いつ甘12

12.僕らの重なった朝に


「――っ!!」
 廊下の奥から声が聞こえた。あいにく内容の判別はつかなかったが、先程と同質の耳障りの悪さに、またしても寝ぼけた日向が叫んだのかと推察する。その証拠に二の声が響いてこない。
 大仰に溜息を吐き出すと同時に、カラリ、と耳に軽い音が飛び込んでくる。ついで何かを叩いたような乾いた音が廊下に響いた。
 今のは引き戸を閉めた音だ。だとすれば誰か出てきたのだろうか。
 微かに身体を起こし、音のした方へと視線を向ける。暗い夜の中ではその姿を遠目から判断することはできない。こんなところでひとりでぼうっとしているところを見られたら何を言われるのか。田中さんや西谷さんならば心配すると見せかけて先輩風を吹かせそうだし、菅原さんなら真面目に相談に乗るだなんて言い出しそうで厄介だ。
 ソファに乗せていた足を下ろしスリッパにその爪先をねじ込んだ。近づいてくる人影に目を凝らして目を見張る。おぼろげな輪郭が形を成す頃にはその背格好から誰なのか判別がついた。
「あ、ツッキー」
 頭を揺らし眠そうに目元をこすりながら歩いてきたのは、山口だった。山口は僕の姿を目に入れると小さな笑みを口元に浮かべる。
「よかった。目が覚めたらツッキーがいなかったからどこ行ったのか心配したんだ」
「まさかわざわざ探しにきたの?」
「うん。……あ、いや。ちょうどトイレにも行きたかったしさ」
 胸の前で手を振った山口は、そのまま右手を後頭部に持っていき頭を掻いた。取り繕うような言葉に嘘はないのだろうが、それが全てではないのもまた正直なところなのだろう。
 チラリと僕の顔色を伺うようにこちらを一瞥した山口に視線を合わせ、それから手にしたペットボトルに視線を戻した。
「少し、眠れなくて……」
 溜息混じりの言葉に、自分でも驚いてしまう。山口に対して弱気な姿を見せる自分が信じられなかった。少しだけ臆病になっているのもまたに起因するのだろう。
「寝苦しいの? あ、ポカリって、もしかしてツッキー具合悪くなったの?!」
 焦ったように言い募る山口に首を横に振るうことで否定する。熱があるだとか咳が出るだとかそんなはっきりとした体調不良ならどれだけよかったことか。恋心だとかいう形のないものに惑わされて、眠れないだなんてカッコ悪くて言えたもんじゃない。
「さっき、日向が叫んだんだ。寝ててもウルッサイんだもん、アイツ」
「あぁ、それは俺も聞こえたかも……」
 誤魔化しにしかならない言葉を紡ぎ、話の矛先をよそに向けるとあっさりと山口はそれに乗る。扱いやすいというか素直というか。呆れとも安堵とも取れる溜息を吐き零すと、山口はきょとんとした目を向ける。
「どうしかした?」
「いや、本当に何もないんだってば……しつこいな」
「ご、ごめん。ツッキー」
 今のは完璧に八つ当たりだった。それでも僕を咎めることを山口はしない。怒られないだとか、嫌われないだとか信じているからこその態度だとも言える。甘えているんだ。自覚があるからこそ、タチが悪い。俯いて僕から視線を逸らした山口に、ごめんだとか言いすぎたとか告げることができない。もしがこの場にいれば「月島、言い過ぎ」だなんて僕を小突いたことだろう。
「ホント……嫌になる」
 なんでもかんでも、に繋げようとする思考が、嫌だった。僕のつぶやきを聞き取ったらしい山口はまたか細い声で「ツッキー」と漏らした。困ったように口元を下げた山口に「別に」と告げ、向かいのソファに視線を向け「座れば」と促す。少し視線を彷徨わせた山口は、窮屈そうな面持ちで僕の正面に座る。
 座らせてから、逡巡し、視線を泳がせ、躊躇い、躊躇いながらも口を開いた。
「……ねぇ、山口」
「なに、ツッキー」
