哀れな惑星04

その日が来るまで


 団地の横道を通り抜け、目の前を横切る川を見た虎杖君は嬉しそうに目を輝かせた。彼の注文通り〝そんなにひとがいなくて車からも立ち寄りやすい場所〟に連れて行けたのだと知るにはその反応で十分だった。

「すっげー! いいじゃん! 超理想! いい場所知ってんね!」
「いや、はは……」

 ストレートに誉めそやす虎杖君に思わず俯いてしまう。彼の様子に嫌悪感を抱いたわけじゃない。それでも眩しいほどの笑顔を真正面から受け止めるのはどことなく気が引けた。
 鈍い反応を見せる僕に、虎杖君は軽く首を傾げたようだった。それでも余計な詮索はしない主義なのか、特に理由を尋ねてくる気配はなかったためそっと安堵の息を吐く。
 
「それじゃ、早速順平に聞きたいことがあんだけど、その前にちょっと電話かけてくんね! すぐ終わるから!」
「あ、うん」

 そう言った虎杖君は数メートルほど離れた場所でおもむろにスマホを取り出し、耳に宛がった。話があると連れてこられた以上、彼が電話を終えるまで待つほかない。
 所在ないままに階段に腰掛け、虎杖君の様子をぼんやりと眺める。奇妙な生き物を小脇に抱えた虎杖君はこちらに背を向けているが、電話の相手がなかなか出ないことに業を煮やしているようだった。
 ――呪術師、か。
 最近になって初めて知った言葉を頭の中で反芻する。真人さんは出会ったら仲良くするといいと言っていたが、呪術師が呪いを祓うことを生業としているのなら真人さんの敵のはずだ。陣営的に呪いと呼ばれる相手に与する僕が仲良くしてもいいものだろうか。

「あーっ!! もういいや聞いちゃえ!」

 突然、叫び声を上げた虎杖君に、たった今、悩んでいた疑念が霧散する。

「なあ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「う、うん」

 質問があると前置きした虎杖君に頭を揺らして応じる。軽く背筋を伸ばし、彼の弁に耳を傾ければ、虎杖君は先日映画館であった事件について尋ねてくる。
 一瞬で肝が冷えたのは、その場に自分が遭遇したせいなのも理由のひとつだ。だが、変死体となった元同級生を目の当たりにした衝撃よりも、その3人から与えられた苦痛の方が僕にとっては生々しい傷だった。

「なんか見なかった? こういうキモイのとか」

 微かに動揺した僕の変化に気付かなかったらしい虎杖君は、ずっと握りしめていた生き物をこちらに掲げる。鳥類なのか哺乳類なのかの判別もつかない生物を改めて観察する。
 見慣れない生き物だ。だがそれを目にすると、ふと、真人さんの顔が思い浮かんだ。それと同時に真人さんに連れて行かれた先にいた〝元人間〟を思い出す。
 虎杖君が、どういうつもりで質問を投げかけてきたのかわからない。人の枠組みから外れてしまったものを見たかどうか聞いているのであれば答えは〝Yes〟だ。だが、もしバケモノ探しをしているのであれば、見たと答えてしまえば回り回って真人さんに迷惑が掛かってしまうかもしれない。

「いや、見てないよ」

 心当たりもなくはないが、虎杖君が掴んでいるような生き物は見ていない。微かな真実を軽い嘘でコーティングして答えると、虎杖君は残念そうに眉尻を下げた。

「じゃあもう聞くことねぇや!」

 懸念していた虎杖君の尋問は、どうやらこれで終わったらしい。身構えていた分、正直、肩透かしではあったが、答えようがないものをしつこく聞かれるよりもよっぽどいい。
 内心でホッと安堵の息をつけば、虎杖君の上司のような人が来るまで待ってて欲しいとお願いされる。どうやら車で見つけやすい場所、というのはその人と合流するための希望だったようだ。
 特にこの後の用事も無いので「いいけど……」と同意すれば、虎杖君は楽しそう「サンキュ!」と笑った。
 そのままどっかりと僕の隣に腰掛けた虎杖君は、唐突に映画館で何を見ていたのかと質問してくる。話題の映画ではないと告げても引かない虎杖君に、観念してタイトルを告げれば意外にも虎杖君はその映画を観ていたらしく「超つまんねぇよな!」と的確な感想をぶつけてきた。
 たしかにミミズ人間は1も3も「超つまんねぇ」と言われても仕方ない。でも――。

