03

眺めるだけじゃ足りそうにもないよ


 いつものように朝練を終えて、教室に入ると、隣の席のが、怒りに燃えていた。話を聞けば、昨年別れた彼氏にまた付き合わないかと打診されたらしい。しかも、タイミングが悪いことに新しい彼氏候補ってやつの前で、だ。
 憎しみを全面に押し出したの怒りの矛先はなぜか俺に向けられる。八つ当たりにしかならない愚痴を聞き流しながら、小さく溜息を吐き出した。
「ホント、なんで男って別れても自分のことは好きなはずだなんて思ってやがんだろうなぁ! あったまくる!」
「耳が痛いねぇ……」
 俺も男なんだし、そんなこと主張されてもなぁ。諦めに似た心境を抱えながら、の言葉にどう返答したものかと逡巡する。
 男は、と断定的に引っ括めて言われたことに対して、どこで統計を取ったのか、だなんて質問を投げかけてはいけない。どうせなにかの雑誌で読んだだとかバラエティで女優が言っていただのとつまらない根拠を笠に着て益々声を大きくされるだけだ。
 こういうのは聞き流すに限る。どうせ、コイツだって真剣に俺の意見が欲しいわけでなく、八つ当たり出来る対象を俺一人に定めただけなのだから。
「なに、松川も別れた彼女に俺を理解しているのはやっぱりお前だけだとか言うタイプなわけ?」
「いや、俺、彼女いたことねーし」
 身振り手振りも合わせ演技がかった口調で話すを、手のひらをひらりと振って躱す。納得いかないような表情を浮かべたは、チッと舌を打ち鳴らした。どうやら本格的に不機嫌らしい。机の上に顎を押し付けて不貞腐れた様子を見せるは、半眼で俺を睨み据え、呪詛の言葉を吐き散らす。
「じゃあいずれ出来たら言うね」
「なんでだよ」
「今の私の気持ちに寄り添った意見を言えない時点でそういうタイプで決定なんだよ」
 怒っているのか半泣きなのか。顔を真っ赤にして俺を糾弾するは上体を起こし、ダンと力強く机を叩いた。理不尽が過ぎるの発言に真摯に耳を傾けようという気はサラサラない。いつものようにおざなりには見えないように同調し、彼女が落ち着くまで勝手に喋らせていればいいだけだ。
 普段通りに振舞おうと思えば出来た。事なかれ主義というほどではないが、ある程度のことは流すことができる性格だと自負している。ただ、どうしても今日に限っては自分の心境に反することを言うつもりにはなれなくて、初めてに俺の意見を伝えた。
「まぁ、でも……好きな子には俺のこと好きでいてほしいよね」
「はぁ? なにそれ。どういう意味よ」
「別に他意はないって。そのまんまだよ」
「えぇー……」
 あんまり納得していないようなは、顔を顰めて俺を睨む。苦笑してみせると、それ以上の追求が来ないことはわかっていた。だからこの話はもうおしまい。声に出さずに顔を背けるだけでその意思を伝え、会話をシャットダウンした。
 いつもの松川らしくない、だなんてポツリと聞こえてきた声に苦笑する。いつもならば嫌な顔もせず、反論もせずただ、客観的な返答しかしない。知らん顔をしない程度の回答も、相手に差し向けるのであれば十分だと思っていた。
 心境の変化というやつを自覚する。脳裏にただひとりいるだけで、適当なことが言えなくなった。
 元彼を恨むの発言を聞きながら、俺はそっとのことを考えていた。会話を打ち切ったことで、その意識の底にあった対象へと視線を向けることができた。斜め前方に視線を向ければ数人の女子に取り囲まれて楽しそうに談笑している様子が見て取れる。屈託のない笑顔は、相手に対する信頼に溢れていた。
 ああいう顔を、は女子の前でしか見せない。多分、男子の前では披露しないはずだ。とりあえず俺は見たことがない。ので、出来ればほかの男子の前でも同様であってほしい。
 好きだと自覚した途端、一人前の独占欲が湧き出している。口元を手の甲で隠し、浮かび上がりそうな感情を堪えた。今日はまだ、挨拶さえ出来ていない。それを残念に思う程度には、のことを自然と気にかけてしまう。朝のSHRが終わったらちょっと声かけてみようかな。話題は何がいいだろうか、だなんて段取りを考える。
 出来れば、優しい話題がいいな。さっきのとの会話みたいに刺々しいのは嫌だわ。あれはあれで面白いからいいんだけど、どうもとの間で交わすものとしては似つかわしいとは思えなかった。
 優しくしたくなる理由はいくらでも思いつく。はクラスの女子の中でも結構線が細いから、強い口調で話しかけたら脅してるように捉えられるかもしれないだとか、ただの冗談さえも真摯に受け止められたらという恐怖から軽口を叩くことも憚られるだとか。結構ちゃんとその辺も吟味して話をしたい、と思う。
 元より自分が誰彼構わずケンカを売るような性質ではないが、さっきのにしたみたいに一方的に会話を打ち切ったりはしたくなかった。どうとも思ってない女子相手には出来る行動が、相手だと憚られる。傷つけたくない、というよりも大事にしたい、という心境の方が近い。まぁ、意地悪したいとか困らせたいとか、そういうのもちょっとはあるんだけどね。
「はーい、おはよー。席につけー」
 担任の登場を機に、の周囲にいた連中が自分の席へと戻っていく。それを見送るように斜め後方を向いたの視線が、友人から離れ、俺へと向けられた。
 ――あ、こっち向いた。
 かち合った視線に驚いて目を丸くしてしまう。それは俺だけに現れた反応ではなかった。もまた、俺以上に目を大きくしている。単なる偶然なのか、が意図したのかは定かではない。ただ、目があったという事実だけで簡単に胸が高揚する。
 口元を押さえていた手を動かし、ひらりと翳してみせた。だけへと送った合図を彼女は受け止め、そして動揺した。例のごとく赤くなった頬を目の当たりにする。
 ――治らないなぁ、それ。
 苦笑してみせると、は体を縮こまらせた。そのまま下を向いてしまったは、チラっと俺の反応を伺うかのように目線だけをこちらへと差し向ける。困ったのと照れたのと半々、といったところだろうか。だいぶ自分に都合のいいように考えた憶測だがあながち外れてはいないだろう。願望にまみれたことを考えながらの様子を眺める。じっと差し向けた視線に耐えられなかったのか、教師からの叱責を恐れたのかは分からないが、はパッと体を翻して黒板の方へと向いてしまう。
 辛うじて見える耳元の熱を、やっぱり触りたいな、だなんて叶うはずもないのに、願ってしまう。手の位置は動かさず人差し指を伸ばし、遠い席にいるの姿に沿わせる。届かない指先を、それでも諦めきれず、背中をなぞるように動かした。



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