いつ甘08

08.まるであめ玉のようだと


 宵闇に包まれた中では、空を覆う雲に気が付かなかった。今朝見た天気予報では雨の予報だなんて微塵も出ていなかったくせに、そんなの知るかとばかりに、容赦なく大粒の雨が降り注ぐ。たまにと一緒に帰ってみれば、これだ。あまりの間の悪さに舌を打ち鳴らし、嘆いてしまいそうですらあった。
「月島、あそこ入ろ」
 先を走っていたが僕を振り返り、前方に見える商店を指し示す。彼女の背中を追ってその軒下に逃げこんだ。
 夜の遅い時間、その店もすでに閉店していて、誰かが入店することもない。それに安心して、と肩を並べて立つ。
 犬のように頭を振ったは、鼻の下をぐいっと手の甲で拭ってから背負った鞄に手を突っ込む。カラフルなマフラータオルを取り出したは「ん」と僕にそれを差し出す。
 使え、ということなのだろう。自分だってしとどに濡れているくせに、僕を優先させて体調を崩したらどうするんだか。
「僕も持ってるから要らないんだけど」
 差し出されたタオルをの手から取り上げ、乱雑に彼女の顔に投げつける。
「ぷあっ」
 変な声を出して抵抗を見せたがタオルを取りながら僕を睨みつけるように見上げてきた。だけどその視線を受け止めることをせず彼女から顔を背け、自分の鞄の中からタオルを取り出した。
 部活ですでに使ったものだったけれど、無いよりはマシだろう。
 タオルで拭く前に、簡単に手で、学ランを滑る雨露を払いのけ、その上からタオルを滑らせる。
 ちらりと視線を上に向ければ、バケツをひっくり返したような雨が頼りない布の天幕に叩きつけられる。染みてはこないだろうかと訝しんだが、夜の闇でそれを鮮明に観察することが出来なかった。
「止むかなぁ」
 ポツリと言葉を零したに横目で視線を落とすと、唇を半開きにして空を見上げる様子が目に入る。その頭を覆うタオルから逃れ、うなじについた水滴が扇情的に垂れるさまが目に止まる。
 肩が細いことや、流れるような髪の柔らかさなど、普段目に入れど、意識しない部分をまざまざと見せつけられる。単なる沈黙ではなく雨音が響くからこそ、二人きりだということが強調されているように感じた。
 無理矢理に視線を反対側へと引き剥がし、歯を食い縛る。こんな風に簡単に意識してしまう自分のチョロさに嫌気が差した。
「……折り畳み傘とか持ってないの」
「持ってないなぁ。月島は?」
「あったら差してる」
「だよねー」
 苦笑交じりの声がくぐもったのを感じて、を振り返る。首を跨いで掛けたタオルを掬い、顔を埋めている。だがそれも束の間で、僕の視線に気付いたのか、すぐさまそこから顔を上げて僕を見上げる。
「仕方ない。少し待ってみよう」
 その提案には乗るしかなく、ひとつ頷いて返すと、は眉を下げて笑った。
 もう一度空に視線を投げかける。雨の勢いが削がれることはなかったけれど、こんなどしゃぶりの雨が長く続くはずもない。単なる通り雨のはずだ。
 まだ帰り道は半分以上残されていたけれど、親に迎えに来てもらうほどの距離じゃない。
 何より、最近、あまりまとまった時間をと2人で過ごせることもなかったし、話せる時間が伸びたのだと思えば幸運だとも思えた。
はゴールデンウィークはどこか行くの?」
「遠出はしないけど、クラスの子たちとカラオケとか買い物に行く予定。あ、あとは中学の時の友達とか」
 あーちゃんでしょー、などと指折り数えながら、は数名の女子の名前を挙げる。その名前は中学の頃によくの口から聞いてきたもので、なんだか酷く懐かしく感じた。学校は変われども仲良くやっているらしく、はふわりと笑った。
 その笑顔を目を細めて見つめながらも、名前を告げられなかった同じクラスの友達とやらに、あのは含まれているのだろうかと気にしてしまう。
「月島は何か予定あるの?」
「……部活の合宿」
 自分から振った話題だというのに、改めてに聞かれると憂鬱な気分が沸き起こる。
 溜息混じりに応えると、僕の反応とは反対に、は目を輝かせて僕を見上げた。
「へぇ、そういうのちょっと楽しそう!」
「どこがだよ。一日中むさ苦しい連中と顔つき合わせるなんて苦痛でしか無いよ」