「……僕ってお前から見てもに執着してるように見える?」
「え?いや、全然見えないよ!」
 唐突な言葉に驚いたのか、夜中なのにも関わらず山口は叫んだ。日向のようにバカみたいな声のデカさではなかったが、お決まり文句のように「うるさい、山口」と注意する。廊下の奥へと視線を伸ばしたが、今の声で誰かが起きてくる様子は見られない。安堵に胸をなでおろすと、キョロキョロと視線を左右に向けた山口が内緒話をするように手の平を口元の横に立てた。
「影山が言ってたこと気にしてるの?」
「っ!」
 山口の的を射た質問に、返答が詰まってしまう。気にしていないとは言い切れないからだ。
 執着している自覚はあるが、それを態度で示したりなんてしていない。淡々と友達のふりをして、ずっと傍にいた。そうすることで僕以外の男がに近付くことを未然に防いでいたと言ってもいい。同じくそばにいた山口に指摘されるのならともかく、たかが一度、に対して敵意を向けたのを見ただけで知ったような口をきかないで欲しい。
 煽るのは得意だし、嫌味を言われても僕以上に口が回るやつなんてそう居ない。だが、単細胞の馬鹿な王様のどストレートさは簡単に僕を苛立たせた。
「ツッキーはっちのこと大事にしてるだけにしか見えないよ」
 フォローのつもりなのだろう。山口の言葉にぐっと喉の奥に痛みが生まれる。引っかかった叫びを飲み下し、静かに口を開く。
「お前は?」
「え?」
「お前は、のこと大事じゃないの?」
「大事だよ!」
 簡単に言い切った山口に面食らってしまう。迷いのない態度。まっすぐな言葉に、あの夏のの背中を思い出してしまう。淡々と、と心がけながらさらに頭に浮かび続けた疑問を口にする。
「やっぱり山口ものことが好きなわけ?」
「えっ!?」
 予想以上の驚きを見せた山口は、本人こそ立ち上がりこそしないものの、いつものくせっ毛がピンと真っ直ぐに天井を衝く勢いで伸びる。どうやって操っているのかは分からないが、猫のような仕草だと微かに思った。
「ないないない! ないよ! 絶対ない!!!」
 潜めた声ではあったが、山口は大いに手を振り乱して否定する。仮に山口がのことを憎からず想っているのならこんな反応はしなさそうだ。祈りにも似た予想だったが、顔を赤くするどころか血の気の引いたというに相応しい表情に、その言葉が真実なのだと確信する。
「……そう」
「でも、いきなりどうして?」
 至極まっとうな山口の疑問に、応じるか否か逡巡する。これ以上気の弱ってるさまを露呈するのも憚られたが、山口なら周囲に吹聴して回ることはないから構わないだろう。
「この前、お前言ってただろ」
「え?」
なんて、に似合わないって」
「あぁ、うん。言った……」
「だったら誰がに似合うんだろって。それがお前なのかなとか……考えて。もしそうなら山口が頑張ればいいのになって」
 手にしたペットボトルの中に揺れる液体を眺めながら、淡々と言葉を紡いだ。流れるように滑らかに動く口に、どれだけ誰かに気持ちをぶちまけてしまいたかったかを知る。
 キスをしてもの心が動かないようだった。それならば、せめて山口がのことを連れて行ってくれたなら、僕は今度こそ諦められる。長い時間をかけて生まれた恋心ならば、致し方ないと受け入れることができるんじゃないかと思っていたからだ。また先程、山口が連呼した「ない」という言葉に安心して出てきた言葉でもあった。
「どうして?」
 耳に入り込んできた声に、面を上げる。山口は僕と視線が重なるときゅっと唇を引き締めて怒ったような表情を取る。
「どうしてツッキーが頑張んないの?」
 刺の含まれた声色に目を見張る。今までに山口に意見された覚えがなく、また否定的な言葉をぶつけられたこともなかったからだ。
