進撃023

井戸③


「じゃあさ、ライナーたちは? あれからも登っていったのならどこまで辿り着いたの?」
 話題をすり替えるような気持ちもありつつ、率直な疑問を投げかける。組んでいた腕をほどき、自分の首の裏に手のひらを持っていったライナーはゆうべの記憶を探るように、視線を空へと投げかけた。
 夜空を見上げるライナーのまなざしは、月の光によって尚更に煌めいている。星屑が落ちてきたみたいだ。手が届きそうな瞬きに、うっかりすると実際に手を差し伸べてしまいそうだった。
「そうだな……丘の先の切り立った……崖のような場所までは行ったな」
 言って、私を見下ろしたライナーの真っ直ぐな視線に、ぐっと喉の奥に力が入った。慣れない感覚に戸惑いながらも、反射的に飲み下し、努めて明るく言葉を返す。
「へー。怖くなかったの?」
「崖から落ちそうなほど近付かなかったし、ちょうど月も出始めて明るかったからな」
「そういえば、ゆうべは満月だったもんね」
 綺麗だった、と続けるとライナーはほんの少しだけ眉を顰め、複雑そうな表情を浮かべた。その変化に、軽く首を傾げてみせる。なんでもないという代わりに、小さく頭を振ったライナーは、目を細め、歯を見せて笑う。
「あとは……そうだな、空には星が見えたし、眼下には湖があった。女を口説くには良い場かもしれないな――と、言っても実際はむさくるしい野郎しかその場にはいなかったんだがな」
 おどけるような言葉に、思わず声に出して笑ってしまった。一緒にいた5人を思い返し、その中でも一番むさくるしいであろうライナーもまた肩を揺らして笑う。それだけで、ほんの少しだけ重苦しさを見せていた空気も、一瞬で消え失せたのを感じた。
「いいな。そういうちょっとした探検って面白そう」
「そうか?」
「ねぇ、いつか私も連れてってよ」
「構わんが……どうするんだ。俺がお前を口説くかもしれんぞ」
 真面目そうな顔つきで差し出された放言に、はは、と大きな声で笑ってしまう。ほぼ初対面と言っても変わらないような間柄で色恋に関する冗談を言うようなタイプには見えなかったから尚更おかしかった。
「その時はその場の空気にお任せしちゃうかもね」
 さりげなく躱すような言葉を選んだ。期待を持たせるというよりも、空気を白けさせないために、だ。正しく伝わるだろうと思った言葉も、ライナーが顔を顰めたことで空振りに終わったことを知る。
「俺がからかっておいてなんだが、そんなことを言うと、彼氏が泣くぞ」
「彼氏?」
 身に覚えのない単語に、目を丸くする。そんなもの、生まれてこの方、一度だって出来たことがない。あ、でもゆうべ、似たようなことをユミルに言われた気がするな。なんだったっけ。
 記憶の断片に触れたことでゆうべの出来事に思いを巡らせたが、記憶を遡りきるよりも先にライナーが手のひらを翻し言葉を続ける。
「いるだろう。ホラ、いつもお前と一緒にいる……人相の悪い、えっと……名前は、なんだったか」
 その2つのキーワードで、ピンと脳裏に閃く顔があった。そうだ。ゆうべもユミル、そしてクリスタにも、私とその幼馴染との間柄を疑われたんだ。
「ねぇ、それってもしかしてジャンのこと?」
「あぁ、多分、そいつだな。エレンと折り合いが悪そうなやつ……であってるか?」
 ライナーの問い掛けに、2回頷いた。お互いの思い浮かべる相手が同じであることを確認し、改めてライナーに向き直る。相変わらずまっすぐに注がれる視線には、今しがたの自分の言葉を微塵も疑ってないのだとありありと刻まれていた。小さな溜息を吐きこぼし、眉を下げてライナーを見上げる。
「ホントそう見えるんだね……」
 私の表情を見つめ、目を瞬かせたライナーは心底意外そうに首を傾げた。
「なんだ、違うのか」
「うん。違うよー。そんな予定まるでなし!」
 胸の前で腕を交差させ、大きくバツを作ってみせると、ライナーは面食らったように目を丸くする。よっぽど自分の認識に自信があったのだろうということがその表情を見ただけで分かった。