「でも2は――」
「でも2はちょっと面白かったな!!」

 同シリーズの前作だけは密かに評価していた僕は、虎杖君の高評価にいち早く反応してしまう。 

「そう!! そうなんだよ!! 2だけは楽しみ方があるんだよ」

 テンションがあがるままに虎杖君に他ナンバーと2の違いを懇々と語る。繰り返し鑑賞する中、僕が見つけた2の面白さの理由を伝えると虎杖君にも思い当たる節があったらしく「だから2は観れたのか」と納得してくれた。
 ――こんな風に人と楽しく映画について語るのは久しぶりだ。
 と一緒に映画を観に行くこともあったが、僕が好きなタイプの映画に連れていっても「よくわからなかった」と顔を顰めるパターンが多かった。
 もちろん、の映画の見方を否定するつもりはない。にとっての映画は面白いか面白くなかったのほぼ2択で、そこになりのちょっとした心の動きだけが加わるのがほとんどだった。
 笑った。泣いた。腹が立った。作中に出てくるご飯が美味しそうだった。そして、よくわからなかった。大体この数パターンの感想で終わってしまう。映画の内容について色々思いを巡らせてしまう僕には若干物足りなさを感じていた分、ほかの人と感想を語り合う時間に飢えていた。
 と一緒に映画を観れば見るほど募っていた感想への思いが爆発してしまった感は否めない。だが、虎杖君は特に気にすることなく僕との会話を楽しんでくれたようだった。
 聞けば虎杖君は諸事情により最近映画を観る機会が増えたらしく、様々なジャンルの映画を一通り観たらしい。一気に色々観てしまったため、もう少しじっくり腰を据えて観てみたかったものがいくつかあると言う。

「へぇ。例えばどのあたりが気になったの?」
「んー。そうだなぁ」

 顎に手を添えた虎杖君は反対の手で指折り数えながら映画のタイトルを口にする。過去に一世を風靡したタイトルだったり、結構マイナーなものだったり。多岐にわたる作品名に「それなら僕も観たよ」とか「名前だけは聞いたことあるなぁ」と相槌を打ちながら会話を紡ぐ。虎杖君の小気味よい受け答えに、好きな映画の話という利点を抜きにしても、虎杖君と話をするのは楽しかった。
 
「ん? なぁ、さっきの子ってあの子だっけ?」
「え?」

 ふと話の途中で背後を振り返った虎杖君がこちらに質問を投げかけてくる。河川敷前の道路を見上げれば、階段のてっぺんに立つがこちらを見下ろしていた。立ち尽くしてこちらを見つめるに軽く首を捻る。
 試しに「降りておいでよ」と手招きしてみたがは一向に降りてこない。
 ――どうしたんだろう、急に。
 基本的には物怖じしない性格だし、がはぐれてコンビニに行くまで虎杖君とも普通に話していたはずだ。急に人見知りしたなんてことはにとってはありえない。
 思い当たる理由がなく軽く首を捻れば、隣に座る虎杖君もまた怪訝そうな顔をした。

「なんか警戒心の強い猫みたいだね。目が縦になっちゃってるよ」

 虎杖君の弁に思わずぷっと吹き出してしまう。〝借りてきた猫〟なんて言葉があるが、離れてじっとこちらを見つめるの状態はまさにソレだった。特に高い場所から見下ろすさまが〝縄張りを荒らされたと棚の上から睨む猫〟っぽく見えてしまい、ますますツボに入った。

