Precious01

My precious one 01


 4月も中旬に差し掛かり、中学生活にもほんの少し馴染んできた頃。桜が散ってもなお、どこか春めいた空気は残っていて否が応でもあくびを誘う。これも給食を食べて血糖値が上がりつつあるせいだろうか。それとも春眠暁を覚えずってやつのなせるワザだろうか。
 そんなことを考えながらふたつめのヨーグルトを食べ終えたオレは、眠気に誘われるままに噛み殺しきれなかったあくびを開き直って大口でこぼした。

、眠そー」
「なんだなんだ。ご飯の次はお昼寝の時間ってやつか?」

 にじむ涙を拭う間もなくすかさずからかってきた友人らを振り仰ぐ。空になった食器を片付けたばかりらしいふたりは小学校のころからの友人だった。困ったような笑顔を浮かべたふたりを見上げたオレは、軽く唇を尖らせて応じる。

「そりゃ眠いよ、春だもん」
「そんな眠そうな顔でサッカーやって大丈夫かよ? うっかり顔面にボールが当たっても知らねぇぞ?」

 からかうような言葉にわざとらしく「えぇー、鼻血でちゃうじゃん」と非難の声を上げれば、ふたりの笑い声が重なった。
 昼休みになると決まってオレたちは外に出てサッカーに興じる。今日も今日とて心地良い気温に誘われるまま、食器やゴミを片付けたオレはふたりと連れだって教室を出た。
 開け放たれた廊下の窓からやわらかい風が入ってくる。入学式に合わせて短く切った髪をそよそよと撫でるのを目を細めて受け入れた。春爛漫というべき気候に、オレも友人らも軽く表情を緩める。そんな瞬間だった。

「おい。テメェ、ちょっと体育館裏来いよ」

 和やかな空気を引っぺがすような声と剣呑な空気に驚いて足を止める。隠しもしない怒りと共に声をかけてきた相手を振り返れば、同じクラスの男子が不機嫌を絵に描いたような顔でオレを見下ろしていた。

「え、……?」

 思わぬ相手の登場に、オレは目を丸くする。。教室ではオレの真後ろの席に座る男とは、たまたま出席番号が前後だっただけで、それ以外にパッと思いつくような接点はなかった。
 唯一ある接触は、入学式直前に軽い自己紹介と共に「よろしくな」と手を差し出したことくらいか。だが、その至って普通な初対面の挨拶さえも、不良然とした佇まいに相応しい顔つきで「気安く話かけてんじゃねぇぞコラ」と凄まれたので、仲良くなれなさそうと見切りをつけたオレはその後は無関心を貫いた。
 授業の合間にしゃべったこともなければ、当然、部活や委員会で世話になったこともない。お望み通り一切関わっていないにも関わらず、一体にとってオレの何が癪に障ったのか。
 が答えられなかった問題をあっさり解いたのがいけなかったのか。プリントを後ろに回す際にうっかり顔に紙の束をぶつけてしまったのがいけなかったのか。それともさっきの給食の時間、欠席したクラスメイトの分だったヨーグルトをオレが勝ち取ってしまった恨みなのか。
 些細な不始末に対する身に覚えってやつを思い返しながらぱちぱちと目を瞬かせる。どれもこれも、オレにとっては取るに足らないきっかけだ。でももしかしたらにとっては違うのかもしれない。
 だが待って欲しい。オレだって席を立った際にワザとの指を椅子で挟んだわけでも無ければ、狙って黒板消しを取り落としての上靴を汚したわけじゃない。それに「やべ、やらかした」と思った際は、その都度ちゃんと軽い謝罪を示したはずだ。
 だから悪くないなどと開き直るつもりはないが、いちいち目くじらを立ててお呼び出しするほどの理由とは到底思えなかった。

「え、なに。何の用事?」
「何の用でもいいだろ。いいからとっとと来いよ」

 微かな動揺と共に問い質してみたが、答えになってない答えが返ってくるだけで話は平行線のままだ。から滲む怒りを見上げたまま、ほんの少しだけ口元をへの字に曲げる。賑々しい廊下とはまったく趣の違う剣呑とした空気は、の中で静かに振り積もったらしい怒りを如実に表していた。
 またひとつ、瞬きを挟んだ。を見上げていた視線を隣に転じれば、オレ以上に一緒にいた友人らの方がビビってしまったらしく、ひどく顔つきを強ばらせているのが横目に入った。今はまだ、の意識はオレに差し向けられたままだ。だが、何らかのきっかけでその苛立ちがふたりに飛び火しないとは限らない。
 仕方ない。の嫌悪がこいつらに向かないようにここはひとつ、ちょっとした冗談でも挟んでやるか。

