進撃021

井戸①


 ベルトルトと共に食堂へと向かい、中で合流したアニとミーナとで夕食を食べ終えれば、あとはもう自由時間に突入する。通常であれば、そうなるはずなのだが、あいにく今日は水汲みの当番が控えている。これで当番がなければ完璧だったのにな、と愚痴を零せば、同じ当番のサシャもまた笑って同意してくれた。
「たしかに、一日の訓練の最後が水汲み当番というのは運が悪いとしか言えませんよね」
「ねー。ご飯食べた後って気が緩んでるから体動かすのがいつも以上に辛くなっちゃう」
「わかります! さっき食べたばかりなのにお腹がすいちゃいますよね!」
 いつもお腹を減らしている印象の強いサシャの言葉に思わず苦笑する。基本的にはスープとパンのみ。たまに蒸した芋などの大皿料理が一品、という献立では、成長期の私たちの胃袋を満たすことは難しい。だが、今は土地が減って食べ物自体が飽和にあるわけではない現状を鑑みるにそうわがままも言っていられないのが現実だ。
 それでもなお、お腹が減れば苦しいのだと毎度正直に口にするサシャの素直さが、なんだかかわいかった。クスクスと笑っていると、井戸へと繋がるロープを引くサシャがきょとんと目を丸くして私を見つめていた。
 井戸の縁に手を置き、前傾していた身体を起こしながらサシャに向き直る。
「次、私が汲んでみるよ」
「かしこまりました。……じゃあ、。こちらを」
 引き上げたばかりの水を樽に移したサシャから、空になった桶を受け取る。井戸の中に投げ入れ、底を覗き込む。暗い夜の中では、かすかに星のきらめきが水面に反射して見えるだけだった。特に面白そうなことはなさそうだ、と見切りをつける。作業を再開させるべく持ち手を引くと、随分古い設備のようで、キシキシとロープと滑車の擦れる不安な音がその場に響いた。
 ユミルとクリスタの当番の時に手伝った経験をもつサシャに要領を聞きながら手順通りに進める。そのおかげか、予定していた時間よりもかなり早くにすべての貯水場に水を回すことができた。
「お疲れさまでした。
「うん、サシャもお疲れさま。いろいろ教えてくれたおかげで捗ったよ」
 額に浮いた汗を拭うべく、シャツの袖口を押し付けるサシャの労いの言葉に、私もまた笑いかけながら応じる。
「それはクリスタたちのおかげでもあるので。お礼はふたりに伝えてください」
「ん。今度会った時にそうするね」
 違う。サシャがユミルたちの手伝いを頑張ったからこその成果だ。そのように強く言い募ることもできた。だが、照れくさそうに笑うサシャの表情に、しつこく言うのもはばかられるため、そこはあっさり流すことにした。
「では、私はこの次は皿洗いと明日の朝食の下準備があるので、この辺で」
「今度はユミルの手伝い? ほどほどにね」
「そうですね。気をつけます。……あ、も一緒に来ますか?」
「んー……私はちょっと休憩してから戻ろうかな」
「わかりました。それではまた、後で」
 一礼してこの場を立ち去っていくサシャの背中を見送りながら、小さく溜息を吐いた。たった今、ひとつの当番を終えたばかりだというのにまったく疲れを見せないなんて、本当にサシャはタフだなぁ。
 ユミルからの情報では、サシャは狩猟を生業とする家の子で、ここに来る前は山で暮らしていたという話だ。平地で暮らしてた私とはやっぱり基礎的な体力が違うよなぁ、と感心する。
 座学もあったが全身運動を繰り返すことにまだ体が慣れていない。疲労は重く身体全体にのしかかっている。寮に戻ってゆっくりするのも、ひとつの手だが――。
 汲んだばかりの水を横目に、周囲をほんの少しだけ警戒する。誰の目もないことを確認し、隠していたジョッキを箱の中から取り出した。夕飯の際に使用したものを勝手に持ってきたものだが、あとでこっそり洗って返却していれば、きっとバレることはないだろう。