 それ以上に、今の言葉はなんだ。解釈によっては僕がのことを好きだとでも言いたげな言葉のようにも取れる。
 戸惑いを顕わにした僕を見返す山口が困った様に眉を下げる。開いた膝の上で組んだ指先を動かす山口の目が、僕の顔を見たまま動かない。その様子に僕の言葉を待っているのだと知る。
 ひとつ息を吸い、呼吸を整え、意を決して口を開く。
「ハァ? なんで僕が頑張んないといけないの」
 普段通りを装って冷たくなるように努める。に対して、僕が頑張る理由なんて何ひとつもないと装って、この場をやり過ごしたかった。
 僕の言葉に山口は、眉を顰め視線を足元に落とした。
「……だってさっき言ったじゃん」
「は?」
「山口も、って」
 即座に言葉を返せず口ごもる。その一瞬の間に、伏せていた面を上げた山口は僕の目を射抜く。
「それ、ツッキーがっちのこと好きだからこその言葉じゃないの?」
 喉の奥に鈍い痛みが生まれる。同時に呼吸の通りが悪くなったかのように詰まった。自分でも顔が強ばったのが解る。見透かされた。僕のへの想いもそうだが、を素直に追いかけられない僕の代わりに山口につなぎ止めてもらおうだなんて浅ましい考えを抱いたことにも気付かれているのだろう。
 実直に僕を見上げる山口の視線に気圧される。わなつく唇を引き締め、山口を睨み返す。
「違う」
 否定の言葉だけが詰まる喉からするりと抜けて出た。を想わないようにと振る舞い続けた習性が自然と発揮される。
 を大事だと素直に言える山口を心底羨ましいと思う。僕のように拒絶されたことがないから、躊躇いもなく口に出来るんだ。ひねくれた考えしかもてない自分が嫌になる。純粋で真っ直ぐにを求めるだけで完結するならどれだけ幸せなんだろう。だけどそれが、叶わなかったら、僕はの全てを失わなくてはいけなくなる。気のおけない友達としての交流だとか、何の気なしに触れても振り払われない距離だとか、その愛おしい瞬間の全てを、だ。
 恋愛に100%はない。だからこそ、素直のままではいられない。保身を貫いた結果、3年経ってもと恋人同士にはなれなかったが、友達で居続けることは出来た。今の間柄のままで満足するしかないんだから、バカな期待を抱かせないで欲しい。
「僕じゃなくて、のこと好きなんデショ」
 僕の言葉に、山口は大きく息を吐き零す。その溜息に落胆が示されているように感じて、眉を顰めた。
 表情の変化を目の当たりにした山口は焦ったように「ゴメン、ツッキー」といつものように口にする。ただそれだけで、張り詰めた空気が緩むのが解った。組んでいた指先を放し、後ろ頭を掻いた山口はポツリと言葉をこぼした。
「……ツッキーとっちは、ちゃんと話をした方がいいと思うよ」
 その言葉に即座に反応できず山口を見やる。僕だけではなくも、と山口は言った。僕と同じように、の中にも語られない何かがあるのかと期待してしまう。僕とが一緒にいるときに、同じように山口も傍にいた。その山口から改善策を提案されたのなら、実行に移しても悪いようにはならないのかもしれない。喜色が浮かびそうになるのを無理やり振り払うかのように奥歯を噛み締める。
「――……なんて」
「え?」
「話なんて、ちゃんと……してるし」
 嘘に塗れた言葉だった。くだらない話なら何度でも会話を重ねてきた。だけど一番大事な部分を隠したままだ。それさえも見抜かれていたことを今更知らされても取り繕うことすらできない。山口から視線を逸らし、唇を少しだけ尖らせると、何かを感じ取ったらしい山口がシシっと笑った。
 
* * *
 
 あの後、「ツッキーと恋バナなんて初めてしちゃった」と嬉しそうに笑った山口に「うるさい」と一蹴し、そのまま部屋に戻って床についた。胸につかえていたものが少しでも緩和されたせいか、数時間前の寝苦しさが嘘のように引いて深い眠りにつくことができた。睡眠時間は短かったがスッキリと目が覚めたのは、起床時間と定められた6時にかけたアラームが鳴るよりも10分ほど前のことだった。