「オッケー、了解。でもわざわざ人気のないところを選ぶなんて、愛の告白でもするつもり?」
「アァ?! テメェ、ふざけてんのかよッ!」

 両頬に手のひらを添えておどけてみせればおちょくっているのかとその場で襟首を掴まれた。びっくりして反射的にの手を振り払うべく手首に掌底をぶつけてやれば簡単に弾け飛ぶ。
 振り払ったオレもだが、もまさかすぐさま引き剥がされるとは思っていなかったらしい。互いに目を丸くして見つめ合う。だが一瞬の静寂はそんなに長くは続かない。

「びっくりしたァ……」

 思わず言葉を漏らすと同時に、安堵の笑みを浮かべた。
 ――危なかった。柔道をやっている相手ならば通用しなかった。
 抵抗が通ったことに思わず肩の力を抜いた。だがそれは誤りであったとすぐに気付かされる。
 余裕そうにも見えるオレの態度や笑みを蔑みか嘲笑とでも受け取ったらしいは眦を吊り上げ、今度は両手で胸倉を掴みあげてきた。

「テメェ、ナマイキなんだよ!」
ッ!」

 怒りのボルテージが頂点に達したらしいの罵声と友人らの悲鳴がその場に響く。周囲の喧噪も耳に入ったが、首への圧迫感が阻害して振り返ることは出来なかった。
 それでも軽く身じろぎしたのがにも伝わったのだろう。きつく締めあげられていた胸倉にさらに力が加わった。
 まだ小学校からあがったばかりというこの時期。成長期を迎えていないオレは人一倍体が小さく痩せてる。そのため頭ひとつ分は背の高いに本格的に掴みかかられれば簡単に踵が浮いてしまった。
 凄んできたはもうぶち切れ寸前と言った様子で、すでに左腕を振りかぶっている。だが、まだその拳を振り下ろす度胸は無いらしく顔の横で掲げたままこちらに睨みを利かせている。
 ここでおとなしく謝るなり泣くなりすれば、もしかしたらは溜飲を下げるかもしれない。でもヤられっぱなしでよしとするほど慎ましい性格はしていない。「なんでオレがこんな目に?」と疑問に思うと同時に「同い年でナマイキもクソもないだろ」とわずかながら闘争心に火がつきそうになる。
 だが、そんなことを口にしてしまえばただでさえ怒り心頭のの逆鱗に触れるのは必至だ。ここは人の目もあることだしおとなしくしているのが得策だろう。オレの学ランの背中あたりを掴む友人らが「ヤバいって!」と口々に止めにかかってきているのも自分の行動に歯止めをかけるのに一役買った。
 ちっとやそっとでは収まりそうもない腹の虫をなだめながら軽く息を吐き出した。
 荒れたやつはどこにだっている。渋谷ともなればなおさらだ。まさか自分が絡まれるとは、なんて意外性はあるが、ここは血気盛んな中学生の巣窟。「これが噂の因縁ってやつね」と割り切って対処するべきだろう。
 正面に立つの顔を改めて見上げ、さっさと解放するよう頼もうとした。だが、オレの行動を制するようには低い声で言葉を重ねる。
 
「オイ、ナニさっきからヘラヘラしてんだよ。オレのことバカにしてんのか?」
「……え?」
「っつーかなんでキョトンとしてんだよ。もっとマシな反応しろや。脳ミソちゃんと入ってんのかよ」

 じっと黙ったまま目を丸くするだけのオレに業を煮やしたのか、は胸倉を掴んだ手を更に上へ持ち上げる。これにより完璧に廊下の床から足が離れた。
 宙ぶらりんになるとさすがに息が詰まってしまい、反射的に顔を顰めると、案の定「ナニ睨んでんだテメェ」と追い打ちをかけられる。こういう手合いは反応のひとつひとつを悪いように捉え、言い返すなり拳を振るうなりやりたいように返してくるものと相場が決まっている。
 ――そうとわかっていても、ムカつくもんはムカつくんだよ。
 理不尽な物言いと乱暴な振る舞いに飼い慣らしきれなかった腹の虫が再び暴れはじめた。噴火寸前なの顔を強い視線でもって睨み付ける。初めて見せた反抗の意思に、の瞳には僅かながらも動揺の色が映った。だが、気付いたところでそれこそ今更ってやつだ。ここまで舐められっぱなしで引くわけにはいかない。

「オマエ、さっきから言ってること全部理不尽なんだよ」

 どうやらはオレが気に入らないらしい。嫌悪の意図は理解したが、やっぱりこんな絡まれ方をされる意味がわからない。

「っつーかいい加減に離せよ」

 オレの胸ぐらを掴むの手を引き剥がそうと指を立てた。だが、体格差があるせいか力を込めてもびくともしない。抵抗が通らないことに眉を顰めたオレを見下ろしたは一瞬、ぎゅっと眉根を寄せる。だがすぐに強く歯を食いしばるような表情を見せたかと思うと次の瞬間には拳が飛んできた。
 振りかぶられた左手は最短コースでオレの右頬を貫く。さすがにこの距離では避けようが無く、殴られた瞬間に喉元を解放されるままに廊下の壁に強かに背中をぶつけた。

