いつ甘01

01.それは撤退の合図か


「月島」
 短く呼びかけられた声に、正面に座っていた山口の視線が動く。その目が普段よりも丸みを帯びたものに変貌するのを確認し、それから僕もその声の主を振り仰いだ。
 きゅっと口元を結び、若干不機嫌そうな顔をしたがそこには立っていた。
 同じ中学から進学してきたとは中学の頃は割と話す仲だったのだが、高校に入学してからはその機会は失われた。入学して半月ほど経ったけれど、こうやって彼女が僕に話しかけに来たのは初めてのことだった。
 窓の外の廊下を伝ってやって来たは、いつ、僕の席が窓側のものだと知ったのだろうか。そこをからかってやろうかと口を開きかけたが、その声が発せられるよりも先に、山口が快活な声を上げた。
っち、久しぶりー!」
「うん、久しぶり。忠は相変わらずっぽいな」
「相変わらずっって?」
「変わらず月島と仲がいいんだなって」
「でしょー!」
 自慢気に笑った山口に、が柔らかく笑んで返す。
 僕が黙っていればそのまま山口と会話を続けそうな雰囲気を醸し出した二人に、それでも別にいいのだろうけれど、はここへ来た時に「月島」と呼んだ。それなら彼女が用があるのは僕に対してのことなのだろう。
「僕に」
 自然と尖った声になった。二人の丸くなった視線がこちらへ向けられる。動揺を隠すように眼鏡のブリッジを抑えながら、口を開いた。
「何の用なの、
「あぁ。ちょっと、いい?」
 顔を貸せということなのだろう。は立てた親指で肩越しにこちら側に出てこいと示す。
 その男っぽい仕草と彼女の怒気を含んだ眦に甘い誘惑なんてまったく感じられない。
 だけど、普段なら億劫だと感じられる呼び出しも、が示す視線のまっすぐさに折れてあげた方がいいのだろうと譲歩を示す。
「いいよ」
 僕のその言葉に、うん、と一つ頷いたは僕から山口へと視線を転じる。
「ごめん、忠。ちょっと月島と話す」
「解った。でも今度は俺も混ぜてね」
 じゃあね、と残した山口が自分の席に戻っていくのに合わせて僕もまた彼女の待つ窓の外へ向かう。
 外に出ると微かに吹く風に混じった砂が顔に触れ、目を細めた。その表情の変化を見たは、バツが悪そうに口を引き締め、僕から視線を逸らす。
 自分を守るかのように右手で下ろしたままの左肘を抱え、気まずそうな顔のまま言葉を告げる。
「アンタのクラスの女子がこっちにまで雪崩れ込んでくるんだけどさ」
 彼女のその言葉に、中学の時のの姿が重なって見えた。それと同時にの用事というのが、寸分違わずあの時の用事と同じものなのだと察しがつく。
「休みの時間いっぱい取り囲まれて月島の話ばっか聞かれんのすっごい面倒なんだよ」
 続けられた言葉に、憶測が確証に変わる。さっき山口にも愚痴られたばかりだ。
 曰く、可愛い女子に話しかけられてもツッキーの話ばかり聞かれる、と。
 それと同じ目にも遭っているのだ。直接的に僕に纏わりついている山口だけならまだしも、その女子たちが中学が同じだったという情報だけでの方へ行ったことに感嘆する。そういう熱意なんか持って、僕のことを知ったところで何も変わったりしないのに。
「ナニ。妬いてんの、?」
 が続けたいだろう言葉をへし折るように茶化してやると、下げられていた視線を瞬時にこちらへと向ける。ギラついたその目のまっすぐさもまた、かつては僕に向けられていたものだった。
「バカ、そういうんじゃないってば」
「進学クラスにも入れなかったがよく僕に対してバカだなんて罵れるね」
「……悪かったわね」
 歯を食いしばって僕から視線を逸らしたは釈然としない様子いっぱいに自らの髪を手のひらを押し付けて掻き乱す。頭の中がごちゃついているのを落ち着けるためにしたのだろうけれど、そんなことでまとまるような考えなんて無いのになにやってんだか。
「とにかく、もう月島の話なんて出来ないから」
 人差し指を突きつけて宣言されたが、肩を竦めてそれを受け流す。そんな態度を見たは薄い唇を尖らせたが、諦念したように溜息をひとつ吐き出した。
「もう来させないでよね」
「え、引き受けないよ?」
「なんで!」
「だって僕がに聞きに行けって彼女たちをけしかけてるわけじゃないんだから、僕に止められるわけないデショ」
「それは……そうだけど……でも嫌なの」
 声を荒らげたり、弱々しい口調になったり本当に目まぐるしく態度が変わる。その癖、首尾一貫として、嫌なものは嫌だと言い続ける子供のような頑固さもあった。
「中学が一緒だったってだけなのに、聞かれても困るし話さなかったら隠してるなんて怪しいとか言われるし踏んだり蹴ったりなの」
 苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てたは僕から視線を反らし、心底嫌そうに顔を歪める。
 僕が直接的に迷惑を掛けているわけでもないのに、の怒りを撒き散らす場所がなくて、一縷の望みを掛けるようなつもりで僕のところに来たことは充分解っている。だけど、彼女のその行動は間違っている、というより大失敗しか引き起こさない。
 チラリと窓の外から教室へと視線を向けると、クラスメイト一同から好奇の視線に晒されているさまが目に入る。そこには多分、に対して直接僕のことを聞きに行ったという女子のものも含まれていることだろう。
 今更「仲が良くない」だなんて言ったところで、恐らくもうそのウソは聞き入れられない。むしろ、最新情報を持っているんじゃないかと疑われて益々アリに集られる飴のような目に遭うはずだ。
 呼び出すならもっと人目につかないところですればいいのに、ツメが甘いというかなんというか。本当に、はバカなんだと思わずにはいられない。
 小さな溜息を吐いて、に視線を戻す。機嫌の悪そうな様子が微塵も感じられず、僕は小さく苦笑した。
「いいじゃん、また中学の時みたいに僕のことが好きだから手伝わないって言っちゃえば」
 「あの時」の話を引き合いに出してやると、の表情は更に歪んだ。だけど、顔を真っ赤にさせて嫌がるなどはせず、気まずそうに視線を外して額を抑えるだけで、それ以上の反応は見せられない。
「それもう忘れてよ……」
 簡単にからかえたのは、こうやってからかうのがこれが初めてのことではないからだ。
 修学旅行の時に僕とツーショットで撮ってあげようかとか、バレンタインの時にこれは本命なの? とか、卒業式に第二ボタンは必要? だとか、何度も、何度もからかった。その度に、が頑なに違うと否定してくるのを繰り返し見てきた。
 そうやって、彼女の中で僕への情愛なんて無かったことにされているのだと確認する。
「迷惑かけたってちゃんと反省してるよ」
 彼女の中でいつの間にか立場が逆転していた。そもそも無関係だった彼女に対してクラスの女子が群れて掛かったのが発端なのに、それを抵抗する為に口にした言葉のせいでが僕に対して被害を差し向けたかのように彼女は考えているようだ。
 慰めるのもおかしい気がして、せめての罪悪感が薄れるようにとネタにして茶化し続けた。その結果、にとってその言葉は一つの黒歴史みたいな扱いに収まっていて、そしてその想いすらも過去のものだと蓋をしてしまっている。
「まぁ、もう僕達も中学生じゃないしクラスも違うんだから、と前みたいに話すような機会も無いし、そのうち減るんじゃないの?」
 突き放すような言葉をワザと選んだ。からかいを含んで放つ言葉とは質が違う。さっきから互いにやけに繰り返す断絶を、敢えて強調するものだ。