 思わず苦笑が漏れる。やっぱりジャンの言うとおり、ある程度の距離を保った方がいいのかもしれない。今回はライナーに聞かれたからちゃんと否定できたけど、聞かれなければずっとその誤解を相手に与え続けることになってしまう。
――でも今日に限っては、言い出しっぺのジャンの方が私の手を掴んで歩いたんだし、私のせいじゃないんだよなぁ。
 どう振る舞うのが最善なのか。その辺のさじ加減がよくわからない。恋愛に関する経験値が低すぎるのが原因なんだろうが、そもそも、仲のいい友人に対し、遠慮なく触れることの何がおかしいんだろう。ジャンだけじゃなく、今日に関して言えばミカサやベルトルトとだって腕を組んで歩いたというのに、その辺りについては誰も何も言ってこないところを省みると取り立てた問題ではなかったように思われる。
 うんうん、と頭をひねってみたものの、解決策は見い出せない。唸り始めた私を目にしたライナーが渋い表情を浮かべる。
「悪いな、。まさかそんなにお前が思いつめるほどのことを言ったつもりはなかったんだ」
「ううん。怒ったとか傷ついたとか、そういうのは無いから大丈夫だよ。ただ普通に仲良くしてるだけなのに、それで誤解されちゃうとどうしたらいいのかなって迷っちゃって」
 頭を振って応えると、ライナーもまた複雑そうな表情を浮かべて私を見下ろした。気まずそうに後ろ頭を掻いたライナーは私から視線を外し、足元の土を爪先で蹴るようなしぐさを見せる。
「お似合いだと思ったんだよ。気心のしれている相手であっても、なかなかこの年まで男女でつるむことは少ないから、な」
「そういうもんなのかな」
「まぁ、お前が違うというならそうなんだろう。妙な勘繰りを入れてすまなかった」
「ううん、気にしてないから平気だよ」
 へらっと笑って応じると、ライナーは私へと視線を戻し、またしてもその細い眉を顰めた。
「……気にはしたほうがいいと思うがな」
「そう?」
「でないと、お前のことをジャンのものだと認識したやつらから敬遠されるぞ」
 呆れたような表情で告げられた言葉に、今度は私が顔を顰める番だった。
「えー……それはちょっと嫌かも」
 うえっ、と大きく口を開けて舌を出す。うんざりとした顔つきが面白かったのか、ライナーの目元がかすかに和らいだ。
「まぁ……でも、気をつけるかは分かんないけど……心がけては見るよ。ありがとね」
 ライナーの忠告は、私のことを考えて伝えてくれたものだ。素直に受け止めるべく、感謝の言葉と共に笑いかけてみせる。さらりと流されて然るべき反応だと思っていた。だが、目の前のライナーは、私の表情を見つめ、かすかに目を見開く。衝撃とは呼べないほど小さな反応だが、ライナーが驚いたように、私には見えた。
「……なぁ、
「ん?」
「俺はお前と……本当にどこかで会ったことがあるのか?」
「え、無いんじゃなかったの?」
 先程、否定されたばかりの憶測を簡単に覆されたことに、驚いて目を丸くしてしまう。軽く上体をのけぞらせてライナーを見上げてみたが、ライナーが冗談を言っているようには見えなくて、ますます戸惑いが強くなる。
「いや。そのはずなんだが……」
 口元を手のひらで覆い隠し、眉根を寄せて思案する様子を見せるライナーは、私の表情を押し黙ったまま見下ろしている。
 まっすぐに伸びてくる視線に気圧され、呼吸がままらないような心地が生まれる。ライナーの視線から逃げ出したいような心地と、視線を外すことが惜しいような気持ちがせめぎ合う。
 逡巡は一瞬で決着を迎える。勝ったのは後者だった。胸の前の衣服を掴み、逃げるような心境を押さえつけ、真摯に注がれる視線を、私もまた黙ったまま受け止めた。
 それでも逃げ出したいという思いは消えなくて、たった数秒の出来事がいやに長く感じてしまう。ライナーの瞳が、私の瞳を見返している。ただそれだけで、体中の熱が、目元に集まってくるような感覚が走った。
 ひとつ、ライナーが息を吐きだした。諦念にまみれた息遣いは、ライナーの憂いが晴れなかったことを知るには十分だった。
「……どうもおかしいな。すまん、忘れてくれ」
