04

胸を貫く破片は透明


「まっつん、最近彼女できた?」
 部活を終え、ロッカールームで帰る準備をしている中で、唐突に及川が口を開く。引きかけの汗を拭うタオルを顔面に押し付けたまま、視線だけを及川へ流した。俺の視線が自分に向けられたことに気付いてないらしい及川は、ロッカーの中に頭を突っ込んで何やら捜索している。
 さて、今の質問にどう返せばいいのか。新しく生まれた汗をタオルに染み込ませながら考える。ストレートに「出来てない」と答えたところで「なんだ、そうか」と流してくれるようには思えない。嘘つくなだとか隠さなくてもいいだとか。あの手この手で自分が欲しい答えを搾取しようとするはずだ。この場合、俺に彼女がいないことが正解であってもまったく意味を持たないことは数年の付き合いで熟知していた。
 及川に向けていた視線を他へと転じて見渡せば、花巻や岩泉の視線もまた我が身に刺さっていることを知る。ふたりは俺の反応待ちなのか、目線だけをこちらに差し向けたまま一向に口を開かない。ぼんやりと口を開いたままで固まってしまった俺の様子を観察している。手元を動かしながら、何気ない風を装って彼らの望まないであろう答えを差し出した。
「……別にいないけど、なんで?」
「んー。なんとなく?」
「なんとなくって……なんだ、それ」
「なーんかさー、うちのクラスで噂になってんだよね。ちゃんだっけ? あんまり男子と喋らないのにまっつんとだけ喋ってるから珍しってさ」
 ロッカーの中から替えのTシャツを発見した及川が、今着ているものを脱ぎ捨て、袖を通しながら俺へと更なる追求を投げかける。思わぬボールが飛んできたことに驚いてしまった俺は、の名前が出てきたことに、ぴくりと眉毛を動かしてしまう。その薄い反応ではほかのやつらに見られたことはないだろうが、ほかでもない自分がの名前ひとつで動揺してしまうようになったのだと自覚してしまう。
 口元を引き締め、内心で自分自身の反応に呆れながらも、最近の自分の行動を振り返る。及川に見抜かれるほど浮かれていたのだろうか。そんなに表に出さないように気をつけてたんだけどな。に指摘されてからはじっと観察することも意識して減らしたし、よく喋るって言っても朝や帰りに挨拶を交わす程度のものだし、ほかのよく喋る女子連中と比べたら全然喋ってる内に入らない。ただ、頑なに否定したところで「ムキになるなんて怪しい」だなんて返って要らぬ勘ぐりを受けてしまうはずだ。ここはひとつ、適度に肯定しつつ流す、というのがベストな対応だろう。
「いや、喋るでしょ。同じクラスなんだし。フツーだって」
「そう? 俺、昨年同じクラスだったけど喋った覚えないよ」
「それは松川がいいっていうよりも 、ただ単にお前が避けられてただけじゃねぇの」
「ひどいよっ! 岩ちゃんだってちゃんと喋ったことないくせにっ」
「俺、同じクラスになったことねーもん」
 話題の中心が及川いじりに移ったことに安堵して、表情を読まれないために押し付けたままだったタオルを離す。そのまま首に掛け、及川と岩泉の言葉の応酬を聞きながら、俺もまた替えのTシャツを手にとり着替えを再開させる。
「あー。そういや俺も聞いたことあるわ」
 今まで会話に参加していなかった花巻が唐突に口を開く。シャツの襟元から顔を出しながら、花巻へと視線を流すと、その視線が及川ではなく、俺へと差し向けられたことに気付いてしまう。にやりと目を和らげた花巻の表情に、嫌な予感が背を駆けた。
「先週くらいにさ、教室でふたりっきりで見つめ合ってたんだろ」
 事実を捻じ曲げて、かなりファンシーな妄想を交えた花巻の言葉に、咄嗟に反論することが出来なかった。強引ではあるものの、一度逸れたはずの話題が戻ってきたことに怯んでしまったのだ。味方が出来たことに力を得たのか、及川もまたニヤリと笑う。爽やかとは程遠いその笑みを、どうか岩泉よ殴ってくれないか。
