いつ甘11

11.ひとりぼっちの月に太陽は届かない


「持ってこぉおおおい! ~んにゃあ……」
 薄い眠りの中、うつらうつらとした意識を劈くように耳に響いた声に、反射的にチッと舌を打ち鳴らした。脳天気な声は、恐らく日向のものだ。普段の発言そのままの単純すぎる寝言に苛立ちが浮かぶと同時に薄っすらとした眠りが覚醒へと方向転換する。
 このまま寝入ることは不可能そうだ。少し気分を変えた方がいいだろう。
 被っていた布団を払いのけ、仰臥させていた上体を起こす。ちらりと視線を左右に振ったが、誰ひとりとして今の日向の寝言に起きる様子を見せないことに、溜息を吐く。練習で疲れているとは言え結構大きな声だったというのに。まったく、無頓着に寝れるなんて羨ましい。
 暗闇の中にほんの少しだけ差す光は、閉じられたカーテンの隙間から注がれるもの。それも頼りなく一つ取り付けられた街灯による薄明かりのみだった。手探りで枕元に置いたはずの眼鏡を探し、触れたそれを着ける。
 チラリと隣に顔を向ければ枕を抱きしめて眠る山口の姿が視界に入り、その更に奥に視線を伸ばすと人の眠りを妨げた張本人である日向が両手を頭上に掲げて眠るさまが目に入る。大口を開けて規則正しい寝息を立てる姿が普段以上に忌々しく感じた。
 小さく息を吐く。元々寝付きは良くなかったがこのまますんなりと寝れる気がしない。苛立ちを抑えるためにも少しこの部屋から出て一人になった方がいいはずだ。思い立つままに布団を捲り、立ち上がる。
 通りすがりに日向の枕を蹴っ飛ばしていこうかと考えたが、起きられても面倒だと思い、適当にスリッパを選び、そのまま足音を忍ばせたまま通り過ぎた。
 極力音が鳴らないように扉を開け、合宿施設の入口の近くにあった自動販売機の方へと足を進める。
 ハーフパンツのポケットに少しだけ入れていた小銭を取り出して一枚ずつ投入する。並ぶ商品に目を移し、ボタンを1つ押す。夜の静けさの中で、ペットボトルが落ちてくる音がいやに響いた。廊下の奥へと視線を向け、誰も出てこないことを確認し、排出口に手を差し入れる。
 冷やっとした感触に益々目が冴えるようだった。
 部屋に戻って飲むのも憚られて、自動販売機の傍らに設置されているソファに腰掛ける。背中を預けて座り、キャップを捻り口をつけた。
 飲み慣れた味が喉を通る。だが、想像以上に甘ったるい味が舌に残ったことに自然と眉を顰めてしまう。手元のボトルに視線を落とし、そこで初めて自分がポカリスエットを買ったことに気付いた。
 水を買ったつもりだったのに、と小さく息を吐く。
 無意識の内にポカリを買ってしまった要因が脳裏をチラつく。いや、違う。最初から――いつだって、頭の中にある彼女の姿に指先が導かれたと言った方が正解なんだろう。
 ――月島も、飲む?
