いつ甘02

02.甘っちょろい言い訳


 移動教室の途中で、クラスの違う女子とすれ違った。ただそれだけで、その中にがいないかと探してしまう。
 彼女たちが3組に吸い込まれていったのを確認し、また前方を向いて足を進める。やっぱり、さっきの女子はと同じクラスだった。以前クラスを覗いた際に見かけたことがあったからほぼ確信していたけれど。もしかしたらすれ違えるのかもしれない。そう期待が沸き起こりかけたが、抗うつもりで口元を引き締めた。
 一々心躍らせるなんて無意味なことをしちゃダメだ。
 小さく溜息を吐いて、手にした教科書類を持ち変える。カランとペンケースに入れたペンの音が廊下に響いた。こうやって一人で歩くことも久しぶりな気がする。かつてはいつも横にいたは違うクラスで、そして今もクラスも部活も一緒で隣を歩くことの多い山口は実験の準備係とやらになっているため、走って先に行ってしまっていた。
 所在ないだとか寂しいだとかはないけれど、なんとなく普段と違った視界が目新しかった。
 特に急いで行く理由もないので、渡り廊下をのんびりとした足取りで化学室へ足を運ぶ。また女子の一団が前方からやって来るのを目にし、すれ違う瞬間に目で追わないようにしていたのだが、今度は鼻を掠めた甘い香りにまたしてもその女子の方へと気が逸れた。
 嗅いだことのある甘い匂いに洋菓子か何かを持っていたのだろうかと考える。そう言えばこの先の実験室の下には調理室もあるし、家庭科で何か作ったのかもしれない。
 状況で推察をしながら渡り廊下の脇へ視線を投げたまま歩みを進めていると、正面から唐突に声が届いた。
「月島ぁ!」
 響いた人懐っこく明るい声色に、思わず目を丸くしてしまう。声のした方へ視線を伸ばせば、ブンブンと大きく手を振るの姿が目に入った。
 の他にも何人かの女子がいたが、そこには中学で見かけた顔もあれば知らない顔もあった。その女子たちの視線が向くことが嫌で、フイっと脇へ視線を逸らす。横目でが手を下ろすさまが目に入った。軽く首を傾げたに、小さく舌を打ち鳴らす。
 つい先日、彼女が僕のクラスにやって来た際は、唇を尖らせてあんなに不機嫌さを押し出していたというのに、よくそんな上機嫌で声を掛けれたなと内心で悪態をついた。
 こちら側へと足を進めてきた一団から視線を逸らしたまま歩みを進めたが、彼女たちはを僕の隣で置いていってしまう。僕も彼女を置いていけばいいかと思ったけれど、いつの間にか僕自身の足が止まっていて、を迎え入れる気になっていたことを自覚させられる。
 心とは裏腹の行動を取ってしまった自分に染み付いた習性を呪い、眉根に深い溝が刻まれた。
「何か用なの」
 突き放すような口調になったが、それを受けたは何も気にした素振りを見せない。自分の手に持ったキャラクターが書かれた子供っぽい紙袋の中に手を突っ込んで「ちょうどよかったよー」と鼻歌でも歌う気なんじゃないかと疑わしいほど機嫌のいい声で呟いた。
「これ、よかったら食べてよ」
 真正面から受け止めるには照れくさくなりそうなほどの笑みを浮かべたが、僕の方へと袋を差し出す。
 ちょっと固めの質感のビニールにパッケージされたそれは、金色の結束タイで絞られて町の小さなお菓子屋で売ってありそうな装丁をあしらわれている。その中には、オレンジや濃いブラウン系の色をした焼き菓子が入っていた。
 市販のものと比べて形が不揃いなことや、型から上手く外せなかった様相に、恐らく手作りのものなのだろうと推察する。
「……なに?」
「調理実習。今日マドレーヌだったんだ」
 こっちがプレーンで、こっちがチョコアーモンドと指し示すに、さっきすれ違った女子たちのにおいはこれだったのかと納得する。
 先日の授業で僕のクラスでも何を作るのかという議題で話し合いが設けられたことを思い出す。パンケーキだか肉まんだかで喧々諤々に揉めるクラスメイトたちが、結局何を作ることで場が収まったのかは興味がなかったから知らないけれど、多分来週辺りには判明することだろう。
「結構上手く出来たからさぁ、誰かに食べてほしくって。良かったら部活前のお腹の足しにでもしてよ」
「それは……ドウモ」
 横に視線を逸らしながらから受け取る。手の中に収まってから素直に受け取ってしまった自分に驚いた。普段だったら「ちゃんと味見したの?」とか「僕に渡すってことはそれなりの味は保証できるんだろうね」だとか一言添えるのに、今日に限ってそれが成されない。