 心の中で誰にともなくゴメンねと手を合わせ、汲んだばかりの水をジョッキに注ぐ。そのまま口をつければ、後はもう喉を鳴らして飲むだけだった。
 労働の後の冷たい水というのはどうしてこんなにも美味しいんだろうか。一息に飲み干し、ぷはっと大きくひとつ息を吐く。汲んだばかりということもあり、清涼感が心地よい喉越しをもたらした。飲み下した水が身体に行き渡るのを感じながら、もうひとつ大きく息を吐き、空を仰いだ。
 今日の夜空も、昨日と同様にきれいで、真っ暗な中でもわかるほどに澄み切っていた。雲一つない空に、星が無数に瞬いている。
 山の上から見るともっときれいなんだろうな、と、ぼうっと空を眺めていると、不意に近くから声をかけられる。
「よぅ。俺にも一杯分けてくれないか」
「うん、いいよー。あ……」
 声を掛けられ、振り返れば、自信あり気な笑みを口元に浮かべた少年と視線がかち合った。目があった瞬間、その目元は柔らかく細められる。胸の前で両腕を組んでいた彼がその手を解くのに合わせて、新しい水を注いだジョッキを手渡す。
 先程の私と同じように一息に飲み干した彼は、息を吐きながらその太い腕で口元の水を拭った。
「昨夜の件なんだが……特に誰にも言わないでいてくれたみたいだな」
 彼の言葉に、昨夜、彼がベルトルトたちと共に山の中に入っていく姿を見かけたことを思い出す。それと同時に、彼が「ナイショだ」と口元に指先を当てた姿が脳裏をよぎった。
 規則として就寝時間までは自由と定められてはいるが、勝手な行動はあまり褒められたものでは無いことを暗に感じているのだろう。私の正面に立った彼は、安心したように笑った。
「言わないよー。脱走するってのなら引き止めればよかったって後悔しちゃいそうだけど……それに私だってあの時間に山の中にいたのは同じなだからさ。お互い様だよ」
 教官に対して夜間に外を出歩いていた者を報告する義務もメリットもない。こういうのは互いに黙認するのが一番都合がいいのだ。ニッと笑いかけてみせると、彼もまた口元を緩める。
「それもそうだな」
 くつくつと喉の奥で笑う彼の共犯者に対して向ける笑顔は、爽やかとは程遠いのに微塵も嫌な感じはしなかった。
「それよりさ、君、名前ってなんだっけ。あ、私はっていうんだけど」
「そう言えば名乗っていなかったな」
 私の言葉に目を丸くした彼と、言葉を交わした回数は少なくない。そのほとんどが私とジャンがじゃれていたことに対して、彼が注意を促すものだった。そのような状況では、簡単に彼に名前を尋ねることはできなかった。
「ライナーだ。ライナー・ブラウン」
 井戸の縁にジョッキを置いた彼――ライナーはまっすぐに私に向かって手のひらを差し出す。躊躇いなくその手を取り、固い握手を交わした。
 ほかの人よりも体温が高いのか、包帯越しであってもライナーの手のひらの熱が強く伝わってくる。初めて触れた時にも感じた懐かしさは、3度目の接触であっても同様に感じ取れた。むしろ手のひらの熱を改めて強く感じたことでその既視感もまた印象強く私の中に渦巻いた。
「すると、あれか。お前は名前も知らない男に2回も注意されていたのか」
「そうなっちゃうねー。でも実際、聞きづらいよ。注意されたタイミングで名前聞くのって」
「そうか?」
「そうだって! おう、お前名前教えろやテメェ覚えたからな、なーんてことになっちゃう」
「はは、それもそうだな」
 わざとらしく低い声でおどけてみせると、ライナーは白い歯を見せて笑った。笑うと途端にいかつさが解けるライナーの表情をまじまじと見つめる。馴染みのない私を相手にハッキリと注意することが出来るライナーは、生真面目なタイプかと思いきや、どうやら違うらしい。
