼吸を整えるベルトルトの腰に腕を回し、ポンポンと2回、労わるように叩く。そのまま腕を引き、ベルトルトの眼前へと手を差し出した。
「今日の訓練でできた傷でーす」
 この日、何度目かの説明を口にする。両手のひらを肩の高さに下ろしながらベルトルトへ見せつける。なんてことない、という代わりに差し出したはずだったのに、大仰に巻かれた包帯は逆効果だったらしい。惨状を目にしたベルトルトは益々顔を顰めた。
「傷って……こんなに巻かれて……」
「傷自体は大したことないよ! でもクリスタが念のためって……きれいに巻いてくれたんだ」
「本当に? 痛くない?」
「ちゃんと処置してもらったから平気だよ」
 ベルトルトの不安をひとつひとつぬぐい去る。私の言葉にホッとしたように息を吐いたベルトルトは、ようやくいつものように穏やかな笑みを浮かべた。ベルトルトの手のひらから力が抜けていくのを肌で感じながら、私もまた微笑んでベルトルトを見上げた。
「心配してくれてありがとね」
「いや、僕が勝手に変な誤解をしてしまっただけだから……あっ……ごめん……」
 気分が落ち着いたことで、ベルトルトは私の腕を掴んでいたことに気が回ったらしい。謝罪とともに離れていく手のひらを、今度は私が追いかけて捕まえる。やわらかな手のひらは、先程の訓練で痛めたところなど無いようで、ひどくなめらかだと感じた。
 手のひらに触れたのは束の間だった。一瞬、応えるように握りこまれた指先は、パッと離れてそのままベルトルトの背中へと隠れてしまう。その反応に苦笑しながらも、改めて私はベルトルトに笑いかけた。
「もうすぐ夕食の時間だよね? ベルトルトはもうほかに用事はないの?」
「うん、さっきまでの当番は終わったから、大丈夫だよ」
 向かいの兵舎にいたのは、座学で使った資料の余り分を保管室へ運んでたからなんだ、とベルトルトは補足する。
「じゃあ……ちょっと早いけど私、食堂に行こうと思ってるんだよね。ベルトルトはどうする? 一緒に行ってくれる?」
「あぁ、もちろん僕も行くよ」
「よかった。じゃあ、一緒に行こー」
「うん。行こう」
 隣に並んで歩き始めたベルトルトの腕をそっと取ると、今度はベルトルトは応えてくれる。きゅっと肘を締めて自分の脇腹との間に私の腕を挟み込んだベルトルトは、私を振り返り、そっと微笑んだ。



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