 仰臥させていた体を起こし、眼鏡を掛け、音が鳴る前に、と枕元に置いていたスマホを手に取り操作すると、データ受信を示すランプが点滅していることに気付く。山口と話したあとに見たときは点いていなかったから寝ている間に来たのだろうか。だとすれば十中八九広告メールの類のはずだ。小さく息を吐き零しながら通知を切ろうと操作を続ける。だが、その報せが誰からのものなのかと気付くと、ほんの少しだけ眠気の残る眼からその一切が取り払われた。
「――
 掠れた声が唇から漏れた。慌てて唇を手のひらで隠し、周囲に視線を向けたが誰ひとりとして起きる様子は見られず、小さく安堵の息を吐き漏らす。だがそれで跳ね上がった心臓を平常に戻すことなんて出来るはずがない。震える指先で、画面に触れ、から届いたメッセージに目を走らせる。
【合宿今日からだっけ?無理せず頑張れ】
 そっけない文言とともに送られた画像は親指を立てたキャラクターのもので、そのテンションの差に思わず笑みが浮かび上がる。
「……昨日からだよ、バカ」
 唇の動きだけで囁く。普段からメッセージのやりとりを頻繁に交わしていたわけではない。それどころかキスをしてしまってからは一切の連絡を取れなかった。真っ直ぐに見上げるの瞳が忘れられなくて、想いを隠すことが出来そうになかったからだ。身勝手な行動のフォローもせずに、また喋れなくなるかもしれないだなんて動けなかった僕に対して、は、まだ、手を差し伸べてくれる。
 こんな簡単な事で救われた気がする。
 口元が緩むのを隠すために顔を下に向ければ、自然とスマホに額を合わせるようになる。送信時間を目に入れると、受信してからまだ3分も経っていないことを知る。もう起きたのだろうか。
 チラリと部屋の中に視線を巡らせ、まだ誰も起きていないことを確認しそっと立ち上がる。足音を潜めて廊下へと向かいながらスマホの画面に指を滑らせ、発信画面の中のの名前に触れた。部屋を出て後ろ手で戸を締めながら、スマホを耳に当てる。コール音が鳴るか鳴らないかのタイミングでガサガサとした音が聞こえた。
「おはよう、
「アレ? 月島?おはよー……」
 掠れた声で応じたに体の奥の方がじくりと痛む。自分から架けておきながら、声を聞いて翻弄されるだなんてバカみたいだ。自制しようとしても反応する胸を手のひらを押し付けることで抑え込む。
「……まだ寝てた?」
「だってまだ6時じゃん……」
「メッセージ入ってたから起きてるのかと思ったんだけど」
 淡々と言葉を紡ぐ僕に反して、まだ床についたままらしいは伸びをしているのか唸るような息を吐き零す。どこか艶がある息遣いに、睦言を交わしているような錯覚まで起こしてしまいそうだ。
「いや、だって朝練あるんでしょ?」
 ふぅっとまたひとつ息を吐き出したが、通常の部活の朝練が7時からということは知ってるはずだ。そこから逆算して起きる時間を測ってくれたということなのだろうか。
 いつも踏み込めない僕の一歩を、は簡単に飛び込んでやってくる。夜中に交わした山口との会話が頭を過ぎる。背中を押されたような気になっている感は否めない。その相手が山口だというのが癪だけど、それでもがしてくれたように、僕も歩み寄りたいという気持ちが沸き起こる。
「ねぇ、
「ん?」
「この合宿終わったらさ。中間試験あるでしょ」
「朝っぱらから嫌なこと思い出させるなあ……」
 うえー、と心底嫌そうに言うは、頭は悪い方じゃないが、暗記力が足りていないのか範囲が定められている試験を苦手としていた。以前のように勉強を教えてあげようか、だなんて提案してあげてもいいけれど、今日はその話をしたいわけじゃない。