 ――中学が、一緒だっただけ。

 僕ととの関係はあの頃、選ばなかった未来から逸れたまま、何一つ変わっていない。変化があるとすれば山口ととの間の方が顕著に現れているくらいだ。
 が忠と呼び、山口がっちと呼ぶ。そこにある答えに、親密と称する以上のものが当てはまるんじゃないかと内心じりじりと感じている。
 あの時、はたしかに僕のことを好きだったのかもしれない。それは僕に直接向けたものなんかじゃなく、クラスの女子たちの要求に抗うために放たれた言葉で、その後改めての情愛が僕へ告げられたわけじゃなかったから、確証はないのだけど。
 もしあの時、僕の方からきちんと正面から向かって聞きたいと願えば、叶ったのだろうか。
 あの日から、2年経った今では、もう後の祭りと称するにも縁遠い。
「解った。こっちに来る女子は私の方で何とか処理する」
「お、カッコイイねぇ。
「うるせ」
「ハイハイ」
 剥き出しの敵意を、手の甲を払って軽く往なすと納得がいかないような顔をしたままは胸の前で腕を組みながら僕から顔を背ける。
「月島」
「なに」
「もう気にしなくていいからね」
「ハ?」
「だから、もうその辺の気持ちの整理はとっくについてるから」
 念を押すように呟いたは、また口元を引き締めて僕へと視線を差し向ける。彼女の言う「その辺」というのは、僕が今もなお掴みかねている感情を示している。
 笑ったり、泣いたり、素直な反応を示すが、僕と二人きりでちょっとした色恋の話をした際に、の頬が染まることも、口元が緩むこともなくなった。
 とっくに解ってるよ。反応もそろそろ面白くないし、もう言ったところで意味が無いこと。
 ――抗っていたのが、僕だけだということも。
「気になんか、してない」
「そう? それならいいんだけどね」
 じゃあ、忠によろしく、と一言残したは、授業開始のチャイムを背負って自分のクラスへ走って戻っていく。その背中を見送っていると、クラスの女子たちに「月島が好きだ」と告げた彼女の凛とした背中がダブって見えた。
 今更追いかけても、手は届かない。決着は彼女が言ったとおりにもうついてしまっている。軽く持ち上がっていた手のひらを更に引き上げ、額と眼鏡を覆う。
 諦めるしか無いのだ。はもう僕を振り返ることはない。
 胸にある吐き気に肩が震えないように気をつけながら息を吐きだした。

 あの日、本当の気持ちで向かい合うことを選ばず、茶化すことを選んで逃げた僕に、光が差すことなんて、きっとない。



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