Encounter 06

Another encounter 06


 六月に入ってもなお続く梅雨の最中。珍しく晴れの日が2日も続くと、自然と気持ちが上を向く。給食を食べ終えた後、昨日まで降り続けた雨が嘘みたいに晴れた青空を眺めながら机に頬杖をついた。どこか遊びに行ってもいいんだが、腹が膨れるとどうしても眠くなる。昼休みということもあり、教室の中で交わされる遠い雑談がいい感じに眠気を誘うもんだからなおさらだった。
 夏を迎える気配を含んだ日差しを浴びながら、窓枠に軽く肩を預けてウトウトとまどろんでいると、ふらりとぺーやんがやってきた。

「オイ、パーちん。起きてっか?」

 ちょうど席を立った男子と入れ替わるように、前の席の椅子にどっかりと腰を下ろしたぺーやんがこちらを覗きこんでくる。それに「ギリギリなー」と返せば、ぺーやんは「なんだよ。今日はパーちんが夜更かししたのかよ」と笑った。
 昨日、帰る時もそんな話したっけ。いつになく眠そうだったの顔を思い出しながらひとつあくびをこぼす。

「っつーか、珍しいなこんな中途半端な時間に」
「あぁ。さっきまで外にいたからよ」

 ウチの中学で一番怖い体育教師の目を盗んで学校を脱走してやったとか。そのままコンビニに行ってマッカン買ってきただとか。得意げに言葉を紡ぐぺーやんに「やるじゃん」と相槌を打つ。
 オレが褒めるとぺーやんはますます楽しそうに笑った。だが、その手元にはマッカンひとつ握られていない。
 ――どっかで飲んできたのかな。
 いつもなら買い物に行った帰りはオレの教室で飲み食いすることが多いぺーやんだが、まぁ、たまには例外ってのもあるだろう。
 一瞬、頭に浮かんだ疑念はすぐに払い落とせた。だが、いつになく晴れやかな表情を浮かべたぺーやんへの違和感は残る。

「なんだよ、やけに機嫌よさそうじゃん」
「ア? そうか?」
「オゥ。なんかスッキリしてんなって」

 疑問に思うまま、首を捻りながら問いかけると、一瞬、不思議そうな顔をしたぺーやんだったが、どうやら思い当たる節があったのだろう。ぺーやんは「あぁ」と納得したように頭を揺らした。

「さっきと和解してきたワ」
「……誰だ、そいつ?」

 ニッと笑ったぺーやんとは裏腹にオレは思わず怪訝な顔を浮かべてしまう。
 記憶にある限り、オレになんて知り合いはいない。ぺーやんの口からも聞いたことがない、多分。だが、きょとんと目を丸くしたぺーやんは、まるでオレが知らないって言い出したのがおかしいとばかりに眉根を寄せた。

だよ。

 知らない名前にくっつけられた聞き覚えのある苗字にオレは思わず膝を打った。

「あぁ! アイツか! っつーか仲良くなったのか?」
「さぁな。でもまぁ、その辺で会ったら話しかけてくんじゃね?」

 飄々とした態度ではあるものの、ほのかに漂ってくる機嫌のよさに目を丸くする。昨日の放課後、全然捕まらないと不貞腐れていたぺーやんとは大違いだ。

「マジかよ。よかったじゃん」
「オゥ。これで一件落着ってヤツよ」

 肩の荷がおりたと言わんばかりに、背中を壁に預け、深く椅子に腰かけたぺーやんの姿を見ると自然と口角が上がる。

「最近のぺーやんは、ずっとのこと探してばっかだったもんな」
「オゥ。もう一年の教室まで行かなくてすむと思うと気が楽になったぜ」

 に謝ると決めて以来、昼休みや放課後に学校内外問わずウロウロしてたぺーやんの姿が頭を過る。血眼になって探すほどの情熱なかったようだが、逆にそのせいで捜索が長引いたようだった。
 それでも、時間はかかっても、ちゃんとを見つけだし謝りに行ったぺーやんは偉い。しかも例の後輩たちも連れてってちゃんと頭を下げたというんだから「ホント律儀なヤツだよなぁ」なんて思わず感心してしまう。