 どうやら、記憶の棚をひっくり返してもなにも思い出せなかったらしい。頭を横に振って、雑念を振り払うしぐさを見せるライナーに、もっと思い出してくれだなんて頼めるはずもなく、私もまたひとつ、溜息を吐きこぼした。
「そっか。でも私も思い出せないから仕方ないよ」
 気まずい空気がふたりの間で流れる。互いに自分の首の真裏に手のひらを差込み、視線を外してみたものの、胸にある居心地の悪さはなかなか出て行かない。
「……あー……あのな、
 先に口を開いたのはライナーだった。呼びかけに対し、私は視線を戻したものの、ライナーは相変わらずそっぽを向いたままだった。
「んー。なぁに」
「今からなにか予定はあるのか?」
「ううん。もう当番も終わったし、あとは何も無いよ」
「そうか。じゃあ」
 コホン、と咳を払ったライナーは、私を振り返る。先程よりもほんの少しだけ表情を固くして私を見下ろすライナーの視線は、まっすぐに私に突き刺さる。
「今から星を見に行かないか」
「え?」
 バツが悪そうな表情を浮かべたライナーの言葉に、瞬間的に反応を取れなかった。言葉の意味を吟味するよりも早く、耳の裏から鼻先にかけて熱が集まる。燃える頬がライナーの目に入ったのだろう。ライナーは一度大きく目を開き、そして慌てたように呻いた。
「待て! 口説こうとしているわけじゃない!」
 右手で額を覆い、左手をこちらに差し出したライナーは、大きな手のひらの下で苦悶の表情を浮かべている。ほんの少し、頬に赤みが見えたのは、おそらく、私に対してではなく自分の言葉が誤解を与えてもおかしくないものだと気がついたせいだろう。
 逸る心臓が、一度大きく鳴動したあとはゆるやかに失速していく。感情に理解が追いつけば、お互いに悶えるような感情だけが身内に残った。
 勝手に勘違いした私も、勘違いされてもおかしくないことを言ってしまったライナーも、どちらも悪くない。だが、現実にお互いに照れてしまった事実は隠しようがなく、結果、目を逸らしあったまま、頬にある熱を覚まそうと手のひらで覆い隠すほかなかった。
 押し黙ったまま、どのくらい時間が経っただろうか。ほんの数十秒程度のものだとは思うが、いやに長く感じた。そんな中、先に気持ちを立て直したのは、ライナーだった。
「あー……スマン、。俺の誘い方が悪かった。記憶を洗い出すなら早いほうがいいと思ってな……」
 言葉を濁しながら弁明するライナーに視線を戻す。男の子の割には白い肌に、頬に映える熱は鮮烈に残っていた。目に見えて照れくさそうにするライナーに、落ち着きを取り戻しかけていた私もまた動揺してしまう。ジャンやトーマスといった仲のいい男子が照れた顔を見た時には感じたことのない想いが胸の中に沸き起こる。
 何か言葉を返した方がいいと気付きながらも、まじまじとライナーの様子を見守ってしまう。目の前の男の子から、目が離せない。例えそれが誤解を生んだことによるものだとしても、照れくさそうにしているさまを、黙って見つめていたかった。
「……歩きながら話した方が、思い出しやすいかと思ったんだ。だったら、さっきの約束も一緒に果たしてしまえるかと……」
「……うん、そうだよ、ね」
 内心でドギマギとした感情を抱えたままでは、まともな返答ができなかった。頬に張り付かせていた手のひらを首の裏の髪に通し、そのまま手櫛で整える。忙しない行動をとりながらも、意識はライナーから離れなかった。
「ちょっとびっくりしちゃったけど……」
「スマン」
「ううん、いいの。ただね。全然……その、イヤ、とかじゃなかったから」
 とにかくライナーから罪悪感を取り除かなければ。その一心で言葉を取り繕う。だが、その言葉は逆効果だったようだ。目に見えて動揺したライナーの様子に、失言してしまったのかと私まで焦ってしまう。
「あれ? なんか、私……変なこと言ってる?」
 混乱状態の中で差し出したのは、ライナーへのフォローのつもりだった。ただ、言葉の通り、誤解させるような言葉に対し気分を害するだとか、誤解だったと落ち込むような気持ちは微塵もないというようなことを伝えたかっただけだ。