「……それちょっとアレな」
 手の甲を口元に持っていっただが、ニヤついた口元が隠れきることはなかった。どうせしょうもない考えを思いついたのだろうと、冷めた目で眺める。
「女の子と会いたいって言ってるように聞こえなくもない」
「ハァ?」
 予想以上にとんでもないことを口にしたに、思わず声が高くなる。
「ホント馬鹿なの。僕、女子のことなんて一言も言ってないんだけど」
「言い訳するとますます図星っぽい」
「ウルサイ、
「ほーい」
 ワザと間延びした声で応えたは、また改めてタオルに顔を埋める。髪に付着した水分を取るその見慣れない仕草に、またしても胸が詰まるようだった。
 お風呂あがりだとか、プールの後だとか、そういうことを否が応でも想像してしまう。無粋な意識を隠すために口元を引き締める。僕の戸惑いに気付きもしないは、自分の頭にタオルを被せ、小さく伸びをした。その飄々としているさまに、八つ当たりなのは承知で腹を立てる。
「ちょっと、黙んないでよ」
「月島がウルサイって言ったんじゃん」
「そうだけど」
 それはがバカみたいなことしか言わないからであって、誰も黙れなんて言ってない。むしろから話題を出してもらわないと、沈黙を貫いてしまったら簡単に押し潰されてしまいそうだ。
 呆れたような目で僕を見上げたは、首の裏に手をやって視線を空へと移す。その唇が動かないことを横目で確認し、眼鏡を外して顔をタオルで拭った。
 沈黙が耐えられないのは心臓が煩いくらいに鳴動しているからなのもあったが、それ以上に、要らない考えが頭を巡るからというのが理由だった。
 話したいことならいくらでもある。ただ、目下、一番気になることが聞けそうにもない。
 とは付き合ってるのか、だとか。そうでなくても好きなのか、とか。
 そんなことを聞いて、肯定でもされたらと思うと、どうしても動くことが出来なかった。やけに喉の奥が痛む。呼吸さえも喉につかえているように感じた。
「んっ」
 タオルの下で軽く咳払いをしながら喉元を抑える。そんなことをしても、一向に楽になることはない。
「どうした? 飴でも詰めた?」
 感情の機微なんて他人にわかるはずがない。それは解っていたがのあっけらかんとした質問に心底嫌気が差した。眼鏡をかけながら遠慮なく蔑むような視線を落としこむ。
「……君はどうしてそうデリカシーがないの?」
「デリカシーねぇ……」
 唇を尖らせて僕の言葉を反芻したは、フイッと僕から視線を外した。女の勘とやらで不穏な空気を感じ取ったのかもしれない。
 こういう沈黙が、今までになかったわけじゃない。それこそ、中2のあの夏の直後は頻繁にあった。
 学校を基点に、山口よりも僕の家の方が遠く、更にその奥にの家がある。時折部活の帰り時間が重なった際に、二人きりの帰り道で何度も、何度も、口篭ったり、頬を赤くしたりと、告白じみた言葉を後悔しているさまをは見せた。
 突き放すようなことを言えばは傷ついてくれるのだろうかと、ワザと辛辣な言葉を選んで試したことさえあるけれど、恋心に触れることを僕から口にしたことはない。
 僕の中の真実をぶつけたら、言い訳ができない。
 どうとも思っていない相手に、考えたそのままの言葉をぶつけることはちっとも怖くない。相手が傷つこうが不快に思おうがその感情の揺れ動きなんて、一切、僕には関係ないからだ。
 だけど、にだけはそうはいかない。好きと言うことすら、怖い。
 好きだと言って、完結するならそれでもいい。だけど、僕がに求めているのはその先だ。それはキスがしたいだとか抱きたいだとか、そういう情欲だけでなく、出来ることなら別れること無く続けられたらと思う。
 だけど、一生を、だなんて願ったところ叶うはずもない。
 こんなもの、思春期によくある、ただ一時の熱に浮かされる伝染病のようなもので、欲したところでキリがない。
 仮にが僕の想いを受け止めてくれたとして、学生の内はなんとかなるかもしれない。だけど卒業して離れ離れにでもなればすぐに終わるはずだ。あれはただの恋のはしかというやつだったのだと大人になって思い返すことすらしてくれないだろう。