 いたずらっぽく弾むの声が耳の奥に蘇る。同時に浮かび上がったのは中指と人差し指の間で挟んだボトルを傾けて笑うの姿だった。僕の答がノーだと知っているのだと言いたげな余裕の表情を何度崩してやりたいと思ったことか。
 夏になるとは毎日のようにポカリを飲んでいる。糖尿病になるよと茶化しても一向に習慣を改めない彼女は、きっとまた夏が来れば中学の頃と同じように自動販売機の前で躊躇いもなくポカリスエットの下に点灯するボタンを押すのだろう。しなやかな指先や立ち居振る舞い、小気味よく喉奥を鳴らす音が簡単に想像がつき、間近で見つめ続けた経験が記憶として根強く残っていることを否が応でも意識させる。
 キュッっと蓋を閉め、右手から左手へとボトルを転がす。その動作を繰り返しながら、ボトルの中で水分の動くさまを眺める。
 撥ねる水の様子に、つい先日の記憶が脳裏を掠めた。左手でボトルを握り、右手の指先の甲を唇に触れさせる。
 とキスをした。違う。あんなのは奪ったと言った方が相応しい。自分を戒めるために考えを改めたがそれでも唇を重ねたことに変わりはない。
 あの時の唇の感触を思い出すといたたまれないような気持ちに襲われる。ソファの肘置きにもたれかかり、ひとつ、息を吐く。頬の熱に浮かされて、のことを思い返してしまう。
 こんな風に僕が真夜中に起きて、のことを考えているだなんては知らずにぐっすり寝てるんだと思うと妙に胸がざわついた。
 あの夜のことを思い起こせば簡単に首のあたりに熱がこもったように熱くなる。右手を少しずらして頬を拭い、誤魔化すように首の横側に手のひらを押し付けてその熱を押さえ込んだ。
 どうしては簡単に受け入れたりしたんだ。抗ってくれたら僕だってキスなんてしなかったのに、いいよだなんて言われたら抑えられなくなるに決まってるじゃないか。
 自分から行動に移したくせに責任転嫁のようなことを考えてしまう。
 雨の降る夜のしっとりとした空気に流されたのか、逃げる暇も余裕もなかったのか。否、逃げる時間ならあったはずだ。
 の思惑だなんて解りようがない。
 いつも僕をその気にさせてすり抜けていくを諦めなければと思っていたのに、忘れられない。今度また同じように手を出せば友達を辞めるとまで宣言されたのに、だ。淡い想いも3年かければ執着になる。簡単に撥ねる心臓も、にわかに熱くなる手のひらも、すべてがにしか反応しないのも、パブロフの犬の原理と同じことで、経験が反射に変わってしまっただけなのだろう。
 気持ち悪い。たったひとりの少女に翻弄されている自分が嫌になる。諦めると決めて、それに進むように気持ちを抑え込めばいいと分かっているのにできないことが腹立たしい。
 大仰に一つため息を吐きこぼし、もう一度ペットボトルの蓋を外して傾ける。グイっと飲み込んでしまえばまた甘い味が喉につかえた。
 無意識に買ったポカリに対しても苛立ちが増幅される。のことばかり考えてしまう遠因を思い起こす。寝る前に田中さんや影山がのことを話題に出すから、こんな目に遭うんだ。
 報告も相談もないのかとやけに突っかかってきた田中さんの声に触発されて西谷さんがはしゃぎ出し、果ては縁下さんたちにまで「月島、彼女いたの?」だなんて聞かれる始末だった。風呂から戻った主将の騒ぐなという一喝にどれだけ安堵したことか。
「バッカじゃないの……」
 溜息を吐きこぼし、ペットボトルを仰ぐ。まだまだ残りの多い中身をチラリと確認し、蓋を閉めた。先程と同じように手の中で転がしながら、目を伏せる。
 彼女だとか、そんなものに出来るはずがない。甘い空気も微塵もなく、きちんと男女の友情というものを育んできてしまった。告白未遂のようなものから逃れて、益々その傾向は強くなっているはずだ。
 僕自身どうにもならないのだと諦めようとしているのに、赤の他人がずけずけと図々しく踏み込んで来ないで欲しい。のことなんて何も知らないくせに、マドレーヌ一つで家庭的な女の子呼ばわりされていることも、休み時間に寝ていたからという情報だけで夜に勉強頑張ってるだとか勝手な憶測が飛び交っていたことも、嫌に腹立たしく感じた。ひとつひとつ訂正していく山口にも腹が立ったが、それ以上に影山の発言が気に障った。
 頭にチラついた途端、少しだけ浮き上がっていた気持ちが簡単に沈む。ずっと気がかりだったことの片鱗を影山が暴いたからだ。
