いつ甘10

10.夜はすぐそこに


 時刻は夜の8時に差し掛かろうとしている頃。
 部活の練習を終え、漸く辿り着いた合宿用の施設を目にし、うんざりとした溜息を抑えることは出来なかった。ボロボロというほどでもないが、心が浮き立つほど目新しいというわけでもないその施設に、今日か4泊5日で泊まり込まなければいけない事実が鬱陶しくて仕方がない。
 しかもバレー三昧の日々を強いられるのだ。熱血やスポ根なんてやりたいやつがやればいいのに、どうしてたかが部活にここまで入れ込まなくてはいけないのか。
 案の定、騒ぎ出した日向やそれに便乗する田中さんたちを目にし、もう一つ溜息を零した。こんなところでむさ苦しい連中と1日中顔を突き合わせなくてはいけないなんて、苦行にも程がある。そんな僕の言葉に清水先輩が居ればいいと田中さんたちは訴えたが、それをサクッと菅原さんが否定する。
 黙って地面に倒れ伏した二人を横目に宿舎内へと足を伸ばしていると、先日のの言葉が耳に蘇ってくる。
 ――それちょっとアレな。女の子と会いたいって言ってるように聞こえなくもない。
 小馬鹿にするようなの顔が同時に脳裏を過ぎる。冷やかしとはいえ、あの二人と同列に語られたことに腹が立ち、小さく舌を打ち鳴らす。前を歩いていた菅原さんが不思議そうに振り返ったが、なんの反応も返さずに居ると何かを察してくれたのか、また先行して宿舎の奥へと足を進めていった。
 そう長くはない廊下を歩きながら、先日の帰り道のことを思い返す。
 大降りだった雨が止み、黙り込んだを家まで送り届ける間、会話が生まれることはなかった。ただ、僕がぎこちなく握りしめただけだった手を離さず歩く道すがら、時折が握り返してくる感触を追うだけだった。
  別れ際に僕を見上げたの真っ直ぐな眼差しを受け止めた時、小さな疑念が頭をもたげた。は僕との間柄をどうしたいと思っているのだろう、と。
 門扉の前で黙って僕を見上げたは、僕が手を掴んだままだったせいもあるのかもしれないが、足を止めたままなかなか家に入ろうとはしなかった。またキスをしたらもう友達ではいられないなんて釘を刺したくせに、その眼差し一つで簡単に僕を惑わせようとする。抱きしめたら逃げると解っているからこそ踏み留まれたけれど、本当に、はずるい。
 あの視線の意味を、僕は問いただした方が良かったのだろうか。過ぎたものを思い返して後悔するなんて不毛だと解っているのに、に関してはいつも「たられば」を考えてしまう。
 ――付きあおうとストレートに言っていたら。それよりも中学の頃にきちんとと向き合っていれば、今みたいに悩まずに済んだのだろうか。
 こうやって空想に想いを馳せるような非生産的な真似をしたくもないのにしてしまう。今更虫のいいことは言えないと逃げ続けてきたツケだとは理解しつつも、嫌というほどにそれらの行動が染み付いていた。
 あの日以降、とは顔を合わせること無く合宿に入ってしまった。時間を置いてしまうとまた前みたいに気軽に話しかけられなくなるんじゃないかという焦りさえも悔やむ要因となっているのだから自分の後悔癖が嫌になる。
 雨の音に混じった会話を思い返す。は休みの間の遊びの予定をいくつか立てていたようだが、部活で学校に来たりはしないのだろうか。少しでも姿が見れれば、胸にある塞ぐような感情も薄らいでいくはずだ。
 頼りない祈りを胸に抱いていると、前を歩いていた菅原さんが「ここだぞー」と寝場所へと続くのだろ横引きの扉を開いた。