「ほらほらぁー。まっつん、素直になりなよー」
「あ、それ日直の日誌書いてただけだから」
 だから別に大したことはないんだよ。言外にそう含ませて反論したが、及川らは微塵も納得した様子を見せない。ニヤケた目元を更に細め、糸のようにして笑った花巻が更なる議論を展開しようと言葉を繋げる。
「ぶっちゃけどうなんよ。付き合ってないにしろ好きなんじゃないの?」
「別に、そんなんじゃないって」
 及川と花巻の波状攻撃に応じず、会話も視線もシャットアウトする為にロッカーへと向き直った。カバンの中に仕舞っていたジャージを引っ張り出して羽織る。ジッパーを上げながら感じる視線は無視してやった
 思春期特有の話題は別に苦手ではない。俺だって逆の立場だったら、相手の迷惑を顧みず、誰と誰が付き合いそうだとか別れそうだとか簡単に話題にしたことだろう。ただ、今回に限っては勘弁して欲しかった。別に俺が茶化されるのは我慢できるが、のことを引き合いに出されるのはどうしても嫌だった。
 俺が会話に乗る様子を見せないことに飽いたのか、花巻がふぅん、と気のない息を吐き出した。
「まぁ、いんじゃね? そのうち結果出るだろ」
「ねー。春なんだし、ちょっとくらい浮かれちゃってもいいんだよ、まっつん」
「浮かれてねぇってば」
「岩ちゃんみたいになーんにもないしょっぱい青春送ってもしょうがないよ?」
「うるっせぇぞ及川っ!」
 早々に着替えを終えていた岩泉の鋭い蹴りが及川の背中に刺さる。「止めてよぉ!」と、痛そうに身をよじる及川の矛先が俺から岩泉に移ったことを感じ取り、小さく溜息を吐いた。視線が外れたことに気が緩み、むず痒いような感覚に顔を顰めた。どうもこういう話題の中心に身を置かれることは慣れてない。それも見当違いの相手ではなく、意中の相手だとなると尚更だった。
 もし、また会話の中心が俺に戻ってくるようなら、及川や花巻の恋バナに探りを入れてやろう。俺よりもきっとふたりの方が浮かれているはずなのだから。春に限らず、年がら年中、噂の槍玉に挙げられることの多い及川ならば尚更だろう。それでも逃げられなければ、及川には例の王子の話題をぶつければいいだけだ。そうすれば機嫌が悪くなり、恋バナどころではなくなるはずだ。あ、でもそれは及川よりも岩泉の方が反応してしまうんじゃないだろうか。たしか1年の時にそういう話題がちらっと出た覚えがある。
 頭の中で算段をつけながら、賑々しい様子を保ったまま部室を出て、正門へと足を進める。帰りにラーメンでも食って帰るか、だなんて言い合っていた。そんな、矢先だった。
「あらま、噂をすれば」
「ほら、まっつん。あっち見て」
 先行する花巻と及川がこちらを振り返る。ふたりとも目元に三日月を作り出し、バスガイドのように手のひらを翻した。指し示した先には、クラスの女子と楽しそうに喋りながら帰路に着くの姿があった。目を丸くした俺を、ふたりは更にニヤついた笑みで迎え入れる。
 が部活生と同じ時間になるまで居残りしてるなんて、1ミリも考えていなかった。どうしてこんな時間まで、と考えを巡らせれば、つい先日の委員決めで図書委員になったんだったな、と記憶に辿り着く。
 反応しない俺に一瞥を投げかけた及川は、ニヤリと笑みを残して俺に背を向ける。またしても感じ取った嫌な予感に、制止の声を発するよりも早く、及川はのもとへと走っていってしまった。
「ねーっ! ちゃんっ!!」
「ひゃっ、及川くんっ?!」
 突然声をかけられたことに驚いたのか、背中をびくつかせたは及川を振り返るや否や、顔面を蒼白にさせた。その表情だけで、彼女に迷惑がかかると確信する。