 だが、聞きようによっては、ライナーに誘われて嬉しい、と誤解されても文句は言えないような言葉に聞こえなくもない。突き詰めると、ますます羞恥に頬が燃え上がるようだった。
「あー……いや、大丈夫だ」
 待ったをかけるように手のひらを差し出したライナーに、これ以上、何かを言うことははばかられて口をつぐんでしまう。口元に握りこぶしを添えて、ライナーから視線を外す。まだ、夜の外気は肌寒い季節のはずなのに、身内から迸る熱のせいで汗が滲むようだった。
 頬をぷくっと膨らませながら、長く息を吐き出す。拳の中に自分の吐いた息の熱が満ちていく。そうやって気持ちを立て直しながら、ライナーへとチラリと視線を戻す。ライナーもまた、ちょうど私の様子を伺ったところだったらしい。かち合った視線に、ぐっと喉の奥に力が入った。
 妙な空気が流れ始めたことを、否応なしに意識させられる。この熱を逃すすべは、もう私の手のうちにはない。こうなってしまうと、もう時間だけが頼りだった。視線を外したまま、どことも知れず視線を流す。だが、傍らにライナーの気配を感じ取れる状況では、頭の中はなおさらにライナーのことでいっぱいになってしまう。
「んんっ」
 喉の奥でわざと咳を払った。気持ちを紛らわせるための行動だったが、案外大きな音として出てしまってますます萎縮してしまう。ライナーは変に思っていないだろうか。ドギマギとした心境を抱えてライナーを振り返る。
 軽く俯いたライナーは、つい先程の私と同様に、どこかへと視線を投げやってしまっているようだった。気まずさを堪えるように歯を食い縛るライナーの様子をじっと眺める。
 誤解を与えたことに対し、ライナーは弁解もそこそこにすぐさま謝罪の意を示した。動揺していた私を丸め込むことなんて容易かったはずだ。ただ一言「冗談だ」とでも言えば、私は素直にそれを信じたことだろう。誤魔化さないライナーの誠実さに、思わず頬が緩んだ。
「ねぇ、ライナー」
「……あぁ、なんだ?」
 気まずい空気を追い払い切ることはできなかったのか、まだ少し硬さの残る表情を浮かべたライナーがこちらを振りかえる。
「星を見に行くならさ、外套とか準備しなきゃだよね? あっちに資材倉庫あるから……ちょっと借りていこうか」
 努めて、明るくなるように声を張る。ただそれだけで、重くのしかかる緊張感が薄れていくのを肌で感じとった。ライナーは呆けたように私の表情を見つめていたが、数秒もすればまた、普段通りに太い笑みを浮かべた。よく見かける、ライナーの表情に釣られて、私もまた口元を緩める。
「そうだな……今の時間ならばまだ施錠はされていないだろうし……就寝時間前に帰ってくることを考えるならそろそろ出た方がいいな……どうだ、。お前の準備はそこで済みそうか?」
 持ち前の豪胆さを取り戻したらしいライナーは、流れるように算段を立て、私を山へと誘う。うん、とひとつ頷いて返すとライナーもまた、私に対し深く頷いてみせた。
「じゃあ、行こっか」
「あぁ。行き先は昨日、俺たちが向かった場所まででいいか?」
「うん。お願いします。あ、その前に食堂にジョッキを返しに行ってもいいかな?」
「それもそうだな。よし、じゃあまずはそっちから行くぞ」
 井戸の上に置きっ放しになっていたジョッキを拾い上げ、先導するように歩き始めたライナーの背中を追いかける。隣に並び、ライナーを見上げると、まっすぐな視線が落ちてきた。やわらかく緩んだ目元に、先程あったはずの戸惑いが、ライナーの中で消化されていることに気付いた。
 反射的に笑い返し、また何気ない会話を紡ぎ始めた。探り探りの会話も繋げば繋ぐほどに、次第にライナーと私の距離感が近づいていくのが手に取るようにわかった。
 ただ、さっきの変な空気のせいだろうか。ジャンやベルトルト相手ならば簡単に取れるその腕を、掴むことがどうしてもできなかった。



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