「じゃあ明日から人捜しもナシってんならのんびりできるな」
「オゥ。心配かけて悪かったな!」

 ぺーやんが元気になったんなら安心だ。そんな気持ちとともにニッと笑いかければ、ぺーやんもまた歯を見せて笑う。晴れやかな表情を見ていると、こちらの心まで不思議と軽くなる心地がした。


 ***

 そんな話をして数日が経ち、とある事情で補習が打ち止めになったある日の放課後。
 寄るところがあるとどっかに行ったぺーやんを見送ったオレは一足先に家庭科室へ遊びに行くことにした。
 家庭科室のドアをスライドさせ、そっと中に入り込む。相変わらず集中してなにやら作っているを遠目に眺めながら三ツ谷の元へ足を運んだ。
 三ツ谷の近くに辿りつく直前、手近にあった丸椅子を拾い上げると、隣に座りがてら三ツ谷の手元を覗きこんだ。相変わらずスムーズな動きで布を縫っていく三ツ谷は今度は一体何を作っているんだろうか。
 じっと眺めていると、不意にミシンを止めた三ツ谷がこちらを振り仰ぐ。目が合うと、三ツ谷は口元に軽い笑みを浮かべた。だが、まばたきひとつ挟むうちに再び作業へ戻っていく。

「よぉ、パーちん。今日は早いな。補習の再試、受かったのか?」
「いや、受かんなかったけどもうすぐ期末があるからよ。もう次のテストを作るから先生たちが教えらんねぇってさ」
「……先生も大変だな」
「なー」

 1ヶ月あまりの放課後を補習に費やしたかと思えばすぐさま次の試験だなんて、ツイてないにもほどがある。同情にも似た感情と共に相槌を打てば、三ツ谷は眉尻を下げて苦笑した。

「まぁ、パーがそれでいいならいいけど」
「何がだよ」
「補習。合格する前に無くなっちゃったんだろ?」
「オゥ。ラッキーだったワ」

 補習も追試もない放課後なんて最高以外のなにものでもない。晴れて解放された自由の身ってやつを満喫してやるんだと意気込んだオレは、放課後が楽しみすぎて昼休みのうちにコンビニへお菓子やパンを買いに走ったほどだ。
 浮かれた気持ちに突き動かされるまま、いつも以上に買い込んでしまったのは言うまでもない。戦利品だ、とばかりにちょっとしたパーティが開けそうな量のお菓子が入った袋を見せつければ、三ツ谷は「スゲェ量だな」と笑った。

「三ツ谷もあとで食うか?」
「あー、そうだな。あとでな」

 一定のリズムで進む針に意識を傾けたまま頷いた三ツ谷に「オウ、わかった」と頭を揺らしながら応えると、早速オレはお菓子やパンの入った袋に手を突っ込んだ。
 鼻歌を歌いながら、ひとつ目はどれにしようか、なんて迷うことさえ心が弾む。甘いのとしょっぱいの。腹持ちがいいやつと口当たりの軽いやつ。中身を確認しながら今の腹具合と相談する。
 その中で今一番食べたいと感じたメロンパンを袋から取り出せば、すかさず三ツ谷が口を挟んできた。

「オイ、パー。パンくず落ちると困るからそれ食うならちょっと離れたところで食ってくれよ」
「あぁ、悪ィ」

 丸椅子を引きずって離れ、三ツ谷へ視線を伸ばすと、ヨシ、という代わりに三ツ谷は頭を揺らした。
 再び作業に没頭しはじめた横顔を眺めながら、壁に背中を預けるように深く腰かける。日陰の壁から伝わってくるひんやりとした感触に目を細めながら、膝の上で開いたメロンパンにかぶりついた。
 一口、二口と食べ進めるうちに、意図せずパンくずがポロポロとこぼれはじめる。これは三ツ谷が嫌がるのも仕方ないな。そんなことをぼんやりと考えていると、隣の窓から差し込む光の強さに肌がジリジリと焼かれる感覚が走った。
 ――そういやもうすぐ夏休みだもんな。
 梅雨が明ければ夏はすぐそこだ。そしてすぐに夏休みがやってくる。
 楽しいことがすぐ近くに迫っている気配にウズウズした心地が湧いてくる。今年もなんか、楽しいことがしてぇよな。
 そんな気持ちが高まると同時に、隣を振り返ったオレは黙々とミシンを操作する三ツ谷に声をかける。