「そこ拾わないでよ。そうじゃなくてさ、その時期……だって部活、ないでしょ」
「あぁ、そうだね」
 そこはラッキーだ、と嬉しそうに続けたは本当に単純だと思う。部活も好きだが、放課後を自由に過ごせるのが特別感があって良いと言っていた。
 僕や山口とも遊べるのも良いだなんて、涼しい顔で告げるなら――。
 ひとつ、息を飲んで、意を決して口を開く。
「……二人で、話出来ない?」
「え?」
「……嫌なら別にいいんだけど」
 誘いの言葉を簡単に引っ込めるかのような言葉を繋げてしまう。逃げ癖が染み付いた自分に腹が立ったが、取り繕う言葉を続けることができない。鳴動する心臓に触発され、首の後ろ側が熱くなるのを感じる。改まって誘うだなんて、今までしたことがない。話ができないか、だなんて気取った会話をがどう思うのか。
 の言葉を待っていると、耳に押し当てたスマホから微かに軋むような音が聞こえてきた。どうやら必要以上の力が手のひらに加わっていたらしい。
 電話の向こうから、小さく息を吐く音が届く。その声に触発されて俄かに背筋が伸びた。
「いいよ、ちゃんと、しよう」
 先程までの間延びした声とは打って変わって、凛とした声では告げた。僕の曖昧な言葉に潜むものを感じ取ったのだろう。の言う「ちゃんと」の意味を、僕もまた「そういう意味」だと捉えてしまう。
「ははっ。なんだろ、すごい今照れる」
 軽い笑い声が耳に響いた。素直に笑うの顔が見られないのがひどく惜しい。だけど面と向かっていては、今の緩んだ僕の表情さえも見られてしまうから、電話越しで良かったのかもしれないと思い直す。
「月島」
「……うん」
 の呼ぶ、月島、という声が耳に心地いい。目を閉じて、頭を揺らして呼びかけに応じるだけで、幸せだと感じた。
「声、聞けてよかった」
「うん……僕も、」
 嬉しい、とは流石に告げられる口ごもってしまう。それを察したのか、電話の向こうから小さく笑うような息遣いが聞こえてくる。僕もまた少しだけ口元を持ち上げて、もう一度だけ「うん」と口にした。
「バレー、頑張ってな」
「別に、普通にこなすだけだよ」
 可愛くない返答だったが、は益々楽しそうに笑う。また眠そうにあくびをこぼしたに「またね、おやすみ」と告げて電話を切った。まだ話をしていたかったけれど、背にした戸の奥の方から微かに人が起きた気配がするからこれ以上続けることは憚られた。
 引き戸に背を預け、少し熱の残るスマホを両手で持ち、額に押し付ける。先程の会話の全てに、胸の奥が痛んだ。
 届かないのだと決めつけていた感情を、少し曝け出した。緊張もあったが、それ以上にの反応が悪くなかったことが堪らなく嬉しい。別に好きだとか言われたわけでもない。ただ単に試験休みに二人で話をすることに応じてくれただけだ。
 そんなこと解ってる。ちゃんと解っているのに、それでも───。

 それでも、何度も、何度も、を好きだと想ってしまう。

 ――本当に、煩わしい。
 自分の心だというのに、思うようにならない感情に呆れてしまう。
 チラリと正面の窓ガラスに目を向ければ、眉が下がりきり、安堵に塗れた自分の顔が映りこんでいる。こんな顔見せたら、一発でのことを好きだとバレてしまいそうだ。やはり顔を合わせていなくてよかったのだと自分に言い聞かせる。
 胸に生まれる痛みを苦いものだと感じていたというのに、今では甘いだなんて感じている。同じ痛みでも想いひとつで鮮やかなものへと遷り変るのを、少しだけ悪くないと思った。     



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