 兄貴肌、というのが一番しっくりくる解釈なのだろう。そう自分の中で結論づけていると、私の視線を受け止めたライナーが「どうした?」と柔らかく目を細める。
「……ライナー」
「なんだ?」
 名前を呼びかけてみると、ライナーは胸の前で両腕を組みながら、私の目を真っ直ぐに射抜いた。
 呼びかけたことのない名前だ。幼い頃の記憶には確証がないが、少なくとも今の時点では記憶に残っていない。だが、それでも初めて彼と喋った時の感覚を疑いたくなかった。
「ねぇ、ライナー」
「ん?」
「前に、どこかで会ったことないかな?」
 直球で質問を投げ込んで見せると、ライナーは面食らったように目を丸くし、それから顔を顰めた。記憶を探るものとしてはだいぶ鋭くなった表情に、必要以上に緊張してしまう。ほかの男子と比べて、ライナーは大人っぽく、また精悍な顔つきだからこそ、少しの変化を目の当たりにしただけで、その迫力がダイレクトに伝わってきた。
「俺とか? いや、覚えがないな」
「そっか。ごめんね、変なこと聞いちゃって」
 私にもない記憶を、ライナーにぶつけるのも変な話だ。本当に会ったことがあるのに私が忘れているだけ、という可能性に賭けてみたのだがお互い記憶にないのなら、単なる私の勘違いなんだろう。
「どうしたんだ。なにか引っかかるものがあるのか」
 反対に質問をぶつけられたことで、今度は私が顔を顰める番となった。チラリとライナーに一瞥を流し、戻した視線を自分の手元に落とすと、先程触れ合ったばかりの手のひらの中心をじっと見つめた。
 見つめているだけで、手のひらの中心に熱が蘇ってくるようだ。その熱の記憶は、靄がかかったように朧気ながらも、確かに私の手のひらに深く刻み込まれている。
「なんとなく、手が、ね……懐かしい気がしたの」
 手のひらを閉じ、開き、それを2回ずつ繰り返しながらぽつりと言葉をこぼした。前にどこかで抱きしめられるか、手のひらに触れたかしたんじゃないかという疑念は、先程きれいに払拭されたばかりだ。それがひどく残念だと感じるのは、私の身勝手な被害妄想で、ライナーには微塵も関係のないことだ。
「……そうか。悪いな、覚えていなくて」
「ううん、ただ単に父さんと似てたってだけなのかも」
 頭を振って、なんでもないのだと伝えると、ライナーは納得がいかないかのようにほんの少しだけ顔を顰めたがそれ以上はなにも追求してこなかった。
 漂い始めた重い空気を消し去りたくて無理矢理に笑いかけてみせると、ライナーの表情は更に苦いものへと変貌する。眉を下げてライナーを見上げても、彼の表情が解けることはなかった。
 困ったな。私、場の雰囲気を誤魔化すのは結構得意なはずなのに。自分が思っている以上に、がっかりしているらしい。
 ライナーの困った顔を見ていられなくなって、思わず視線を外してしまう。井戸へと向き直り、ひとつ、深呼吸をした。手持ち無沙汰になった手で、ライナーが置いたばかりのジョッキを手にし、そしてまたその場に置いた。落ち着きのない様子を見せる私を、ライナーがジッと見つめているだろう気配を背中に感じる。
 落ち込んだ気持ちをぬぐい去るために、両手のひらを自分の両頬に押し付け、微妙になってしまっているだろう顔を解した。

 しょげて項垂れた私の背中に、低い声がかけられる。それと同時に、ライナーの大きな手のひらが私の頭の上に乗っかった。背中越しに振り仰いでみせると、穏やかな笑みを浮かべたライナーと視線がかち合う。
「もしかしたら忘れているだけなのかもしれない。俺も考えておくが、お前も思い出すようなことがあれば教えてくれ」
 実直に差し向けられた眼差しに、急激に胸の内が熱くなるのを感じた。内心でその熱を持て余してしまった私は、言葉が出せない代わりにひとつだけ頷いた。



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