いつ甘05

05.ゆるやかな絶望


「ツッキーご飯食べよう!」
 午前中の授業が終わり、疎らに昼休みの準備にとりかかるクラスメイトの喧騒の中にひときわ山口の声が響く。男の割に高くよく通るその声は馴染みがある分、すぐに僕の耳に飛び込んでくる。「うるさい」と咎めたところで、その次には「ゴメン、ツッキー!」とやはり山口は叫んだ。
 一体、コイツは一日でツッキーと何回発言するつもりなんだろう。
 中1の時に戯れでがカウントしたことがあったが、あの時の数字はどこまで伸びただろうか。
 うっすらと記憶にあるのは山口のことを面白そうにじっと見上げるの姿と、事情の解っていない山口が「なに、っち」だなんて妙に上擦った声でドギマギしている姿だけで、具体的な数値を思い出すことができない。大方、の性格からしてカウントしている間に飽いたか話に夢中になったかの結末に至ったのだろう。
 ただ、その時の興味を示すものに全力で向かう性質のが、僕が彼女に何の話を振っても山口から視線を逸らさないことだけが妙に頭に残っている。
 なんで余計なこと思い出してんだろ。自席から立ち上がり、鞄の中に入れた財布に手を伸ばす。
「僕、ちょっと購買に行ってくる」
「あ、俺も行く!」
「そう」
「待ってよ、ツッキー!」
 昼休みに入って3分。その僅かな時間でもう3回目だ。ツッキーツッキーツッキーと、本当にうるさい。はどうしてこんな言葉を数えようとしたんだ。
 脳裏に浮かんだいたずらな彼女の顔を打ち消すため、呆れの混じった溜息を吐き出し、教室のドアをくぐった。