* * *

 夕飯を食べたあと、布団の用意を終えて、ようやく一息をつけた。あとは風呂の順番が回ってくるのを待つだけだ。
 壁際に置いた荷物の前に膝をつき、タオルや替えの衣類を出しながら、鞄の奥に仕舞い込んだスマホへと手を伸ばす。画面の上で光るランプに期待をしながら画面に触れる。
 だが着信履歴も、受信メールも待ち望んでいた人からのものはなく、通知を切っているLINEを立ち上げてみたが、それもまた同様だった。
 溜息を吐き出して、もう一度鞄の奥にスマホを押し込んだところで、隣に座った山口が声をかけてくる。
「ねぇ、ツッキー!」
 今日はあと何回、山口が発するツッキーを聞かなければいけないのか。この5日間で相当数を聞く羽目になるだろうことを想像し、溜息を零しながら返答する。
「……なに?」
「シャンプー持ってきた?」
「……持ってきたけど」
「さすが、ツッキー!!」
 何がさすが、なんだか。楽しそうに笑う山口は、練習漬けなのはともかく、意外とこの合宿を楽しんでいるのかもしれない。
 単純でいいよね、という言葉を飲み込んでチラリと横目で睨みつけるだけで抑える。
「あ、メール来てる」
 僕と同じく携帯を取り出した山口がひとりごとを零す。から連絡が入っていたりするのだろうかと気にしてしまう自分が嫌でスッと自分の鞄の中に目線を落とす。
「あーあ、また広告メールだ。いい加減やんなっちゃうよ、ツッキー」
 うんざりとした声で告げられた内容に胸を撫で下ろす。律儀に消去でもしているのか指を数度動かした山口は、投げやりに鞄の中に携帯を落とした。
「設定で来ないようにすればいいんじゃないの?」
「そうだね! やってみるよ! ありがとう、ツッキー!」
 いつものように屈託なく笑う山口は取り落としたばかりの携帯を拾い上げ、そそくさと操作する。時折画面を見せてくる山口を適当にあしらっていると、背後から声が掛かった。
「おい、月島ァ」
「……なんですか」
 どことなく声音にニヤついた色を感じとり、不機嫌に返しながらも振り返る。予想通り、ほくそ笑んだ田中さんが僕を見下ろしていた。つい先程まで縁下さん相手に清水先輩がいかに美しいかを西谷さんと一緒に熱弁を振るっていたはずなのに、どうして僕に声を掛けてきたのか。胸に沸き起こるのは嫌な予感しか無かった。
「お前さぁ、あれからちゃんと何か進展あったか?」
 やっぱり、そういう話か。
 胸中で呟くと共に肩を落とす。
 キャンプだとか修学旅行だとか、大勢で寝泊まりすると、必ずと言っていいほど誰かしらこの話題を出してくる。ほぼ確信していた予想が当たったことに辟易する。
 それも誰が好きなのかという曖昧な質問ではなく、と断言されたことが嫌で堪らなかった。
「別に、進展なんて」
 してない、と断言するつもりだった。だけどつい先日、重ねたばかりの感触を思い出し、言い淀んでしまう。
「……してませんから」
 詰まらせた言葉を無理矢理に繋げたが、間が空いてしまったことは隠しようがない。隣にしゃがみ込んで興味深そうに目を見張った田中さんはともかく、山口までもが横から覗きこんでくる。
「おいおいおい、お前、まじかよっ!」
「ツツツツッキー! おめでとうっ!」
 頬を紅潮させた二人が、唾を飛ばすような勢いで顔を近付けてくる。それらを傍らに置いていたタオルを掲げることで躱す。逸らした視線の先にいる西谷さんたちが目を丸くしてこちらの様子を窺っているのが目に入る。主将が風呂で居ない今、この混乱を止めてくれる助けを求めることはできない。もっと上手くこの話から逃げ出さないとと思えば思うほどに思考が空転した。
「ああっ! それより俺っちにおめでとうって言わなきゃ」
「ちょっと! 何もないって言ったよね!?」
 手にした携帯を操作し始めた山口の肩を掴んで引き止める。反射的に謝罪の言葉を告げた山口だったが、その山口に対しての写真がないのかと騒ぎ出す田中さんが本当に煩わしい。だいたい、先日もって呼ぶなと諌めたのに、まったく気にしていないさまに腹が立った。
って、?」
 慌ただしい二人を諌めている最中に、掛かった声にぎょっとする。それは僕だけの反応に留まらず、山口や田中さんでさえも口を開いたまま固まったほどだった。少し離れた場所から僕らに声を掛けてきた相手を睨めつけながら口を開く。
「……なに、王様」
「お前、それヤメロっつっただろ」
 そう、王様だ。こういう話題には到底食いついてきそうもない影山が、態々仲がいいわけでもない僕に対して踏み込んできたことが珍しかった。しかもだなんて名前だけを捕まえてやってくるなんて、どういう意図があるのか訝しんでしまう。