「多分、話してるうちに降りてくると思うから、気にしないで」

 漏れる笑いを堪えながら伝えると、虎杖君は「オッケー」と親指と人差し指をくっつけて応じた。

「でさ、さっきの話の続きなんだけど。俺、展開的にどうも納得いかないとこがあってさ」
「あ、もしかして終盤の――」

 再び映画の話題で盛り上がる僕らの会話はには聞こえない。それでも遠目から観たってこちらが楽しくしている様子はわかるはずだ。楽しいことが好きななら、きっとそのうち自分も混ぜてとせがんでくるに違いない。
 ――こういうの、なんて言うんだっけ。天岩戸?
 日本神話の一説が頭に浮かんだ僕は、虎杖君と話をしながらもチラリとへ視線を向ける。階段のてっぺんにいたはずのが2段分降りているのが横目に入ると、そっと視線を戻した。
 虎杖君と会話を紡いではの所在を確認する。そういうのを何度か繰り返せば、はようやく半分ほど階段を下りてきた。
 ――これは天岩戸なんかじゃないな。
 だるまさんが転んだなのか。メリーさんの怪異なのか。次第に距離を縮めてくるに苦笑する。程なくしてあと数段の距離で停止したが学校の鞄以外にも荷物を抱えていることに気がついた。ぼんやりとした視線を意識して刺し向ければ、は2Lのペットボトルを胸に抱きかかえていた。
 そんなに喉が渇いていたのか。一瞬、の行動を受け入れる。だが〝さすがにひとりで飲むには多すぎる〟と浮かび上がったばかりの考えを打ち消した。
 おそらく、はアレを僕と虎杖君との3人で分けて飲むつもりなんだろう。
 ――なりに気を利かせたつもりなんだろうなぁ。
 たしかに500mlを三人分用意するより安上がりではあるけれど、は一体アレをどうするつもりなのか。まさか――いや、もしかしたらちゃんと紙コップの類いも買っているかもしれない。そんな一縷の望みをかけての肩にかけられた学校の鞄に視線を流したが、ぺちゃんこにほど近いその中に紙コップが入っているとは思えなかった。
 ――はラッパ飲みでもするつもりなんだろうか。しかも2Lのペットボトルで。
 新たに浮かんだ疑念を「まさかね」と一蹴したかった。だが、普段のの行動を思い返せば〝ならやりかねない〟という答えに行き着いてしまう。
 そんな炎天下で実施される体育祭でしか見たことないような光景を、知り合ったばかりの虎杖君にも強要するつもりなのかと思うと頭が痛くなるようだった。

「順平?」

 を振り返ったまま頭を抱えた僕に、虎杖君の心配そうな声が降ってくる。その様子がにも見えたのだろう。階段を下りる足音が一気に近付いてくる。

「順平! どうしたの!」
「あ、一気に来た」

 慌ただしい様子のに目を丸くした虎杖君の言葉に反応を返すよりも先に、僕と虎杖君の間に駆け下りてきたは胸に抱いたコーラごと僕に飛びかかってくる。ペットボトルの纏う水滴が腕につくと「冷たっ!」と思わず悲鳴をあげてしまった。離れてと言って素直に聞き入れるじゃないと知り尽くしている僕は、手の甲で水分を払うと同時に迫ると距離を取る。

「……特に問題は無いよ」

 軽く俯かせていた頭を起こせば、キョトンとした視線ふたつがこちらに降り注ぐ。どうやらだけでなく虎杖君も心配してくれているらしい。

「本当に、平気だから」
「そ? じゃあよかった」

 念押しして伝えれば、意外にもあっさりとは僕の弁を受け入れる。僕の右腕にしがみついていたは僕の腕を解放すると同時に足を投げ出して座った。「どうもどうも」などと今更ながらに取り繕うの白々しさにげんなりして溜息を吐きこぼす僕とは裏腹に、虎杖君は文字通り飛び入り参加したを難なく受け入れたようだった。

「おかえり。何買ってきたん? てかでかくね?」
「コーラ! たくさん飲めた方がいいもんね! 飲む?」
「マジ? いいの? 俺さ、スッゲェ喉渇いてたんだけどあとでちょっともらっていい?」
「いいよ! そのためにおっきいの買ってきたからね!」

