いつ甘09

09.苦く迫る終焉


「――いいよ」
 勢い良く降る雨粒が庇に張った幕を叩く音は少なくない。その中にあっても、の声だけはよく通った。だけどそのの言葉の意味を掴みかねて、目を見張ってしまう。
 僕の動揺に気付きながらも、は僕から視線を逸らさない。
 キスでもしてみるかだなんて提案を、本気でしたわけじゃなかった。こんなことを言ったって、どうせ「またそんなこと言って」だなんて軽く返されるかと思っていた。
 ただ、そこで、ちょっとくらい、が照れるなり慌てるなり、なんらかの反応を取ってくれれば成功だと感じていたはずだ。胸に燻っているへの気持ちが少しは収まるんじゃないかと思っての行動だった。
 だが、今のの言葉に、驚かされたのは僕の方だ。
 いいよ、だなんて言葉を簡単に告げたは、どういうつもりでいるのだろう。
 僕と同じように、動揺するさまを見たいとでも思ったのだろうか。だとしたら僕がこうやって目を丸くしているのを目にして、いたずらに成功した時の笑みを見せてもいいはずだ。
 実直にこちらを見上げてくるに、返す言葉を見つけることが出来ず、喉に留まったツバを飲み込んだ。ごくりと、動いた喉元には、今まで感じたもの以上の戸惑いが詰まっているようだった。
 このまま、時間が止まればいいのに、だなんて月並みな言葉が頭を過る。この時間を、との関係を、永遠に失いたくない。どうしようもない愛しさに、押し上げられた感情に、自然と眉根が寄った。口に出来ない思いが、胸に詰まる。
 絡め取られた視線を外すことが出来ないでいると、がほんの少しだけ眉を下げたのが目に入る。
「……なんつって」
 ぽつりと言葉を零し、唇を引き締めたは、タオルを掴んだままだった手を離し、少しだけ持ち上げて耳の裏を抑えた。気まずそうに視線を僕から逸らすに、一瞬で焦ってしまう。