「なぁ、三ツ谷」
「んー?」
「今年もさ、夏休みに入ったらどっかツーリング行こうぜ! マイキーたちも誘ってさ!」
「いいな。パーちんが期末の補習で夏休みを潰さなければな」
「ゲェッ!」

 急浮上した気持ちは、三ツ谷の一言でガクンとそれ以上の勢いで叩きつけられる。いきなり恐ろしいことを言うもんだから、食べかけだったメロンパンを膝の上に落としてしまったほどだった。

「ホシュウ……」
「そ、補習。それに追試もあんだろ? 先生の予定と情熱次第じゃ、夏休みも出て来いって言われたっておかしくねぇぞ」

 たった今、見えたはずの明るい未来が遠くなる。目の前が暗くなるまま呻き声をあげるオレとは裏腹に、人の悪い笑みを浮かべた三ツ谷はとんでもない言葉で脅しをかけてきた。
 うっすらと残った記憶を辿れば、三ツ谷の言う通り、昨年の夏休みもと一緒に補習を受けた覚えがある。もっとも、追試に落ちまくったオレとは違い、は入院中に出遅れた分を受け終えたらさっさと来なくなっちまったから「裏切り者!」と喚く羽目になったのだが。
 気落ちしたまま取り落としたメロンパンを拾い上げ、口に運ぶ。さっきまでこれ以上無いほど美味しいと思っていたはずなのに、なんだか味がわからなくなってしまった。
 
「……なぁ、追試にならない方法、なんかないか?」
「いや、ちゃんと勉強するかしかねぇだろ」
「勉強してもわかんねぇんだよ! オマエ、オレがこの前までみっちり補習三昧だったの知ってるだろ?!」
「あー……」

 眉尻を下げた三ツ谷は返す言葉がないとばかりにオレから目を逸らす。逃げるような反応を目にすると、他に解決策なんてないと言われるより強く思い知らされた。
 しょんぼりと肩を落とすと同時に自然と溜息がこぼれた。つい先程、補習三昧だった先生を労うようなことを考えたが、よくよく考えてみれば状況はオレも同じだ。

「マジでどうすっかなぁ……」

 ぼやいたところで返事はない。残り小さくなったメロンパンを口の中に押し込んで、もぐもぐと口を動かしながらぼうっとした視線を家庭科室の中央へと差し向ける。視界の端にの姿をとらえたものの、気持ちはやはり心配事に傾いたままで、なかなか簡単には上向かない。
 ――なんか、楽しいことがあるといいよな。
 夏休みまで待ってられない。今すぐ何か心躍るような出来事があればいいのに。

 そんな、叶いそうもない幻想を頭に描いた。その瞬間だった。

「たのもー!」

 威勢の良い声と共にガラッと家庭科室の扉が開く。次いで、飛び込んできたのは例のチビ――だった。
 突然の出来事にオレも三ツ谷も、そして手芸部の連中も固まった。あの集中力の塊みたいなでさえ、驚いた様子でを振り返っている。
 家庭科室にいた連中の視線を一手に引き受けたは、臆すること無くこちらへ足を踏み入れる。その背中からひょこっと顔を出したぺーやんの姿が目に入った途端、いち早く立ち直ったらしい安田さんが立ち上がった。

「林君! 手芸部は空手道場じゃないのよ! 何考えてんの!!」
「オ、オレが言ったんじゃねぇし……」
「あなたが言わせたんでしょ?! こんなに小さい子を唆して!」

 足早に出入口へと向かった安田さんはぺーやんの前に立ち塞がると、いつものように噛みつき始めた。
 いつも通りの光景に、驚いて声も出せないでいたオレも三ツ谷も、詰めていた息を吐きこぼす。たじろぐぺーやんをほうけた顔をして見上げていただったが、話が長くなると悟ったのだろう。怒る安田さんの隣を事も無げにひょいとくぐり抜けると、キョロキョロと教室の中へ視線を巡らせた。
 左右に振られた視線が、オレと三ツ谷がいる辺りへ差し向けられる。一瞬、三ツ谷の元で止まるかと思われた視線が、ついっとオレへと滑り込んでくる。
 ぱちりと目が合うと、いつか喧嘩を止めたときと同じように、キョトンと目を丸くしたあと、は朗らかに笑った。