 僕の中にある違和感は、先日の僕ととの間で交わされた会話がもたらしたものだ。
「ねぇ、
「ん?」
「……僕達、絶縁したんじゃなかった?」
「えぇ?」
「一昨日、したでしょ」
 たしかに、僕はに「もう話すことも減る」と宣言し、そしてそれをは受け入れた。だからこそ、その話自体が無かったかのように中学の時と同じように嬉しそうに話しかけてきたに調子が狂ってしまったんだと思う。
 普通ならあんな事言われたら簡単に話しかけようとは思わないはずだ。そもそも僕と仲良くしてるところを他人に見られたらにはデメリットにしかならないんじゃないかと訝しんでしまう。また利用されるよ、と突き放してもいいのだろうけれど、そこまで言ってあげるほど僕は人間が出来ていなかった。
 にメリットがなくとも、僕はやっぱりと話をすることを失いたくはないようだ。
「あぁ。クラス違うからもう喋んないってやつ?」
 視線を斜め上に持ち上げて思案していたは、合点が行ったのか人差し指を立てて振る。
 その彼女の口ぶりに、気にも留めていなかったということだろうかと疑ってしまう。
「そうだよ。君の記憶力が悪いのは知ってるつもりだけど、僕との会話でさえももう忘れたの?」
「いや、忘れてはないけど」
「じゃあ、どうして?」
「うーん……。まぁ実際、月島とあんまり喋れなくはなってるんじゃない?」
 微かに眉を顰めたは、チラリと僕を見上げ、それから緩やかに口元を綻ばせた。その曖昧な笑みに触発され、僕の胸の内に甘い痛みが走る。
 にこういう顔をさせたいわけじゃない。だけど中学の頃と比べれば の言うとおり、休み時間の度に互いの席に移動して話すこともなければ、昼休みに一緒に弁当を食べたりということも無くなっていた。
 思えば中学に入って3年間同じクラスで、と僕と山口と、3人で過ごしていたことが当たり前過ぎたのだ。そして曖昧に笑ったが、今まであった交流が減ったことを寂しいと感じていてくれるなら、それは僕にとっては喜びと称して有り余る。
「喋れない、って言うけど……は僕と喋りたいの?」
「そりゃ、そうだよ」
 彼女の言い回し一つを掻い摘んで指摘すると、すぐさま欲しかった言葉をくれる。それが嬉しくて口元に笑みが浮かびそうになる。それは口元を引き締めれば誤魔化せたけれど、目元が緩むのだけは抑えきれなかった。
 そんな僕の変化を目ざとく見つけたは、満足そうに歯を見せて笑った。そういう素直な笑顔を真正面から受け止めきれなくて視線を外してしまう。
 唇を尖らせたところで、誤魔化せたかどうかも疑わしい。観察力が高いわけでもないのに、は僕の機嫌の良し悪しをよく見抜いた。正直、そういうところに安心して悪態をついたり、一緒にいられる部分も多いのだけど、たまには見過ごしてくれるくらいの方が今となってはありがたかった。
 頬に熱が入りかけるのを誤魔化すように手を持ち上げ、から受け取ったばかりのマドレーヌに視線を落とす。
「じゃあ、これは僕と喋りたいがための賄賂ってわけね」
 袋を翳して見せながら言うと、は軽く口元を尖らせて不平を口にする。
「そんな悪いもんじゃないよ。純粋な好意だよ」
 真っ直ぐなその言葉に面食らってしまう。あの告白未遂以来、はつとめて僕に対して、例えそれが友情であっても、情愛を口にしないようにしているのだと感じていた。
 それが今、いとも簡単にの言葉と、行動、そしてマドレーヌという形で好意を示されている。どういった心境の変化なのか図りかねるが、微かに喜びに胸がざわついた。
「じゃあそれを受け取った僕も少しはに話しかけてあげた方がいいのかな」
「そうしてくれると、嬉しい」
 照れくさそうに鼻の頭を掻いたは、僕を見上げたままふわりと笑う。
「あんま喋んないかもしんないけどさ。全部無かったことになんてしないで、たまには相手してよね」
「……別にいいけど」
 先程からやけに真っ向から言葉をぶつけてくるに、妙にドギマギしてしまう。掲げていたままだった手を下ろし、自分の心境がばれないように、から半歩分だけ退いた。
「ホント……どうしたの、
「何が?」
「今日、すごく素直じゃない?」
 ぐいぐい話しかけられるのは珍しい訳じゃないけれど、それは駅前の美味しいケーキ屋の話だったり、テレビであったバレー大会の結果であったりとおおよそには関係のない話が多かった。
「変?」