 ――逃したくない。

 僕の視線から逃げようと俯き掛けたの右手を掴み、僕の方へと引き寄せる。
 反射的にこちらを振り仰いだの目が僕を捉えた。その瞳を受け流すように目を細める。
 そのまま背中を丸めて、自分と比べてずいぶん低い位置にあるの顔へ、僕のそれを近付け、唇を重ねた。
 触れた瞬間、目を瞑る。ぎこちなく押し付けたままの唇を、一度離し、もう一度緩やかに合わせる。緊張に口元を引き締めていたせいか、思ったより柔らかくはなかった。
 唇を押し付けたまま、伏せていた目を薄く開く。
 丸っこい目と視線がかち合うのかと思っていたのに、目に入ったのは伏せられた長い睫毛だった。の手を握った左手に、自然と力が入る。
 先程の僕と同じように目を強く瞑ったに、まるで受け入れてくれているのではないかと錯覚してしまう。
 じくり、と胸の奥に鈍い痛みが走る。とキスをして、僥倖よりも先に感じたのは苦みだった。
「……ホント、スキだらけなんだから」
 唇の先が触れたまま呆れを含んで呟くと、は薄く目を開き、僕と視線を合わせた。それを目にし、傾けていた身体を少しだけ持ち上げる。それでも額が触れるほどの距離を残したのは、これ以上触れられないとしても、の近くにいたかったからだ。
 眉根を寄せ、合わせたばかりの唇を尖らせたは、僕を見上げ睨み据えてくる。
 その表情は怒ったようにも、困ったようにも、はにかんだようにも、見えた。
 ホント、大好きなんだけど──。
 喉の奥にこびりついた言葉が形になることはない。キスをしたところで、今のは僕が勝手にの唇を奪ったというものでしかないからだ。
 目を薄く瞬かせたは、僕に視線を合わせたまま、少しだけ顎を引いた。
 サラリと触れた前髪の柔らかさに、目を細める。呼吸さえも届きそうなこの距離に胸が甘く痺れるよりも、気持ちが伝わらない絶望に息が詰まった。
「ファーストキスだったのに」
「僕もだけど」
 非難というよりも、端的に事実を告げるのみのに、僕もそのまま応じる。
 事実、という自信があったのは、に彼氏が居たことがあるという話を聞いたことがなかったからだ。中学の時にと恋仲にあるという噂になった相手は他でもない僕だったし、の性格から言えば彼氏でもない相手とふしだらな行為に及ぶ可能性も考えられない。
 もっとも、僕自身の手で付き合ってもない相手とキスをさせてしまったのだから、その根拠は薄れてしまうのだけど、それでもの言葉が虚構だとも思えなかった。
 初めての、という事実に、胸に詰まっていた悋気が薄く引いていく。口元を仄かに緩めると、その反応を目にしたもまた目元を和らげた。
「月島さぁ……そういうのってやっぱりロマンチックなのがいいよ? ちゃんと大事にしなよ」
 わざとなのか、茶化すような声音では言葉を繋げる。やりようによっては今からでも遅くはなかったはずなのに、そのロマンチックなものに変える気なんてさらさら無いのだろう。がよく読む少女漫画にだって突然ヒロインが男にキスをされるシーンなんてありふれているのに、そこに自分の身を置こうとすら考えないのは、相手が僕だから――好きでもない、相手だからか。
 いつも通りに振る舞おうとするに、僕もまた観念して彼女から身を引いた。
こそ、ナニ黙って受け入れてんの」
「私はちゃんと避けようとしたもん。それを月島が……」
「いいよって言ったのはでしょ」
「その後なんちゃってつったじゃん」
「聞こえませんでしたー」
「あぁ、もうホンットに」
 苛ついたのか、僕から視線を逸らすように下を向いたは、首にかけていたタオルを掬い上げ、そこに顔を伏せた。彼女の視線に入らないことを確認し、僕もまたの手を握ったものとは反対の手で唇を覆った。
 重なったばかりの感触を、手のひらの下で思い返すと、今更ながらに心拍数が上がる。短い呼吸を手のひらで隠しながら、を見下ろす。
 未だ顔を上げない彼女が、何を思っているのかはわからない。弾んだと思える会話を振りきってまで押し黙られると、途端に怖くなる。
 初めてだと言う割に、の態度に怒りや戸惑いが見られないのは、彼女が何らかの感情を隠し通しているからに違いない。ならば、その隠したものはどういったものなんだろうか。
 最低だとか、ムカつくだとか。そう思われても致し方ないことをやってしまった自覚はある。
 僕は、のことを好きだけど、が僕のことを好きじゃないなら、キスなんかしたって気持ち悪いとしか思えないはずだ。
「……悪かったよ」
 未だ顔を上げないに謝罪の言葉を投げ掛ける。僕の手の中にあるの手のひらに微かに力が入る。握り返すとは言い難いその小さな反応を追いかけるように、僕は更に力を込めての手を握った。
「別に、もう気にしないから」
 肩で一つ、息を吐きだしたは、顔からタオルを剥がしたものの僕を見上げることをしない。左手を持ち上げ、前髪を掴んだの姿には見覚えがあった。