 ポンポンと飛び交う会話に思わず閉口してしまう。の馴れ馴れしさをものともしないばかりか同じレベルで踏み込んでいく虎杖君に感心した部分もなくはないが、それよりもこの大きさのペットボトルを難なく受け入れる虎杖君に感服する。「こっちも気にしないタイプだったか……」と呆れにも似た心地が広がった。

「ん? どうした、順平」
「順平も飲む?」
「いや、僕はいいよ」
「そっか」

 早速飲もうとしているのか、は抱えたペットボトルのキャップを外そうと肘を高く上げていた。その肘の先に虎杖君の顔があることには気付いているんだろうか。無頓着な様子に呆れながらもの動向を見守る。
 えいっとがキャップを捻った。それと同時にプシュッと炭酸が抜ける音がする。普段ならばそこで終わるはずなのに今回は違った。プロ野球のビールかけばりとまではさすがにいかないが、それなりの量が蓋の隙間から飛沫を撒き散らした。どうやら階段を駆け下りた振動で中のコーラが揺れてしまい、炭酸が吹きこぼれる事態を引き起こしてしまったらしい。

「わっわっ!」

 一瞬でパニックに陥ったは口を大きく開いて慌てふためいている。あろうことかペットボトルを投げ捨てようかとした動作は隣に座る虎杖君により辛うじて引き留められた。微かに噴きこぼれるペットボトルを回収した虎杖君も、準爆発物を手放すことができたも安堵の息を吐く。

「あっぶね……大丈夫?」
「全然だいじょばない……」
「ほら、制服汚れるよ」
「うぇえ……。もう汚れたよぉ」

 虎杖君の問いかけにも僕の指摘にも情けない声で言い返したに眉尻を下げる。

「とにかく、先に拭きなよ」

 とりあえず少しでも被害を抑えるべきだとポケットから取り出したハンカチをに押しつけた。だがそれを受け取ったは「ありがと」といい、その目に浮かび上がる涙を拭いはじめる。
 ――違う、そうじゃない。
 意図した使用目的とはまったく違う方法で使い始めたに思わず内心でツッコミを入れてしまう。そうこうしているうちにに降りかかったコーラはどんどん制服に染みこんでいき、もうハンカチで拭ったくらいではどうにもならないだろうと強制的に僕を諦めさせた。

「ハンカチ、コーラつけてないよ」

 右、左と順番に目尻にハンカチを当てたは「だから褒めて」と言わんばかりの態度でハンカチを返してくる。コーラを拭くために渡したんだけど、と今更言えるはずもなく「……偉いね」とだけ伝えた。
 こぼれ落ちそうな溜息をすんでのところで飲み込んで、じっとの惨憺たる有様を眺める。入学して5ヶ月。夏服を下ろしたのは6月頃だろうか。夏休みを挟んでいるので恐らく1、2ヶ月しか着ていないだろうにこんな風になってしまうとは。
 僕がついていながら……なんて。多分、僕が背負わなくてもいい罪悪感が降りかかる。それでも汚れの落としにくいワイシャツではなく、洗い勝手の良いポロシャツを着せているあたりのお母さんの英断だと思った。

「それよりさっきまで何の話してたの?」

 一通り服を汚したところでもうどうにもならないと判断したはさっきまで泣きそうだった顔を一変させていた。後から登場してきたが会話の主導権を握ろうとしている様に「えぇ……」と暗に非難をほのめかしたところで態度を改めるようなではない。また、の言動を気にするような虎杖君でもないらしく、すんなりとふたりは会話を再開させる。

「最近観た映画の話してたんだよね」
「へぇ! 映画! 映画なら順平も好きだよ。ね、順平」

 虎杖君の方に顔を向けたまま僕の腕を揺らすに「うん、そうだね」とだけ返す。ゆらゆらと揺さぶられたままの奥へと視線を向ければ、虎杖君がから回収したコーラを口元で傾けていた。