「――あなただったんですね」

 目元を和らげたは、ふわりとした声で言葉を紡ぐ。その表情と声には、驚きよりも歓喜に満ちていた。
 呆気にとられたオレや三ツ谷の反応なんて気にしないとばかりに、はこちらへと駆け寄る素振りを見せた。数度まばたきを繰り返したオレは、近付いてくるを目で追いながら気持ちを立て直すと、壁に預けていた背中を起こし、を迎え入れる。

「オゥ。久しぶりだな。どうしたんだよ、いきなり道場破りみたいなマネしてよ」
「ぺーやんくんからこちらに〝最強の男〟がいらっしゃると耳にしたので挑みに来ました。――お手合わせいただけませんか?」

 オレの正面まで歩み寄ってきたは、柔らかな物腰とは裏腹になかなか物騒な言葉を差し出してきた。挑戦状を叩きつけられた気分になって、思わず口角を持ち上がる。
 喧嘩を売っておきながら、ニコニコと笑う胆力は嫌いじゃない。ちょうどメロンパンを食べ終えたところだし、腹ごなしに軽く運動するのもいいよな。そんなことを考えながらに応じるべく立ち上がりかけた。だが、オレよりも先に、反応したのは三ツ谷の方だった。

「最強、ね……。なぁ、ここに乗り込んできておいて、オレは眼中ナシか?」

 部活中に見せる穏やかな表情のまま不穏な言葉を吐いた三ツ谷は、いつの間にかミシンを止め、作業台の上に頬杖をついてを見上げていた。いつもの三ツ谷なら「腕っ節に限ってはパーちんやぺーやんの方が上だしな」って簡単に認めるくせに、今日に限ってはなぜかにつっかかている。
 もしかしたら家庭科室なんて自分のフィールドで三下扱いされたのが気にいらなかったのだろうか。普段はしっかりしてるけど、あぁ見えて案外ムキになったり怒ったりするもんな、三ツ谷は。
 そんなことを考えながら三ツ谷へ差し向けていた視線をへと移す。三ツ谷が割り込んできたとはいえ、元々喧嘩を売られたのはこのオレだ。がオレと三ツ谷の両方と喧嘩をするつもりになったのか、それとも今日は片方だけにするつもりなのかは知らない。だが、こうなってしまっては、どちらにせよ事の成り行きを見守るほかないだろう。
 オレと三ツ谷。ふたりの視線を一身に受けたは一瞬、きょとんと目を丸くした。だが、ぎょっと目を剥いた後、慌てたような顔をして両手をぶんぶんと胸の前で降り散らかす。
 
「すみません。ぺーやん君に相手がどんな方かうかがった際に、その、ヘビー級クラスに恰幅のいい方だとうかがっていたものでこちらで勝手に候補から除外してしまいました」

 言葉を取り繕ったに三ツ谷は、ふ、と小さく笑うと、脅しをかけるような空気を一掃させた。

「なるほどな。聞き捨てらんねぇな、って言いたいところだけど、その体格でパーに目をつけるのは仕方ねぇな」

 頬杖をつくために前のめりになっていた上体を起こした三ツ谷は、どうぞ、とばかりにオレへと手のひらを翳した。の視線がこちらに戻ってくると同時に深く頷いて見せれば、はパッと顔を明るくさせる。

「じゃあ、オレ、先に行ってます! 早く来てくださいね!」

 目を輝かせたはくるりと踵を返すと、項垂れたぺーやんが立ち尽くす出入口へと駆けていく。その背中を見送りながらメロンパンのくずを手の甲で払って床に落としていると、軽くこちらに身体を傾けた三ツ谷が声をひそめて話しかけてくる。