 助けなければ。そう思った時には、既に足は動いていた。
「さっきさ、部室でちゃんのこと話題に出てたんだよね」
「えっ?!」
「まっつんとさ、いい感じなんだって?」
「まっつん、って…ま、松川くんのこと?」
「そーそ。で、実際どうなの? 付き合っ――」
「やめろって」
 及川の肩を掴み、静止を促す。友人の軽口を止める、というには、思いのほか入ってしまった力に、及川は気付いただろうか。
「まっつん……」
 驚いたように目を瞬かせた及川に一瞥を送り、それからへと視線を走らせた。動揺により視線をさ迷わせていたと視線がかち合う。目を大きく開いて更なる驚きを示した彼女は、俺からも隠れるかのように友達に寄り添う。友達の腕に縋り付いたは、それでも義理を果たすべく会釈するように頭を下げた。
 何を言うべきなのか。及川の悪ノリに対する謝罪か、言い訳か。何を言ってもはそのまま受け止めるのだろう。例えば、俺が、といい感じだなんてそれは錯覚だよな、だなんて言えば、そのままそれが俺の彼女に対する気持ちなのだと捉えることだろう。その素直さは、薄いつながりの中でも十分感じ取っていた。
「クズ川、悪ノリすんな」
「ちょっと、クズはひどくない?!」
 いつの間にやら追いついてきた岩泉の言葉に及川は小さく溜息を吐いた。その中に安堵の色が混じっていることに気付く。眉を下げて俺に視線を送った及川は、人差し指の先で自分の頬を示した。及川の反応に目を丸くさせると、及川はほんの少しだけ肩を竦めてみせ、岩泉へと視線を転じた。
 及川の所作の意味に気付き、誤魔化すかのように自分の頬に触れる。強ばっていただろう頬は、それでも緩む気はしなかった。
 俺もまたらの方へと視線を転じる。バツの悪い表情のまま、ふたりを見下ろした。の友人が俺を微かに見上げ、さりげなくその場を離れた。こちらの会話に混ざろうとしていた花巻の袖口をつまみ、連れ出すかのように距離を取る彼女の背中を見送り、改めてへと向き直った。
「悪いな。早く止めてやれなくて」
「え、あ……うん。平気だよ。ちょっとだけびっくりしちゃったけど」
 えへへ、と小さく笑い、耳に髪を掛けながら俯いたの赤く染まる耳が目に入る。かなり熱を持っているんだろうな。考えた瞬間にその温度を確かめたい衝動に駆られたが、当然、触れられるはずもなく、指先に生じたむず痒さを指同士を擦り合わせることで誤魔化すことしか出来なかった。
「ごめんね。私が付きまとってたから……松川くんに迷惑かけちゃったね」
「そんなことないよ。迷惑なのは及川だから」
「まっつんひどい!」
「うるせぇ! お前が悪い!」
 ゴッと痛そうな音が耳に届く。岩泉が及川の頭を殴りつけただろうことは確認しなくても明白だった。いつもの部活と変わらない様子に小さく溜息を吐く。カマをかけるつもりで及川をディスるようなことを言ってはみたが、やっぱり聞かれていたか。こんな状態ではあまり喋らない方がいいかもしれない。奴らに勘付かれているのならそれも仕方ないけれど「大絶賛思春期中です」な状況をこのまま見守られることになるのはあまりいい気分にはなれない確信があった。残念だけど、適当に会話を切り上げてしまった方がお互いのためだろう。
「あっ、その……松川くん、待って」
 言葉のみではなく行動で、ということなのだろうか。の指先がこちらへと伸び、ジャージの袖口を掴まれる。そんなことをしなくたってこの場から早々に立ち去るつもりなんてなかったのに、引き止められたという事実に簡単にドキッとしてしまう。
「知ってるの。松川くんに、迷惑掛けちゃってるの」
「迷惑じゃないよ。つーかのこと、迷惑に思ったことなんて一度もないから」
 暗に過去の告白をチラつかせながら、否定した。多分、察しがついたのだろう。は頬を赤く染め、そして小さく苦笑した。