* * *

 山口の口から飛び出すツッキーという単語を、廊下を通る間も、階段を降りる間も、食堂へ続く渡り廊下を通過する間も、絶え間なく聞かされた。適当な相槌を返しながら、お目当ての自動販売機の前に辿り着く。数人が並んでいるその一番後ろに並び、何を飲もうかとその自販機に並ぶ商品を眺めた。
 ふと、脇に視線を逸らすと、食堂に併設された自動販売機の列の、更に奥にあるベンチの側に女子生徒がしゃがみこんでいることに気付く。
 つむじから流れるようなその髪質と、丸めてもなお凛とした背中に、その女子がであることを確信する。
 ――?ナニやってんの? アイツ。
 具合が悪いとかそういうことだろうか。一瞬の懸念も、の姿を見つめているとすぐさま消え去る。
 スカートを膝の下に抱え込んで、何やら植え込みに向かって指先をチラチラと動かしている。その植え込みの向こうで、カサリ、と何かが動く。姿を見せたのは1匹の猫だった。濃い灰色のシマシマ模様の猫は、キジトラというやつだっただろうか。その猫はの指の動きに合わせて鼻先を動かす。出てきた猫を迎え入れるように微かに動いたの横顔が見て取れるようになる。蕩けそうなくらい、緩んだその表情は今までに見たことがないほどリラックスしたものだった。
 きゅぅ、と喉の奥が鳴る。鳴ったのは呼吸のせいではない。無理矢理に感情を無視しようとした結果だった。
 眼鏡のブリッジを抑え、頭を振る。呼吸を整えてなお、鎖骨のあたりが苦しいような気がしたが、それはやはり無視するほか手立てがなかった。
 今一度の方へと視線を向けると、はその猫に触れることに成功したようで、その手のひらを何度も動かしていた。
 唇は真一文字に引き締めているのに、気が緩んでいると解るのはその目元の柔和さによるものなのだろう。頬を紅潮させ、猫の頭の上から首の下くらいまでをしきりに撫でている。
 ふと、そんな様子を眺めているだけの自分の口元までもが緩みかけていることに気が付き、誤魔化すために唇を尖らせた。
「ねぇ、ツッキー」
 不意に山口の声が耳に割り込んでくる。転じていた視線を山口へと向けると、きょとんとした顔で僕を見上げていた。
「なに?」
「なにって、ツッキーの番だよ」
「え、あぁ」
 気付けば前には誰も居らず、山口の言うとおり、自販機の順番が僕に回ってきていた。後ろから刺さる視線を気にせず排水口の溝をまたぎ、自販機の正面に立つ。
 数枚の小銭を入れ、なんでもいいか、と適当にボタンを押そうと指を伸ばしたが、ふと、のことが頭を過ぎった。ぐんぐん牛乳が好きだと言って、はよくそれを飲んでいる。そう思い出すと同時に指先がずれ、ぐんぐん牛乳の下にあったボタンを押していた。ピッという電子音に重なり粗雑な音が下から聞こえてくる。
 チラついた考えに触発されそれを買ってしまったが、主食がお米の弁当に、栄養バランスはともかく、牛乳なんて組み合わせが合うはずがない。そんなのは中学3年間の給食を通していやというほど解っていたのに、チラついたのせいで買ってしまった。
 僕の本意ではないけれど、こうなったら、もうこれを好きだというに飲ませてやるしかないだろう。
 そこまで考え、へと睨めつけるような視線を向ける。すぐに目に入ったは、手のひらこそ猫の背に残していたものの、視線は猫ではなく、自分の背後に立つ人物へと持ち上げていた。
 猫を撫でていた名残なのかもしれない。だけど、は花が開いたかのように満面の笑みでその相手を迎え入れていた。
 遠目から見ても眩しいその笑顔を受け止めた相手は、穏やかな笑みをに返す。少なくない情愛がそこに現れているように感じてしまう。穿った視線だといえばそれまでだけど、も、その相手も、傍目から見ても仲がいいというのを十分感じさせられた。
 ――誰、その〝男〟は。
 見慣れないその男は、当然中学から一緒のやつではなかった。もしかしたら廊下ですれ違うくらいはしたかもしれない。と同じクラスの男なのだろうか。背が高く、ややがっしりとした身体つきの男がに声を掛けると、その横に遠慮無くしゃがみこんだ。
 同じものを見ているせいなのかもしれないけれど、その寄り添うような座り方を目の当たりにして、瞬時に呼吸が詰まった。
 自販機の受取口に伸ばしたままだった手でブリックパックを掴み、そのまま横に捌ける。吸い寄せられるようにの方へと身体を向けたが、彼女がこちらに気付く様子は見られない。
 中学の時、が男子とつるむことはあったけれど、専ら僕か山口かどちらかが側にいることが多かった。だけど今、高校に上がってクラスが離れ、そこで彼女がどういう立ち位置に居るのか知らない。
 入学して話かけに行かなかったのは、が僕のところへ来なかったからだ。教科書を忘れるわけでもなく、部活で一緒ということもなく、きっかけさえも探そうとしなかった。僕を好きじゃないのなら、付き合えないなら、と友達で居ることさえも放棄した。
 再度話すようになったのは、他の女子から僕のことを聞かれることに対して業を煮やしたが僕に直接文句を言いに来たからだ。それで終わるのかと思った関係性が続いたのだって、が無かったことにしたくないと僕に調理実習で作ったマドレーヌを渡してきたことで漸く、安心してに話しかけても大丈夫なんだと知った。
 多分、それがなければまだ僕は彼女に話しかけに行ったり出来ていない。諦めるのだと留まったその場所から、一歩踏み出して、また以前と同じようにしてもいいのだと、戸惑いつつも手を伸ばした。その、矢先だ。
 3年かけて縮められなかった距離に、たかだか1ヶ月で踏み込んでくる男がいる。その事実が途方もなく、痛い。
 が誰かと仲良くしていたところで、僕には何も関係ない、という事実が重く伸し掛かる。咎めることも、怪しむことも出来ない。
 そんなもの見なければいいのに、視線はそこから離れなかった。の姿が男の体格に阻まれて隠されると、なおさら気になった。
 時折揺れる肩も、耳打ちする必要もないほどの距離も、仲睦まじく猫を愛でるだなんて甘ったるい空気も、何もかもが癪に障った。
「ツッキーおまたせ!」
 山口の快活な声が飛び込んできた。そこでようやく意識が剥がれる。
 オレンジジュースを片手に、僕の隣に並んだ山口は、にへらといつもどおりの笑みを浮かべて僕を見上げてくる。その普段通りのものを目にし、少しだけ安堵してしまう自分が情けなかった。
「教室戻ろう!」
「あぁ、うん」
 促され、素直に従う僕を疑問に思ったのか、山口は小首を傾げた。それでも追求してこない辺り、コイツなりの優しさなのかもしれない。