 あの夏の告白のようなものから僕が逃げた時、同じような仕草をは取った。
 ――また、変わらないのか。
 僕を好きなんでしょうと追いかけても、キスをしても、何も変わらない。否、あれから2年経っても、僕自身に、いまだとの関係を変える度胸が無いだけなのだということを、嫌というほど自覚させられる。
「ねぇ、
「……なに?」
 顔を伏せたままのの額にある手の甲を見つめる。この手を振り払って抱きしめることなんて、到底僕には出来そうもない。
「僕と、は友達でいれるのかな」
 縋るような言葉を口にすると同時に、の額にあった手が下げられる。途端に、隠されていた瞳がまっすぐに僕を見上げた。
 その視線の奥にある感情を読み解くことなんて、初めから出来るわけがないなんて解ってるのに、胸に生まれた歯痒さに下唇に噛み付いた。
「お互い、そうだと思ってれば、なれるんじゃない?」
 普段よりも歯切れの悪い言葉を続けたは、さっきのようにおどけたりしない。ただそれだけで、彼女の偽りのない本心なんだろうと思わされる。
「そう……」
 曖昧に頷いて応える。一体僕は、からどういう答えが欲しかったのか。いっそ、友達になんてなれないと突っぱねられた方が楽になれると観念しているのに、それでも真逆の答えを導き出して欲しいと願ってしまう。
 決して届かない、微かな祈りを僕自身が何度もダメにしてきたというのに、本当に馬鹿らしい。
 これで良かったのか、悪かったのか。変化を望みながらも、この場所を失いたくもない、
 我儘だなと自分自身に呆れてしまう。
 キスなんてしておきながら、決定打を打てないでいるのは滑稽だと自分でも思う。それでも僕は、決して本懐とは言い難い関係であっても、が僕から離れないのであればそれでよかった。
「でも」
 低い声が耳に届く。その声音に肩が震えた。唐突に胸に憂鬱な気持ちが膨れ上がる。の僕を見上げる視線に気圧されて、思わず体が強張った。
「友達とはキスしないから、次しちゃったらダメかもね」
 淡々と、実直な眼差しをこちらに向けたまま告げたに、ぞろり、と背中に冷たい感触が走る。
 ――釘を刺された。
 もうこの先を進む気は無いのだと、は言う。
 ストレートな物言いに含まれていたのは拒絶だ。ダメだというのは、キスに限らず、もう一度同じような意図を含んだ行為に及べば、は僕から離れるということなんだろう。
 きっと、そうだ。一度なら許す。だけど二回目は許さない。懐が広い割には許容できない部分は平気で突っぱねる、いかにもらしいスタンスだと感じた。
 そういう潔癖なところが、のいいところだと思う。だが、を好きなところを改めて感じるのと同時に、一つの答えが突きつけられたことを僕は知る。
 ――この恋が報われることは、きっと、ない。
 諦めるのだと常日頃から思っていた。だけど僕が自分からそれを選ぶことと、から言い渡されるのとでは全然違う。言葉の重みに、胸が潰れそうなほど絶望がのしかかってくるようだった。
 の手を握ったままであっても、握り返されないし、振りほどかれもしない。縋り付いているのが自分だけなんだと思い知らされるには充分だった。
 終わらせてしまえば、いいのか。どうせ恋なんて、一時の気の迷いで、永遠と続くものなんかじゃない。もう3年近く抱いている恋慕も、手に入っていないからこそ執着しているだけなのかもしれない。
 この甘く痺れるような感情さえも、単なる錯覚でしか無いと受け入れれば、いいだけの、それだけの、話。
 飴でも詰めたのかと、おどけたの声が耳に蘇る。
 詰まっているのは飴なんてもんじゃない。飴ならいつか溶けて消えてくれるけれど、これはちょっとしたきっかけで大きく、簡単に、肥大する。
 甘くない。もっと苦くて、泣きそうなくらい胸に詰まる。
 水を張った水槽に、小石を投げ入れるように、溢れて決壊してしまいそうだ。それどころか、手元が狂ってその水槽さえも砕いてしまいそうなほどの脆ささえもある。それで、いいのかもしれない。砕け散ってしまえば、その時こそ、僕はを、諦められる。
 唇を薄く開き、息を吸って、そして吐き出す。喉の奥が震えた。嗚咽さえ漏れなかったものの、泣きそうなときの呼吸によく似ていた。誤魔化すように、僕は怒ってもいないのに眉根をきつく寄せて目元に力を込める。当然、からすれば睨まれたように感じるはずだ。
 僕の表情を目の当たりにしても、怯むこと無く見つめ返すこの瞳を、失うことが怖い。

 ――友達でいられないなら、恋人にしてよ。

 今、そう言ったら、まだ間に合うの?
 諦めきれない感情が、胸を占めている。受け入れてくれないと解りきっていることを口に出す勇気さえ無いくせに、未だに可能性の低い答えをに求めてしまう。
 好きだ、と、ただその一言さえ言えないまま、縋るように冷たいの指先を握りしめた。  



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