「いや、別に、変じゃないけど……」
 疑問に対して質問で返されると言い淀んでしまう。僕が聞いてるんだけどと返す余裕もなく、訥々とながらも僕が今現在に関して覚えた違和感の正体を口にする。
「なんだろう……いつも躱されてる気しかしなかったから今日はすごく近くに来てる気がする……」
 先日まではあった警戒心みたいなものがから消えているようにも感じていた。流石に行動では示さないけれど、不意を付かなくとも抱きしめられそうなくらいの隙さえも見せている。
 思ったまま正直にそう伝えると、は丸くした目を数度パチパチと瞬かせた。
「そう?」
「うん」
 頭を揺らして応えると、後頭部に手をやったは視線を斜め上に持ち上げて逡巡する素振りを見せる。鼻から抜けるような声で唸るのは、が答えを出しかねている時にする癖みたいなものだった。
 受験勉強してた時によく聞いたな、と最近までの記憶に思いを馳せながら、の答えを待った。
「そういう月島こそ、って僕のこと好きなのとか言って来ないじゃん」
 僕の声音を真似したのか、微妙にハスキーな声で告げたは顔もやはり僕の真似をしているつもりなのか眉を持ち上げて答えた。
「それだけ?」
「それだけっても言われなきゃ否定しようがないし、否定しなければ月島だって突き放されたように感じないでしょ?」
 に対して感じてたはずの違和感の正体が、僕が理由なのだと言われたことに目を見開く。
 僕がに対して茶化し続けていたのは最初は面白い反応を返してくれるのが理由だったけれど、それが「絶対に好きだと言わせてみせる」という意地に代わり、いつまで経ってもが僕を好きと言ってくれないことを確認する作業に変わっていった。その変遷もが一貫して態度を変えないことで漸く終わったというのに、僕が態度を変えたことで、以前よりもを近くに感じてしまうなんて、本末転倒だ。
 僕が素直になることが、まさかの気持ちを真っ直ぐに僕に向ける近道だったなんて今更知って、どうしろっていうんだ。
 頭の奥で山口の間抜けな笑顔がチラついた。それと同時に、貰ったばかりの袋を持つ指先に力が入る。この手にあるこのマドレーヌは山口にも分けた方がいいのだろうか。
 ――渡したくない。
 それはお菓子に対する執着ではなかった。認めざるを得ない感情が湧きだす。例えこんなもののついでで貰ったようなものであっても、僕はに繋がるものならば、誰にも渡したくない。
「ねぇ」
 全部無かったことになんてしないで、と、は言った。
 それがもし本心なら、あの日掴み損ねた彼女の言葉を、僕も無かったことには出来ない。
 丸い目をしたが小首を傾げながら僕を見上げる。その目に映る相手が、いっそ僕だけになればいいのに。そんな危険な独占欲が、僕の中に芽生え始める。
「こういうの渡すの、僕だけにしなよ」
 芽生えた感情は胸の内だけに留まらず、言葉となってへとぶつけられた。
 あまりにもストレート過ぎる言葉に、目の前に立つだけじゃなく、僕自身も目を盛大に瞬かせる。
 先に反応が現れたのは僕の方だった。耳が燃えるように熱くなったのを感じ取り、マドレーヌを持ったままの手を頬に持って行き、そのままぐいっと拭い去る。
 なにかうまい言い訳はないものかと逡巡し、いまだどう反応していいのかわからないのか固まったままのに、言葉を繋げる。
「僕成長期だから何でも食べたいし、もしが作るの失敗したとしても僕はお腹頑丈だから差し障り無いけど、山口なんてすぐにお腹壊すから被害は少ない方がいいデショ?」
 言って、お腹をすぐに壊すのは日向のことだったと思い当たったが、発言を取り下げることも出来ず、気まずさに目を背けるだけだった。
 さっきよりも熱が広まったのを感じる。耳だけでなく、首の裏さえも熱がこもっているようだ。学ランのボタンは開けているけれど、襟元が覆われているそれでは空気が入らないから仕方がないなんて自分に言い聞かせた。
「月島……」
 僕の名前を呼んだは、プスッと音に出して吹き出し、それから声を上げて笑った。チラリと横目でを見下ろせば、手で口元を覆うこともせず、大口を開けて笑うさまが目に入る。
 笑わせたのではなく、笑われているのだと気付くのには時間は掛からなかった。豪快なその笑い方に、益々居た堪れなくなって、マドレーヌを持ったままの頭を抑えつけた。



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