「それでそれで? どの映画の話してたの?」
「ミミズ人間2。も観たことあるでしょ」
「わー……。グロいやつだ……」

 映画のタイトルを告げると内容を思い出したらしいの表情が一変する。呆然とした顔つきは、グロ描写に耐性のないが映画を観ている間に浮かべていたものとまったく同じだった。

「たしかにグロいけどさ、ちょっと面白くなかった?」
「痛そうなとこ目瞑って耳塞いでたからほとんどわかんなかった……」
「え、それ観たって言える?」

 話題を広げようとした虎杖君の努力も空しく、は目を虚ろにさせたままどこか遠くを眺めている。視線の合わなくなったを訝しんだのか、虎杖君はの眼前で手のひらを振った。それでも意識を取り戻さないの様子に諦めた虎杖君が首を伸ばしてこちらを眺めてくるが、特に何も言うことはなく、軽く目を伏せて首を横に振るに止める。

「まぁ……は僕が観てるのを横から見てただけだから」
「えー。なんかもったいなくね?」
 
 基本的にが自ら望んで映画を観ることはほとんどない。本人は僕が観るのに付き合っているつもりなんだろうが、最初のきっかけは違った。
 お互い親のいない時間、宿題はしたくないと僕の家に遊びにやって来たをどうやり過ごすか悩んだ僕が、前の日に録画していた映画を流したのがはじまりだった。映画を流したまま、おおきなマグカップにたっぷりとキャラメルポップコーンを入れてやれば、がおとなしくなることに気付いたのは、あの頃の僕にとって世紀の大発見だった。
 苦肉の策で始めた回避策だったが、僕の方はいつの間にか映画そのものに魅了されるようになっていた。だがの方は違ったようで、僕の家のリビングで映画鑑賞をするのが習慣になった今も、特に映画を好きそうな素振りは見せない。
 気に入らないシーンやつまらないシーンがあると、席を立ったり早送りしたりと邪魔をすることはないが、見たくないシーンは目も耳も塞いで情報をシャットアウトした。
 とは言え、僕もさすがにミミズ人間2の3回目を観たときは似たような顔をして画面と向かい合っていたので強くは言えない。
 キレッキレのグロ描写を思い出すだけで僕もまたと同じ顔をしてしまう。呆然とした顔がふたつ並んだのを目の当たりにした虎杖君は呆れたようにこちらを眺める。

「順平といい、といい、なんでそこまでして映画観んの?」
「ホント、なんでだろうね……」

 真っ当な指摘に返す言葉もなかった。好きだから観ているのは大前提だが、わざわざ辛い思いをしてるのを肯定する材料にはならない。あはは、と力なく笑って会話を流せば、虎杖君も深くは追求してこなかった。

「虎杖君、映画好きなの?」
「ちょい事情があってさ。ここ最近は映画三昧」
 
 話の流れで虎杖君に水を向ければ、自宅で映画を楽しんだ旨を告げられる。昨今の映画事情的にもVODはとても便利だけど映画館で観るのも格別だと訴えれば今度一緒に観に行かないかと誘われた。突然の申し出に驚きと喜びが綯い交ぜになって襲いかかってくる。

「? あ、連絡先? ほい」

 差し出されたスマホにどう対処しようか迷っている合間も「友だち追加はどうするんだっけ」と虎杖君が着々と連絡先交換の準備を整えている。正直、たった今、出会ったばかりの虎杖君と一緒に映画を観に行くビジョンは見えない。
 ――でも、友だちになれそうなら、なりたい。
 その願いに後押しされた僕もポケットからスマホを取り出そうとした。その瞬間、不意に上から声がかかった。
 
「アレ? 順平、それにも」
「わぁ! 凪さん!」
「母さん!!」
「こんなところで珍しいね。友だち?」
 
 母さんの出現に対し、いの一番に反応したのはだった。抱えていたコーラを置いてパッと身を翻したは、一目散に母さんの元へ向かうべく階段を駆けのぼっていく。
 母さんの腕に自らの腕を絡めたはいつになく嬉しそうに「凪さん、お仕事おつかれさま」と労りの言葉を紡ぐ。目に見えないしっぽをブンブン振り乱すさまを目の当たりにした僕は、いつもの光景に小さく溜息を吐いた。