「……王様でも庶民の名前覚えてたりするんだ」
「オイ、それどういう意味だよ」
 疑ったところでキリがない。渡りに船とばかりに影山への嫌味をぶつけることでこの難から逃れることにしよう。気持ちを切り替えて応対を始めると、案の定田中さんが喧嘩するなと窘める立場に収まってくれる。
「そのままの意味だよ。君って全然他人に興味があるようには見えないからおかしくって」
 片眉を持ち上げて嫌味たっぷりに告げると、隣で山口がキシシッと歯を見せて笑う。同調されても普段は意味のないことだと思うけれど、山口の意識がから離れたのであれば成功したと言えるだろう。
 僕の言葉にハンと鼻を鳴らした影山がこちらへと足を進めてきて、厭味ったらしい口角を僕のそれ以上に持ち上げる。
「お前みたいな奴が、と揉めてまで執着する相手がいるのが面白かったからな」
 言い草にも腹が立ったが、間近で見下ろされていることで、より一層の嫌悪感が胸を占める。立ち上がることでその視線を僕に優位なものに変えてやると、影山は普段から尖った唇を更に付き出した。
「お前らやめろって! ちょっと、影山君! ここ! 座りなさい!」
 しゃがみこんでいた田中さんが、そのまま僕達を見上げて吠える。自分の横のスペースの床を叩きながら示した田中さんの言葉に従い、影山はその場に膝をついて座る。うんうんと満足そうに頷いた田中さんは、影山の肩に腕を回して耳に口元を近付ける。
「その時の話詳しぃーく教えてよ」
 小声で紡がれた言葉が耳に入り、カッと頬に熱が走る。
「ちょっと! 余計なこと言わないでよね!」
「……」
 僕の方にチラリと視線を持ち上げた影山を睨みつける。黙ったまま僕を睨んでいた影山が、またしてもニヤリと口元を歪めた。嫌な予感しかない。
「事件が起こったのは先々週の木曜日で……」
「ほうほう」
 言うな言うなと騒ぐのも馬鹿らしくて、彼らの側にまた腰を下ろす。
 チラリと山口へと視線を向けると、ちゃっかりと影山たちの話に混じって「ツッキーがそんなことを……」だなんて頬を紅潮させている。影山の話している内容は確かに事実と相違なかったけれど、客観性のみではなく主観混じりの話をされ、苛立ちが沸き起こる。
「王様、人の好意を拡大解釈しすぎ」
「ハァ? なんでだよ。お前が他のクラスに入ってきてまで女子を助けるなんて異常事態にも程があるだろ」
「だからその助けたって認識がそもそもの間違い。いくら同じクラスだからって寝てる女子盗撮するようなの気持ち悪かっただけだから。正義感の強い田中さんならこの気持わかってくれますよね?」
 唐突に話が回ってきたことに目を丸くした田中さんだったが、僕の言葉に気を良くしたのかニカッと笑って胸を反らす。
「んん?! そうだな! 俺もそんな場面に出くわしたら間違いなく割って入るな!そして…」
 言って、一人小芝居を始めた田中さんから視線を逸らし、山口にも視線を向ける。
「山口だってが勝手に写真撮られてたら怒るでしょ?」
「そりゃ怒るよ! でも実行には移せるかは……やっぱりツッキーはカッコイイなあ!」
「誰もそこまで聞いてないんだけど……」
 うんざりと返すと、やはり例のごとく「ゴメン、ツッキー」と山口は続けた。溜息を吐いて視線を反らし、影山へと移す。鋭い目を丸くして田中さんを見ていた影山も、僕の視線を受けてこちらを振り返る。
「ホラ、聞いてのとおりだよ。僕が取った行動なんて一般的なもので、別にが特別だから起こした行動じゃない」
「お前って普通の行動出来たんだな」
 ものすごく失礼なことを言われたが、噛み付いて返すのも面倒だ。もうこれ以上会話を続けたくなくて適当に、はいそうですよ、とばかりに溜息を吐いて顔を背けた。
「おい、月島」
 短い呼びかけに、視線のみを影山に戻す。
「……なに?」
「……お前、の関係知らねぇの?」
 影山の言葉に目を丸くする。それと同時に呼吸が詰まる。となにかしらの関係があると言われて、考えつくのは一つしかない。僕自身も一度は考えたことだ。
「ハァ?関係って…なに、と付き合ってんの?」
 自然と顔が顰められた。眉間が痛いほどに寄っているのが自分でも解る。影山の曖昧な言葉に苛立ったのと、やはりなにかしらの繋がりがあったのだという事実に対する恐れと、感情がない混ぜになって胸を去来した。
「……お前、嫌なやつだから教えない」
 低い声で言い放った影山はその場に立ち上がる。去り際にニヤリと笑った影山の言葉を追いかけることも負けな気がして伸ばしかけた腕をそのまま降ろした。



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