「……アイツ、たしかぺーやんが後輩に泣きつかれて勘違いで殴り飛ばしたってヤツだろ? ヤんの?」
「ん? 当たり前だろ」

 うん、とひとつ頭を揺らせば、目を丸くした三ツ谷がこちらを振り返る。

「まじか。誤解、解けたんじゃなかったのかよ」
「やり返しに来たってんならヤんねぇよ。でも腕試しってんなら応えてやんねぇと」

 最強の男に挑みにきた、とは言っていた。その言葉に、ひどく胸が躍った。
 ――懐かしいよなぁ、アレからもう一年経ったのか。
 中学に入学してすぐの記憶がかすかに頭をよぎる。春先にマイキーの存在を知ったオレは、アイツやドラケンの中学まで毎日のように喧嘩を売りに行った。結果、一度も勝てず10連敗のボロ負け。それでも、今となっては生涯の友を得た大事な思い出になっている。しかも懐かしい幼馴染との再会までついてきたんだ。あんないい経験をが待っているというのなら、オレも喧嘩を受けて立つほかない。
 ――腕試しでオレんとこに来たってんなら応えてやんねぇとな。
 面倒くさがりながらもオレの挑戦を10回も受け入れてくれたマイキーもこんな気持ちだったんだろうか。……いや、アイツは本当にもうヤメロよって顔をしてたっけ。
 懐かしい記憶に口元を緩めていると、隣から溜息がこぼれる音がした。

「……パーちんってほんと、喧嘩バカだよな」
「アァ? オレは喧嘩以外でもちゃんとバカだぜ?」
「いや、そういう意味じゃなくてさ……。まぁ、いいや。いってらっしゃい。あんまむちゃくちゃすんなよ」

 苦笑した三ツ谷は何かを言いたげな様子を見せたが、手のひらを翳すと再びミシンを起動させ作業へと戻ったようだった。その横顔に「オゥよ」と応えると、ぺーやんとの待つ廊下へと足を向ける。

「ヨォ。待たせたな。どこでヤる?」
「グラウンドだと目立ってしまうので中庭の方ではどうでしょう?」
「あぁ。オマエが前にデケェやつを植え込みにつっこんでたとこだな」

 いつかの補修中に見かけた光景を頭に浮かべながら応じると、ぺーやんが「ハァ?」と呆れたような声を上げた。

……オマエ、そんなことまでしてんのかよ。だから喧嘩売られんだろ」
「いやいや、そんなことしなくても売られてンですよ。正当防衛ですよ、正当防衛」
「ハッ。またそれかよ」

 眉根を寄せたは唇を尖らせてぺーやんを見上げたが、ぺーやんは窓の外へと顔を背けて鼻で笑うだけだった。どうやらふたりはオレが知らないうちに口答えする程度には、そしてそれを許す程度には仲良くなったらしい。
 友だちが増えるのはいいことだよなぁ。そんなことを考えながら廊下を歩いていると、ふと、がこちらを振り返る。

「あ。今日は正々堂々の勝負ってヤツなので、そんなむちゃくちゃはしませんよ?」
「なんだよ、正当防衛は成立しなくていいのかよ?」
「ぺーやん君に通用しなかったものがあなた相手に使えるはずもないですし……」

 眉尻を下げたは肩を竦めると「それに」と言って目を細めた。

「せっかく最強の男と喧嘩が出来るなら楽しまないとでしょ!」

 期待に満ちた視線で見上げられると思わず面食らってしまう。だけど悪い気がしないのもまたたしかな心境で、その感情に突き動かされるままオレもニッとに笑いかける。
 
「それもそうだな。まぁ、オレは最強じゃないけどなー」
「えっ?! そうなんですか?!」

 吃驚したように目を丸くしたは、すぐさま非難めいた視線をぺーやんへ差し向ける。話が違うと言わんばかりの表情を受けたぺーやんは「ウチの学校じゃパーちんより強ェやつはいねぇだろ」と平然と言い放つ。

「だから土俵が違ぇっての。学校じゃなくて東卍の話!」
「あー……。まぁ、マイキーまで含めたらそうなるな」
「トーマン?」

 納得した風のぺーやんとは裏腹に、はまだ不思議そうな顔をしたままだ。

「なんだ、知らねぇのか? 東京卍會って言ってな。オレらのチームの名前なんだよ」
「へぇー。そうなんですか」

 イマイチピンときてない様子のは、どうやら不良界隈のことには疎いらしい。名前を聞いた相手が震え上がる姿に見慣れていた分、新鮮な反応を目にするとなんだか面白くなってしまう。この分だとオレらが隊長・副隊長格だと伝えても「へぇー」で終わりそうだ。

「じゃあ、オレとの喧嘩が終わったら次はマイキーんとこ連れてってやっからさ。ホンモノの最強の男ってやつと戦ってみろよ」
「マジッすか。いいんですか? 約束もなしにお伺いしても」