「痛てッ!」
ッ?!」

 不意打ちにうっかりバランスを崩したオレはその場に尻もちをついてしまった。呆気なく吹っ飛ばされたオレに慌てた友人らの叫びに遅れて、廊下を歩いていた女子の悲鳴が響く。
 突発的に始まった喧嘩に入学したての同級生たちは蜘蛛の子を散らすように廊下から撤退する。残ったのはオレと、そして同小の友人ふたりだけだった。
 遠くなる足音をどこか他人事のように感じながら、初めて受けた衝撃に思わず目を瞬かせる。ぬるりとした感触に舌を這わせると、どうやら口の端が切れてしまったらしく、口内に鉄の味が広がった。

「だ、大丈夫かよ
「早く謝った方がいいって!」

 オレの隣に膝をついたふたりが小声でこちらに進言してくる。だが謝れと言われても悪いことをした自覚がない以上、そんな気持ちには到底なれない。
 滲む血を手の甲で拭い、を見上げる。拳を握ったままオレを見下ろす瞳には憎悪の奥に戸惑いが潜んでいた。相手が何に怯んでいるのか。正確に見当をつけるのは難しいが、もしかしたら向こうも本気で殴るつもりはなかったのかもしれない。
 だけど、それを見抜いたところで残念ながら突然の殴打を水に流せるほど大人しくはない。

「言っておくけどこれは正当防衛だからなッ!」
「はぁッ?!」

 叫び声と共に目の前に立つの足を払う。側面からの攻撃には無警戒だったらしいは足下を掬えば簡単に頭からスッ転んだ。だが相手を同じ目に遭わせたところで溜飲が下がるはずも無く、尻餅をついたに馬乗りになったオレは相手の顔面目掛けて拳を振り下ろした。

「ッ痛ェな、オイ!」
「痛くしてんだよ! ってかオレだって手が痛いよ!」
「……ちょ、待って、! やめろって!!」

 慌てて止めに入った友人らに左右から上半身を抱えられるままにの上から引き剥がされる。だが一度はじまった喧嘩がそう簡単に収まるはずもなく、一瞬呆けたような顔をしたが再びこちらへ手を伸ばしてくる。また掴みかかられては溜まらない。そう思ったオレはふたりの腕を掻い潜ると、殴りかかろうと飛び起きたの腹に蹴りを放つ。

「ぐっ……。テメェ、マジで調子乗んなよッ……!」
「乗ってねぇっての! 正当防衛だっつってんだろ!」
「だからマジでヤメロって、バカ!」

 腹を押さえて咳き込むに二発目の蹴りを入れようとしたが、再び身体を取り押さえられる。背後から羽交い締めにされたうえに、蹴らないようにと足を押さえ込まれては身動きの取りようがない。

「離せって! オマエらも巻き込まれちまうぞ!」
「こっちは気にしなくていいから! 喧嘩しちゃダメだって!」
「そうだって! っつーか今のうちに逃げよう! 先生呼ばれたらどうすんだよ!」

 手足を動かして抵抗を試みたものの、さすがに友人らを振りほどくほどの力を振るうわけにもいかず、ずるずると引きずられるままにから離される。視線を伸ばせばもどこからかやって来たらしい男子に取り押さえられていて、オレ以上に喚き散らしている姿が見て取れた。

「離せよッ! オレはに一発食らわしてやんねぇと気がすまねぇんだよ!」

 最初にオレに殴りかかったのが自分であることをすっかり忘れたらしいは、性懲りも無く上靴をこちらに蹴飛ばして攻撃の意図を示す。一瞬、頭に血が上りかけた。だが廊下の先に学校で一番怖いと名を馳せた体育教師の姿が見えたことで、ふと我に返る。
 教師の目が叫ぶに注がれているうちに、と友人らを連れ立ってその場を慌ただしく後にした。



 中学に入って初めての喧嘩は、誰かに呼ばれたらしい教師に咎められる前に逃げるうちにうやむやになった。その後も、とは顔を突き合わせれば因縁をつけられた。教室でも東卍の集会でもお構いなしのだったが、取っ組み合いの喧嘩をしたのはこれが最初で最後だった。

 クラスで馬が合わないヤツと揉めた。そのくらいのヤンチャなら一生のうちに一回や二回はあるはずだ。
 初めての喧嘩はあくまでイレギュラー。その日、偶発的に身に降りかかった災難であり、二回目の喧嘩なんて起こるはずがない。
 そんな都合のいい話があるはずもないのに、当時のオレはそう信じて疑わなかった。



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