いつ甘13

13.その手のひらを掴むことを夢見て


 バレー部の合宿も、音駒との練習試合を締めくくりとし、つつがなく幕を下ろした。それは世間のゴールデンウィークも同時に終了したことを意味している。
 どこにも行けなかったことを嘆くほど子供ではないが、結局、連休中に一度もと顔を合わせることができなかったことが少しだけ残念だった。それでも思ったよりも気持ちが落ちていないのは、彼女と交わした約束のおかげだろう。
 合宿中、ふとした瞬間に、電話越しに交わしたとの会話が何度も頭の中で繰り返された。朝の澄んだ空気の中、特に日差しが強いわけでもないのに、じんわりと胸に熱が集まっていく。

 ――ちゃんと、しよう。

 眠そうなくせに、やけに凛としたの声が耳元に蘇る。胸だけではなく、耳にも熱が篭るのを知覚した。
 朝の早い時間、試験休み前最後の朝練に向かう途中の道を誰かが通ることはほとんどない。山口の家の近くの道までもまだ距離がある事を思えば、赤くなった耳を隠す必要なんてない。そもそも、ヘッドホンを耳にあてがっているのだから、耳の大部分は隠れているはずだ。だけど自然と耳に手が伸びる。恥ずかしさを隠すというよりも、持て余した感情を紛らわせるための行動だった。
 ヘッドホンの位置を確かめながら、何度目かもわからない疑問を頭に思い浮かべる。
 の言う「ちゃんと」とはどういう意味を含んでいるのだろうか。
 微かにざわめいた気持ちを抑えるために、小さく息を吐き、呼吸を整える。僕が思っているような結末を彼女が望んでいてくれるなら、と願わずにはいられない。戯れに誘って来る「デート」とは全く意味合いが違うのではないかと期待してしまう。

 ――今日、会えるかな。

 ふと、そんなことを考えてしまう。あの会話から、まだ1週間も経っていないのに、焦がれるような思いが胸を占めていた。に会えるかもしれない、と考えただけで月曜日に学校へ行く足取りが軽くなる。
 我ながら単純、と、自分を戒めるようなことを考えたところで、弾んでしまった気持ちを抑えつけることはできなかった。

* * *

 昼休み、普段通り山口と弁当を食べたあと、適当に理由をつけて廊下に出た。その足で隣の3組を覗いてみると、影山やの姿を発見することは出来たが、肝心のの姿はなかった。教室内に居られても呼びに行くことは憚られることを考えれば、僕にとって都合がいいのかもしれない。
 踵を返し、4組の前へ戻る。帰りを待つのは教室よりも廊下の方がいいだろう。幸い、クラスの連中も数人、廊下に出ていて、喋ったり日に当たったりと思い思いに過ごしている。そこに紛れるように窓枠に背中を預け、チラリと横目で中庭に視線を落とすと、西谷さんと女子が一緒になってアイスを食べているさまが目に入った。まだ決して暖かいとは言い切れない気候なのに元気なもんだ。
 感心しつつ、意識をまた廊下側へと向ける。鼻歌を歌いながら通り過ぎたを見送っていると、その奥に、数人の女子と歩くの姿を見つけた。美味しかったーと、満足そうな声が聞こえることから、おそらく友人らと連れ立って食堂にでも行ったのだろう。
 が近づいてくるさまをじっと見つめていると、僕に気付いたらしいと目が合う。窓際に預けていた背中を起こし、へと向き直ると、は周囲の女子たちに手をあげて別れを告げた。
 駆け寄ってきたに視線を落とせば、簡単に視線が交わる。ここ数日、悶々と過ごしていたことが馬鹿らしくなるほど、は実直に僕を見返してきた。
「――
「あぁ、月島。どうした?」
 いつもと変わらない表情で僕を見上げるは、その表情に喜色を滲ませていた。ただ単に、お腹がいっぱいで機嫌が良いだけなのかもしれないけれど、笑顔を向けられて嫌な気持ちになるはずがない。
 普段ならば「僕と会えて嬉しいの?」だなんて嫌味ったらしい言葉をぶつけるところだけど、自分の中にその気持ちが過大にありすぎて、口にすることが憚られる。実際、僕がを待ち伏せまでしているような状況では、「それは月島でしょ?」だなんて返されたら否定しようがなかった。
「今日……いい?」
 緊張と狼狽が十分に混じり合った言葉を、へ差し出す。言葉足らずな誘い文句を受けたは、丸っこい目を数度瞬かせる。伝わっていないのだろうか。取り繕うとして、なんと言えばいいのか。ちゃんとしたいから時間を作って欲しい、だなんて直球を投げ込めるはずがなく、口篭っての言葉を待つことしかできない。あんなに会いたいと思っていたくせに、いざ目の前にすると及び腰になってしまうのは僕の悪い癖だった。
「いいよ。一緒帰ろう」
 やけにあっさりと応じたに、無意識のうちに、自分の表情から力が抜けたのがわかった。僕の表情の変化を目の当たりにしたは、少しだけ満足そうに口元を持ち上げる。そんなに嬉しそうな顔しないでよ。なんとなく癪にさわり、緩んだ顔を引き締め、うん、と頭を揺らして応じる。
「じゃあ、放課後、またね」
 必要以上にそっけない言葉になってしまう。だけど、のようにデートをしようだなんて、軽々しく口にできるわけがないのだから、それも致し方のないことだ。
「塩対応だなー」
 不満げにぼやいたも、尖らせた唇をすぐに引っ込める。満足そうな表情の裏で何を考えているのやら。僕と同じように、この先を望んでいてくれるなら、ありがたいのだけど、と胸中で不確かな祈りを抱いた。