「ちゃんと、気持ちの整理ついてるから大丈夫だよ」
「そうなの?」
「あ、そうだ。ちゃんと、彼氏もできたから……ストーカーになんてならないから、安心してね」
 彼氏。唐突に現れたその単語一つだけがいやに耳に残った。言葉が出ない。喉の奥に上手く飲み込めなかった呼吸が押し留まる。ちゃんと、と繰り返すは手を伸ばせば届く距離にいるはずなのに、どんどん離れていくような感覚を味わわされる。
 ――ちゃんとってなんだよ。
 ちゃんと、俺から興味をなくしました、ってとこなんだろうけれど、そんなことわざわざ念を押して言わなくたっていいのに。詰まった息が上手く吐き出せない。紡いだはずの糸が引きちぎれていく。一年前から浮かれっぱなしだったというほどではなかったはずだ。静かに重ねていた想いは、結局、俺の中で勝手に盛り上がっていただけだと、はっきりと自覚させられる。
「や、心配とか別にしてなかったけど」
「デスヨネ」
 しれっとした態度でひとつ反論を口にした。動揺を隠した俺とは裏腹に、は益々頬を赤く染めた。俺が気にしていると勘違いしてしまった、だなんて恥じているんだろう。
 気にはしていた。好きだなんて生まれて初めて言われて、微塵も気にしない男なんていないと思う。即座に好きになるほど単純ではなかったが、忘れてと言われて全てを簡単に流せるほど大人でもなかった。1年掛けて、ほかの女子に対するよりもはるかに、気にかけていた。そうやって静かに降る雪のように、少しずつ、のことを好きになっていた。
 赤くなったの頬を、暗澹たる想いで眺める。そもそも恋バナというものが苦手なのだろうか。目元に涙がにじむんじゃないだろうかというほど潤んだ瞳が、微かに俺へと向けられる。その眼差し一つ、向けられる度にかわいいな、だなんて胸の内を温めていた。それももう、意味がない。今更、好感を抱いたところで、もう後の祭りってやつなのだ。
「治んないね、それ」
「うん?」
「顔、また赤くなってる」
「え、ほんと?」
 手のひらで頬を覆うは、困ったように眉を下げる。ちらっと上目遣いで俺を見上げたは、頬の熱を更に燃やし、俺から視線を外した。恥じらうその仕草に、簡単に胸は痛んだ。
 ――だから、誤解しちゃうんだって。
 他の男が、じゃない。俺が、誤解してしまうからこその忠告だったのだ。まだ好きでいてくれるんじゃないかって。1年かけて、やっと同じ想いに辿りつけたんだって思っていた。
 自惚れてた。
 過去に自分を好きだった女はいつまでも俺のことが好き、だなんて男はみんな思っているんだろう、だなんてが騒いでいたことを思い出す。結局俺も、雑誌に書いてある定説通りの男だったということなのか。
 実際、1年も経ってれば彼氏のひとりやふたり出来もおかしくない。うちのクラスにだって、クラスが変わってまだ一ヶ月も経ってないというのに何組かのカップルが成立している事を思えば、に心変わりがあったとしてもなんらおかしくないのだ。
 それでも、好きでいて欲しかった。
 そんな傲慢な願いは届くはずがない。目覚めたばかりの感情に、サヨナラを告げなければいけないのか。戸惑いながらも、俺に向けられる笑顔が今も目に眩しく映るというのに。
 逃した魚はでかい、とはよく言ったものだ。仕方がないのだと諦めるしかない。納得するしかないんだと自分に言い聞かせても、腑に落ちないような感情がいつまでも腹の底に留まっていた。
 ――本当に、かわいいと思ってたよ。
 そんなことを言えば、または簡単に照れるんだろう。わかりきっているからこそ、尚更言えなかった。




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