 教室に戻った僕は自席につき、山口がその前の席の椅子に掛ける。高タンパク質&低脂肪の徹底された弁当を口元に運びながら、山口のとりとめのない話を適度に相槌を打つ。
 日向が、影山が、と共通の知人の名前が並ぶ中、当然のようにの名前も出てくる。
「そう言えばっち、最近ってやつと仲がいいらしいね」
 、という初めて聞く名前に、弁当箱の中に落としていた視線を山口に向ける。箸の先を下唇に押し当て、思案する仕草を見せた山口に言葉の先を促す。
「……誰、そいつ」
「いや、俺も詳しくは知らないんだけど、なんか野球部で結構身体がデカい無愛想なやつだって聞いた」
 っていうやつ、という言い方で男なんじゃないかという疑念があったが、野球部だなんて言われてしまうともう疑いようがなかった。
 その人物像を耳にし、脳裏に先程見かけた男の姿が過ぎる。の隣にしゃがみこんだ広い背中は、澤村さんにも匹敵するほどあった。その背中のせいでが見えなくなってしまったことを思い出し、堪え切れず奥歯を噛み締める。
 何故か、確信があった。
 名前を聞いたわけでもない。ただ単にの仲の良い男が別にいてほしくないだけというのも含まれていたのかもしれない。
 ただ、体格の情報しか一致していない状態で、と一緒に居た男が、件のなのだと、断定できた。
「それ、誰情報?」
「影山だよ」
「王様?」
「うん」
 唐突なその名前に、驚いてしまう。の話題に王様が絡むとは思わなかった。そういえば同じクラスだったな、と今更ながらに思い出す。
 王様の口からの名前を聞いたことも、その反対もなかったが、二人の間で会話が生まれた時、山口の名前が出たりするのだろうか。僕の名前も、出るのだろうか。
 淡い感情が芽生えかけたが、二人揃って僕の悪口を言い出しそうだとも思うと、途端にそれはささくれ立つ。それ以前に、が王様と額を突き合わせて話をしているさまなんて想像したくもない。今出てきたという男の存在でさえ許容できていないというのにこれ以上はもういやだ。
「王様ってそういうゴシップ気にしたりするんだ。えらく庶民的だね。しかも無愛想って……あの王様に言われちゃダメでしょ」
 皮肉を込めて言うと、山口は「俺もそう思う」とキシシと笑った。
 ただ、気になるのはあの王様をして無愛想だと言わしめているくせに、それでも、に話しかけることには躊躇しなかったの態度だ。それは他人に興味が無さそうな王様でさえ仲がいいと判断するほどのものを3組で振りまいていることを裏付けしているのではないだろうか。
 胸の内にいやに重苦しい感情が生まれ、それを飲み下すように牛乳を喉に流し込む。もう微温くなったそれを美味しいと思うことは出来ない。
「ツッキー、焦る?」
 山口のその言葉が胸に刺さる。普段なら軽く受け流した上で、山口の方こそ焦るんじゃないのと反撃を仕掛けることだって出来た。食堂の側でとその男を見た時に感じた焦燥を、山口に言い当てられたことがひどく、苦しかった。
「なんで?」
「え?」
「なんで僕が焦んないといけないの?」
 自然と声も目線も鋭いものになっていた。正面から受け止めた山口が肩を震わせる。口元を引き締め、視線を泳がせた後、いつもの「ゴメン、ツッキー」とは言わず、黙って俯いた。
 萎縮した山口に追撃の言葉を投げかけようとして、止めた。八つ当たりにしかならないことなど解っていたし、そんな惨めったらしい真似を晒したくはなかった。
 大きく肩で息を吐きだし、改めてご飯を口に運ぶ。何度か咀嚼を繰り返していると、遠慮がちに山口が顔を上げたのが視界の端に入った。
 困ったような表情に一瞥を投げかけ、そのまままた視線を逸らす。怒気の含まない視線に安心したのか、山口は笑った。
「そういえば話変わるけどさ、ツッキー。さっき、何見てたの?」
「……さっきって?」
「自販機で、ジュース買った時」
 ――話、変わってないじゃん。
 クソ、と内心悪態をつき、を見ていたことを知らない山口にそれを告げるか否か考え、言わない方がいいと結論付ける。の関係を、山口でさえ仲がいいらしいと掴みかねている段階なのに、僕の口でさっき2人で一緒に居たことを伝えることで確定したくなかった。
「別に。何も見てないけど」
「そうなんだ…ツッキー、すごく複雑な顔してたからなんかあったのかなって思ったんだけど」
「え?」
「最初は嬉しそうだったのに、悲しいのと怒ったのと入り混じった顔してたから」
 山口のその言葉に、詳しく観察されていたことを知る。一々言わなくたって、そういう感情の推移をしていたことを自分でも解ってた。だけど山口から言われたことで改めて自覚させられる。
 を想った時に、簡単にその感情が振れてしまうことも、そのすべてを隠すことが出来なくなることも、すべてだ。
「……猫だよ」
 苦し紛れにそう言うと、山口は目を丸くする。
「ツッキー、猫好きだったっけ?」
 きょとんとしたその質問に「別に」と答え「さっさとごはん食べないと昼休み終わっちゃうよ」と食事を急ぐことを促した。
「ゴメン、ツッキー」
 先程聞けなかったその言葉を放った山口は、弁当箱を口元まで抱えて勢い良くかっこむ。豪快なその食べ方には合わせはしないものの、僕もまた黙々と口に残りを運んだ。
 食事が喉を上手く通らないのは、生ぬるい牛乳が食事に合わないせいだ。鎖骨の下あたりがいやに詰まるのは、さっき食べた鮭の骨が刺さったからだ。
 決して、山口が言うように焦ってなどいない。
 それでもチラチラと浮かび上がるのは、僕の知らない相手に笑いかけたの姿だった。
 どうでもいい、と流したことの途方も無い大きさを知る。
 のああいう笑顔を、最近見ただろうか。は僕といる時、どういう表情を取ったか、靄がかかったように朧げになり、そしてどんどん薄れていく。
 はまだ、食堂に入るのだろうか。と2人で並んで、仲睦まじく話しながら――。
 声をかければよかったのだろうか。なんて気にせず、僕らの方が仲がいいだなんて見せつければ、もしかしたらもすんなり離れたのかもしれない。
 甘ったれた考えを浮かべ、そして小さな溜息とともに掻き消す。
 そんなこと出来るはずがない。事実も確証もなく、が望んでいるわけでもないのに、に踏み込んでいく勇気などなかった。
 暗澹たる想いが増幅されていく。また僕は、に話しかけれなくなるのかもしれない。そう思った。  



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