 たった今、約束もナシに家庭科室へ殴り込んできたのはすっかり忘れてしまったらしいの言葉に思わず苦笑する。呆れた顔をしたぺーやんがすかさず「いや、オマエが言うな」と突っ込んだのにあわせて、オレもまた文句のひとつでも言い返してやろうとを振り返る。
 だが、の表情を見た途端、その意気も簡単に削がれてしまう。
 きらきらした目。期待に紅潮した頬。心なしかさっきよりも弾む声。そのすべてが、今からはじまる喧嘩に対しが胸を躍らせているのだと知るには十分だった。

「やっぱコイツ、バカだワ」

 突き放すような言葉とは裏腹に、ぺーやんは機嫌良さそうに笑っていた。多分、その表情はオレの顔にも表れていることだろう。

「いいじゃん。オレは好きだぜ、こういうバカは」

 ニヤリとぺーやんに笑いかけたオレは、そのままを見下ろす。相変わらずキョトンとした顔つきは、どう見ても学ランを着てるよりもランドセル背負った方がよく似合っている。
 ――それでもコイツはぺーやんにぶっ飛ばされたくせに、オレに挑みにきたんだもんな。
 オレは、オレが最強ではないことを、ちゃんと知っている。だけど、強い男に挑みたい気持ちもまた、十分に知っていた。

「じゃ、とりあえず中庭行くか」
「はい!」

 軽く先を促せば、弾む声が返ってきた。小気味よい返事に口元が緩む反面、素直な反応に困ってしまう。のヤツ、これからオレにぶっ飛ばされるってのにちゃんとわかってんのかな、なんて心配してしまうほどだった。
 ――まぁ、もしかしたら、オレに勝つつもりなのかもしれないけどよ。
 負けるつもりがないのはオレも同じだが、もそのつもりというのなら、全力で迎え撃ってやんねぇとな。それこそ、マイキーがオレを相手にしてくれた時のように。

「あ。オレ、先に行ってひとがいないか見てきますね。誰かいたらそれとなく追い払っておきます」

 それだけを言い残したは「それいけ」とばかりに階段を駆け下り始める。そんなの行動に苦笑してしまったのはオレだけではなく、隣を歩くぺーやんにも現れた。
 ――だからなんでそんなに張り切って喧嘩しようとしてんだよ。ホント、バカだろコイツ。

「急ぐのもいいけどよ。階段で転んでもハンデやんねぇぞー?」
「いらないっスよ、そんなモン」

 小走りで階段をおりる背中に冷やかしの言葉を投げかければ、踊り場に差し掛かったがこちらを振り仰いだ。こどもみたいな顔をしてる癖には不敵に笑う。その自信満々な表情は、憎たらしいのにどこか好感が持てるのは、多分オレやぺーやんが強い相手に挑む時の顔つきによく似ているからなんだろう。

「じゃあゆっくり行くからちゃんと待ってろよ」
「はい!」

 元気よく頷いたは、勢いよく階段を駆け下りるとすぐさま廊下へと飛び出して行く。まっすぐに駆けていく背中はぐんぐん遠くなり、あっという間に視界から消えてしまった。

「……アイツ、本当にバカだな」
「だな」

 が駆けおりていった階段をゆったりとした歩調でおりながらふたりそろって苦笑していると、ぺーやんが「けどよォ」と言葉を零した。

「嫌いじゃネェだろ? あぁいうバカ」
「まぁな」

 ニッと歯を見せて笑ったぺーやんに、オレもまたニヤリと返す。のことを変なヤツだとかバカなヤツだと思った感は否めない。だが、それ以上に面白いヤツだなと感じている。初めてと会った時、見所があると感じた直感は、どうやら正しかったらしい。

「……今年の夏も、楽しくなりそうだなぁ」

 しみじみと呟けば、「そこまでか?」なんて呆れ混じりの苦笑が返ってくる。だが、そもそもにオレを紹介したのはほかでもないぺーやんだ。これから先、とつるむつもりがあるのなんて、お見通しってやつだ。
 夏本番を前に、こういう出会いがあるのも悪くない。胸のすくような心地を抱えたまま渡り廊下に出ると、まっすぐにの待つ中庭に向かった。
 



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