* * *

 つつがなく、一日の授業を受け、終礼を終えた教師の背中を見送った。中間試験に向けての激励の言葉というやつを発した担任に触発されたのか。それとも進学クラスとしてのプライドががそうさせるのか。図書室などの勉強場所を確保しようと滑り出したクラスメイトの足音を耳にしながら、僕自身も席から立ち上がる。
「じゃあね、また明日! ツッキー!」
 少し離れた席から声が掛かる。視線を動かすと山口がバイバイ、と大きく手を振っているのが目に入った。4限目の終わりにトイレから帰ってきた山口が、やけに嬉しそうな顔をしていたことを思い出す。
 気を利かせているつもりなのだろう。から話は聞いているとばかりに、帰宅を宣言する山口に、うん、とひとつ頭を揺らして応じた。先程見せたものと寸分違わぬ笑みを携えた山口は、鞄を背負って楽しそうに教室から飛び出していった。その背中を見送り、ひとつだけ息を吐く。
 さて、これからどこで待てばいいのか。
 逡巡しながらも、クラスメイトに混じって教室を出る。昼休みと同じように3組を覗き込んでみたが、まだ担任教師が生徒たちに語り掛ける姿が見えるだけで、話の終わりは見えそうもなかった。
 小さくため息を吐き、首を捻って窓越しの空を見上げた。合宿直前、一緒に帰った時のように雨が降るような気配は感じられない。
 無意識のうちに手のひらが口元に触れていた。あの日、とキスをしたんだ、と思い返すだけで胸の奥に詰まるような想いの塊が生まれるのを感じた。
 頭を振って雑念を振り払い、改めて今の状況を考える。を待つとして、どこで待つか、だ。まさか3組の正面で待っているわけにもいかない。影山に見られでもしたら、何を言われるか想像するだけで気分が悪い。
 塞ぐような気持ちに顔が自然と顰められる。ムッと口元を引きしめ、一度離れたはずの教室に戻った。さすが進学クラスというべきか。終礼後30分以内には週番の風紀委員によって施錠される教室内には誰もおらず、整然と並べられた机だけが残されている。
 自席に戻り、椅子を引いて腰掛ける。取り出したスマホとヘッドホンを繋ぎ、ボリュームを下げて音楽を流す。耳に馴染む音楽越しに、3組の担任の声が途切れ途切れに聞こえる。
 話の内容は聞こえないが、そんなに伝達事項があるとは思えない。試験が間近にあるからこその部活禁止期間だというのに、あまり長く話せば生徒たちの貴重な時間が減ってしまうと危惧はしないのだろうか。
 ひとつ、溜息を吐きこぼし、誰もいない教室を見渡す。中学の時も、こうやって居残りしたことがあったな、なんて思い返す。単純にを待ったこともあるし、委員会に参加した友達を待つと一緒に居るために、同じ委員の山口を待ったこともあった。
 ――月島の聴く曲ってなんか好きだわ。
 僕から取り上げたヘッドホンを耳に当て、緩んだ表情を見せるを思い出す。正面に座るとじゃれついてたのは、まだの告白を拒絶するよりも前のことだったはずだ。
 その時点で僕はのことをいいやつだと思っていたし、喋っていても不快じゃなかった。僕が居残っていることに喜んだ山口に、まだ委員会参加していればいいのに、だなんて思う程度にはふたりでいる時間が長く続けばいいと望んでいた。
 中一の頃の記憶を思い返しながら、考える。あの頃はまだ自覚していなかったけれど、多分、否、きっともうのことを好きでいたはずだ。
 3年か、と振り返れば長い月日に思いを馳せる。今日、やっと僕はあの夏に告げられなかった言葉をへ明け渡すことになる。
 好きじゃないと誤魔化し続けてきたくせに、諦められなかった想いを、どう表現したらいいかわからない。だけど、この前のの電話での雰囲気を思い返せば悪い結果にはならないはずだと期待せずにはいられなかった。
「月島っ」
 緩みかけた頬を引き締めていると、ヘッドホンの外から、軽い声が聞こえる。耳に心地よさを覚えるほどに聴き慣れた声に振り返れば、教室の扉を掴んだの姿が目に入る。
「遅いよ」
 文句を言いながら立ち上がり、耳にしていたヘッドホンを首元に下げる。ごめんなー、と軽い謝罪の言葉を口にしたの元へと向かうと、ニッと口元を引っ張って笑うと視線がかちあった。
「とりあえず、帰ろう」
 の言葉に促され、下足場へと足を運ぶ。一緒に勉強するかだという提案に乗り、じゃあ場所はどこに移そうかなどと議論していると自然と距離を詰めてしまう。
 階段を降りる間も、腕が触れ合うかのような距離におきながらもその手を取ることは出来なかった。いつか出来るだろうか。もし、と「ちゃんと」出来たら――。
 踊り場に差し掛かり、登ってきた人とすれ違う。道を譲ろうとしたのか、が僕の方へと身を寄せたた。その瞬間、互の手の甲が微かに触れた。反射的に手がびくついたのは僕だけではない。
「あ、ごめんな」
「いや、別に……」
 気にしていないのだと振る舞い、また階段を降りる足を進める。先程まで弾んでいたはずの会話が途切れた。視線を流せば、の耳がかすかに赤らんでいるさまが目に入る。意識しているのは僕だけじゃないんだと気付いて、胸中の期待が膨らむのを感じた。   



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