 手に入れてもいないくせに、を失うことが怖い。雁字搦めに僕を縛り上げるこの感情が、憎くすらあった。
「あーぁ……止まないね、雨」
「そうだね……」
 の曖昧な言葉に、僕もまた曖昧に返した。普段は言い淀んだりしない会話が詰まる。僕自身が普段極力考えないようにしていることを考えているせいだろうか。
 雨粒が道路を叩く音に、頭の中に靄がかかったようになっていく。
 その中でさえも薄っすらと浮かび上がるのはへの想いで、それと同時に、の顔が頭を過ぎった。
 のことをと呼び、そして当然のように彼女の側に立ったも、僕と同じようにのことを好きでいるのだろうか。疑問よりも確信に近いその考えに、口元が自然と引き締まる。
 僕がずっと極力考えないようにしていたことが、の出現のせいで暴かれ始めた。
 それは、僕がへ想いを告げることを諦めている間に、が誰かのものになってしまうのではという懸念だ。
 諦めているなら、致し方ないじゃないか。受け入れたらいいだけの話だ。そういう思案を浮かべれば、また先程みたいに喉の奥が痛んだ。
 想像しただけで呼吸が上手く出来ないのに、それが現実になった時に、僕はどうなってしまうのか。
「っくし」
 空気が触れる音がした。横目で確認すれば、が口元を抑えて、もう1つ、2つとくしゃみを続けた。寒さというよりも雨が降ったことで屋根の上にあった埃が流された結果によるものなのだろう。平然と鼻の下をタオルで拭うは、小さく唇から溜息を吐き出した。
 いつもは薄い唇がほんの少しだけぽってりと腫れているのは、タオルで擦ったせいなのだろうか。
 半開きの唇から、またひとつ、吐息が漏れる。その喉の震えさえも、堪らなく、愛おしい。
「ねぇ、
 僕の短い呼びかけに、は僕を振り仰いだ。まっすぐに向けられるその視線は、まだ僕の呼びかけに応えてくれる。だけどそれも、今だけだとしたら?
 放っておいても、は離れてしまうのかもしれない。
 と今は付き合っていないのだとしても、いずれ、そうなってしまう可能性は高い。入学してたった一ヶ月で、僕や山口と同等な距離感での側にいるのだから、その倍以上の時間があればどこまででも進めるんじゃないだろうか。
 そういうのを目の当たりにしたら、きっと食堂前で二人を見かけた時以上の喪失感に襲われるはずだ。
 ――そういうの、結構堪えるんだけど。
 目を細めると同時に、眉根が自然と寄った。いつもみたいに睨んでいるのかとに思われたかもしれない。だけどその反応は僕の中にあるせつなさに押し上げられたものだった。
「……キスでもする?」
 いつもみたいに、僕のことが好きなんじゃないのかとからかうだけではもうの心には響かない。少しくらい、が僕のことを意識してくれたらいいのに。そんな気持ちで、より一歩踏み込んだ言葉をにぶつけた。
 好きだと伝えることが出来ない以上、繋ぎ止める方法が解らなかったからだ。
 僕の言葉を受け止めかねたのか、もまた眉根を寄せる。ただ、その視線を外すようなことをはしない。
 夏祭りで飲んだラムネの瓶の中に入ったビー玉のように透き通ったその丸っこい目に、見つめられるだけで僕の心の中全てを見透かされてしまいそうな恐れすら浮かび上がるようだった。
 僕が今、どんな瞬間よりも余裕のない顔をしているのを見られるのは嫌だったけれど、無視することも躱すことも選択肢にはない。今だけはその感情を偽ることが出来そうもなかった。
 いっそ、暴かれてしまった方が楽になれるんじゃないだろうか。自分から伝える勇気はないくせに、そんな考えが脳裏を掠める。
 交わった視線に、益々、呼吸が覚束なくなる。喉の奥に飴が詰まったのかとが言ったけれど、まさに、そんな心地だった。
 の半開きのままだった唇が閉ざされる。押し黙られるのかと怯えたのも束の間で、僕の目から視線を外さずに、が口を開いた。
「──   」
 雨音に紛れて聞こえたの言葉に、喉の奥にあった感情が、また膨れ上がった。



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