「おー。今度は犬っぽくなっちゃった」

 つい先程、のことを〝警戒心の強い猫みたいだ〟と評した時と違う印象を受けたのだろう。母さんにしがみつくを眺めた虎杖君はぽつりと言葉を零した。同意も否定もできず苦笑していると、を連れだった母さんがこちらへと歩み寄ってくる。

「なんて子?」
「虎杖悠仁です! お母さん、ネギ似合わないっすね!」
「お、わかる? ネギ似合わない女目指してんの」
「え! 凪さんなんでも似合うよ!」
「……何言ってんの?」

 母さんと虎杖君のわけのわからないやりとりだけでも十分なのにまで加わるとツッコミどころ満載過ぎてどう反応していいかわからなくなる。呆れたのだと隠しもせずに口にしたが3人ともどこ吹く風だ。
 僕の戸惑いなんて気にしない母さんは虎杖君と軽い口調でしゃべっているが、どうやら意気投合しつつあるらしい。晩ご飯を食べていかないかと誘う母さんに対し、虎杖君はお腹の音で空腹だと返事をした。
 嫌いなものやアレルギーがないか確認する母さんに、外堀を埋められている感が増す。こうなってしまった母さんを止められるはずもなく、恥ずかしさを抱えたまま成り行きを見守ることしか出来なかった。
 今日の夕飯に虎杖君の参加が決まったことに満足したのだろう。嬉しそうに笑った母さんは、いつの間にか自分が持ってたエコバッグを取り上げていたを振り返る。

も食べてくでしょ」
「食べます! そして手伝います!」
「あー……。手伝ってくれるのはありがたいけど……その前に制服、どうにかしないとね」

 呆れながらも至極真っ当な指摘を口にした母さんに、は暗い表情を浮かべる。ポロシャツの裾を掴んで引っ張ったの不満げな態度を眺めた母さんは「シミ抜きあったかなー……」とぼやいた。
 そんなふたりのやりとりを眺めていた虎杖君は、いぶかしげに顔を顰めた。
 
「あれ、俺、もしかして勘違いしてたかもなんだけど……って順平の双子とか妹とかじゃないの?」
「ううん、近所の子」
「マジか。やっぱ勘違いしてたわ! 恥っず!」

 両手のひらで口元を覆い隠したまま目を見開いた虎杖君に苦笑する。
 ――久しぶりにそんな勘違いされたな。
 昔からとは「近所でも評判の仲の良い兄妹」みたいな扱いを受けてきた。学年がひとつ違うからこそ四六時中一緒にいたところでお互い同級生にからかわれる被害が少なく、年の差がほとんどないからこそ面倒を見るよう押しつけられたなんて被害者めいたことも考えずに済んだ。
 結果的に高校生になってなお、昔と同じ距離感で過ごせている。もっとも、兄妹のようと言っても、見ての通りが僕を敬うかと言えばそうでもないのだけど。
 久々に受けた他人からの評価に、懐かしい反面、今もなお並んでいれば兄妹に見えるのかと面映ゆい気持ちになる。

「まぁ一般的には幼馴染ってやつだけど……もう身内みたいなものかな」
「あぁ、たしかに。なんていうかふたりって家族っぽいよね。肌で感じる空気が一緒っていうか」

 母さんとを振り仰いでそう評した虎杖君の発言に、思わず軽く首を傾げる。
 
「……それ褒めてる?」
「褒めてるよ。良い奴そう、って意味。仲良くなれそうとか、そんなん」

 あっけらかんとした口調で告げられたこれ以上無いほどの褒め言葉に身体の芯が暑くなる。照れくささに負けて軽く俯けば「どしたん?」と声が降ってきた。

「なんでもないよ。……ちょっと、恥ずかしくなっただけ」
「え、俺そんな恥ずかしいこと言った?」

 非難めいた表情を浮かべた虎杖君に眉尻を下げて苦笑する。恥ずかしい言葉じゃないと宣言されたことで今の発言が彼の紛れもない本心だと確信できた。より一層照れくさくなったけれど、今度は表に出さないようにと気を払う。