 僕の知らない、高校に入ってからののクラスの様子を、影山は知っている。
「……関係って、なんだよ」
 誰もいない廊下に、想像以上に自分の声が響いた。微かに震えの混じったその声はいやに情けなく、しみったれていて、余裕がない声色として耳に残る。ペットボトルを傍らに置き、両手のひらを額に押し付けると掌底がメガネの縁に触れた。長い息を吐き出すと頭の奥がクラクラするようだった。
 あたかも、自分の方がのことを知っているかのような口ぶりも許せないが、それ以上に影山の言葉自体が脳裏に染みついていた。と付き合っているのかという疑問に、影山は教えないとだけ残した。肯定とも否定ともつかない言葉に簡単に惑わされてしまう。
嫌な想像しかチラつかない。僕だって、それに近いものを感じ取ったからこそ、影山の言葉を捨て置くことが出来なかった。
 付き合っているのだとしたらは僕に黙っているだろうか。喜々として報告する様子も思い描かれるが、照れくさいと言って口ごもる姿も簡単に想像がつく。相反する反応だがどちらともがとってもおかしくない行動だと思う。
 だが、仮に過去のいざこざを慮って僕に言えなかったとしても、は山口にだけは特別な近況を打ち明けるだろう。あの夏の告白未遂の話を僕が話す前から山口が知っていたことを思えばそれは確信に近い想像と言える。
 ならば、付き合っているのではないと仮定する。付き合っていないのなら、なんだ。どちらかの片思いだとでも言うのか。それともその両方で、クラスの連中で生暖かく見守りましょうだなんて協定を結ばれているのか。
 食堂の裏で寄り添って座ったふたりの姿や、ゴミ捨て場へと向かう途中で見かけたふたりの様子を思い浮かべる。たった一ヶ月かそこらで、僕や山口へと向ける笑顔と同質のものを、に向けていた。そこに答えがあるんじゃないだろうか。それが恋か友情かはさておき、は間違いなくを「好き」なのだろう。
「クソッ」
 軽く持ち上げた拳をソファの縁に振り下ろす。柔らかいとは言えないそれは小さな反発を拳に伝えた。考えれば考えるほど頭に血が上る。深く瞑目し、溜息を吐きこぼしたが、二酸化炭素に紛れて怨嗟が出て行くはずもなく、身内に折り重なるようにして貯まるだけだった。
 自らが作り出した澱んだ空気に嫌気がさす。なんで真夜中に起きてこんなにも腹を立てなければいけないのか。のことを考えれば考えるほど、腹が立ってしょうがない。
 雑誌やテレビで映し出される恋愛ごとはあんなにも淡く煌めいているかのように表現されるのに、今、僕の胸の中にあるのは嫉妬や苛立ちしか見つけられない。楽しいことなんてひとつもない。果たしてこんなもの本当に恋と呼べるのだろうか。
 陰鬱とした気持ちを誤魔化すように、強く、下唇を噛み締める。のそれと重ねた唇も、の心が動かないことを確かめただけで、本当になんの意味もない行為だった。キスしたところで安心さえ出来ないなら、どうやったら僕はに対して安らかな気持ちで向かい合うことが出来るようになるのだろうか。
 本当に、もう止めてしまいたい。いっそ、が本当にと付き合ってくれていたら、諦めることが出来るのに。
 自分自身で思い描いた乱暴な仮定に反応し、胸の中心あたりに鈍い痛みが生まれる。ぐっと奥歯を噛み締めたがそれでもなお気持ちを押さえ込むことが出来ない。呼吸さえままならないような心境に俄かに陥ってしまったことに、戸惑いはなかった。が並んで座った姿を見た時から、何度も身内に起こった反応だからだ。
 スリッパから足を抜き、ソファの上に引きずり上げる。両腕で抱え込むようにして座り、その中心に顔を埋めた。唇から漏れる呼気が熱い。静かに深呼吸を繰り返し、小さく震える両肩を掴む。
 が誰を好きかだなんて知らない。今好きな人がいるかどうかも聞ける気がしない。真実を知るのが、怖い。
 勝算のない試合でも、ゲームセットまでは続けなければいけない。野球のようにコールドがあるのならとっくに終わっているはずの恋だ。それでも――。
 ――諦められるくらいなら、とっくにしてるってば。
 それでも、と付き合っているかもしれないと想像だけで泣きそうになっている僕に、を想うことをやめられる気配は微塵もなかった。



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