「雰囲気はともかくやってることとか言ってることはあんまり似てないと思うんだけどなぁ」
「その辺は似てねぇかもなー。話してるの見た感じ、結構順平が苦労してそうだよね」

 本質を見抜いた虎杖君の言葉に僕は深く頷いた。

「そう。そうなんだよ。はかなり無鉄砲なところがあるんだ」
「すげぇ実感こもってんね」

 僕の熱弁に対し、虎杖君は呆れたように笑った。
 の奇行は今に始まったものじゃない。虎杖君が知るよしもないけれど、僕はこの十数年で至るところでの不始末に追われてきた。突然、ジャングルジムから飛び降りては骨を折り、チャンバラだと箒を振り回しては窓ガラスを割った。どれもこれも走馬灯と呼ぶには散々すぎる映像が脳裏を過る。
 そのひとつひとつを例にあげ虎杖君に共有したい気持ちもあるが、どれを口にしてもの悪口になりそうでひとつたりとも口に出すことは出来なかった。
 思い返せば僕はに迷惑ばかりかけられている。面倒なことになったと嘆いた数は両手どころか両足の指を折ったところで足りないだろう。
 ――それでも。

「……真っ直ぐに飛んでっちゃうのはいいけど、戻ってこないんじゃないかってたまに心配になるよ」

 に辛酸を舐めさせられた経験は多々あるけれど、それで嫌いになるなんてことはない。
 僕の中にある偽りのない本心が思わず口を衝いて出た。飾り気のない言葉を発することに慣れてなくて慌てて手のひらで口元を覆い隠す。横目で虎杖君の反応を窺えば、口元を真一文字に引き締めた顔が目に入る。
 決して僕の言葉や考えを笑ったり馬鹿にしたりしないと、その表情は雄弁に語っていた。

「まぁ、順平みたいにちゃんと見ててくれるヤツがそばにいるんなら大丈夫じゃね?」
「それでもずっとってわけにはいかないからね」

 高校に行かないと決めた僕と、僕が諦めた高校に通うの世界はもうほとんど交わらない。今はまだ、たまにこうやって会いに来てくれるけれどそれもいつまで続くものか。
 変化を寂しいと嘆くよりも、に自由に生きて欲しいから泣き言なんて絶対に伝えない。だけど、が今日、外村にしたみたいに学校でいろんな人に喧嘩を売ったりしたら――。その可能性を考えただけで氷水を頭から浴びせられたような心地に陥ってしまう。
 もしも、いつかの好奇心が伊藤に辿り着いた時、僕が味わわされたような目に遭うんじゃないかと思うと恐ろしくて仕方が無い。

「……僕が見てないとこでが無茶しないといいんだけど」
「妹ってよりもう親子じゃん、それ」
「はは。みたいな子は面倒見切れないだろうし、ちょっとイヤかなぁ……」

 虎杖君の軽い笑い声に合わせて、僕も笑った。今の時点で起こってない未来を憂うのはひとまず止めにしよう。そう思うと同時にの呼びかけが耳に届いた。

「順平ー! 悠仁ー! 早く帰ろー!」
「おー。行こうぜ、順平」
「うん」
 
 すでに階段の上まで上ってしまったと母さんを振り仰ぐ。こちらに向かっておおきく手を振ったは、虎杖君が階段を上り始めると母さんの買い物袋を抱えずんずんと先を行く。
 ――やっぱり、後先考えてないなぁ。
 どうやらもう少し、僕の目は必要らしい。そう悟った僕は呆れとも安堵とも着かない溜息を吐きこぼし、その場に置き去りにされたの学生鞄と2Lのペットボトルを拾い上げた。






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