precious02

My precious one 02


 を退けて以降、渋谷第二中の一年男子の間で瞬く間に広がった噂には、オレの周囲の環境をガラリと変えるだけの効力があった。
 1組のってチビが同じクラスの男子を返り討ちにした。
 事実はこの一点のみだ。だが、もとより物騒な話題にどんな尾ヒレや背ビレがついたのか。噂を聞きつけた他のクラスの連中は、オレが想像以上にチビで細くて弱そうだと判断するや否や、その場で「ちょっと出てこい」と呼びつけた。
 どうやら不良たちの世界では、自分より弱そうな相手の名前が通っているのは到底受け入れられないものらしい。そう理解した時には、すでにもういくつもの喧嘩を売られ、そのすべてに勝利してしまっており、結果として引くに引けない状況にまで陥ってしまっていた。
 あの日、たった一度、に吹っかけられた喧嘩は、今では次の喧嘩を呼び寄せる撒き餌のような存在と化していた。偶発的に起こった災難も、立て続けに重なればありふれた日常へと変わっていく。

 ――今もそうだ。

「オイ、ってのどいつだ?」
「あ、えっと……あそこに座ってるやつがそうだけど……」
「どいつだよ。――ハ? アレが?」

 給食の時間がそろそろ終わろうかとした頃合い。早く食い終えて今日もサッカー三昧だと意気込んでいると、教室の出入口付近で自分の名前があがったのが耳に入る。皿に残ったカレーをかき集め、口に押し込むと同時に反射的に顔を上げた。
 最後の一口を載せたスプーンを頬張るオレに視線を向けていたのは、廊下で何度かすれ違ったことのあるほかクラスの男子だった。格闘系のスポーツに打ち込めば結構いい成績を残すのではと思えるほど恵まれた体格の男はオレと目が合うと意外そうに目を丸くし、次の瞬間には顔を顰めた。厳つい表情の変化に、彼の用事がここ最近、オレに降りかかる災難を運んできたのだと知る。

「オイ、! テメェちょっとツラ貸せや」
「えぇ……まだ食い終わったばかりじゃん……」

 担任がいるのにお構い無しで叫ぶ男子はオレが顔中に嫌だと書き散らしたような表情を浮かべたところで知るかとばかりに教室に足を踏み入れる。

「つべこべ言ってネェでいいから来いや」

 オレの席まで辿り着いた相手は有無を言わせぬ態度でこちらに手を伸ばした。まだスプーンを持ったままの腕を取られ強制的に立たされる。踏ん張ったところで意味はなく、体格差があだとなり簡単に教室の外まで引きずり出された。
 そこで止まるかと思われた足は廊下の端へと向かって進んでいく。 自分なりの目的地へと向かっているらしい相手を睨みつけたがこちらを振り返る様子がないのが見て取れるだけだった。
 ――誰か食器を片付けてくれると助かるんだけどなぁ。
 たたらを踏みながら連行される間も机の上に放り出したままの食器に思いを馳せる。流石に放ったらかしには出来ないだろうし、一連の流れを見ていたはずの教師が近くの席の子に頼むんだろうな、と予測を立てた。
 出来れば喧嘩そのものを止めて欲しかったけれど、急だったし新任教師には無理だよなと諦めに似た感情を思い浮かべる。
 ――あとはこのスプーンを片付けるだけだな。
 後日、何食わぬ顔で返却してもいいんだろうけどそれまで持ってるのもどことなく気に食わない。好きで持ってきたわけじゃないんだけどなぁ。ほんの少し唇を尖らせながら、このスプーンを持ち出す羽目になった元凶を見上げる。相手がこちらに意識を向けていないのを確認したオレは、こっそり彼の学ランのポケットにスプーンを突っ込んだ。
 ――よし、これでオレの憂いはなくなった。
 気が晴れるままににんまりと口元を緩めたオレは、改めて相手を見上げて声をかける。

「ねぇ、どこまで行くの?」
「アァ? どこでもいいだろ。黙ってついてこい」
「ハイハイ。……っつーかさぁ。いいのかよ、こんな真っ昼間から喧嘩して」

 喧嘩と断言するのは早計かもしれない。だが初っ端からこんなにも杜撰な対応を取ってくる相手がまともな用事を抱えているはずもないだろう。

「あ? 喧嘩にいい時間もクソもねぇだろ」
「いやいや、あるよ。ありますよ」

 いい加減腕を引きずられたまま歩くのも疲れてきた。そんな思いと共に腕を振り払えば意外とあっさりと解放される。軽く周囲を見渡せば廊下の端に辿り着いていた。どうやら相手もまたこの辺りでいいかと考えていたらしい。
 正面に立つ相手は空いたばかりの手を重ね、指の関節を鳴らし始めた。威嚇行動を見せつけられると同時に目を細める。喧嘩上等と言わんばかりの態度を見せられるのにも随分と慣れてきた。こういう手合いには、同じ温度で押収してやるのが一番手っ取り早い。いくつかの喧嘩でそう学び始めていたオレは、喧嘩に意気込みを見せる相手を更に挑発すべく言葉を紡いだ。

「メシ食ったばかりでさ。喧嘩なんてしちゃうとどうなるかわかんないかなぁ……」
「は? オマエがどうなろうとこっちは知ったこっちゃねぇんだよ」

 どうやら彼の頭の中には自分がオレに殴り倒されることは考慮に入ってないらしい。前提がそもそも違うのだと思い知らされると同時に辟易とした視線を差し向ける。こちらを睨めつけたまま心底不思議そうな顔をして首を捻った相手に、オレは大仰に溜息を吐きこぼして見せた。

「いい? 喧嘩するってことはそれなりのダメージを負う覚悟がないとダメじゃん? ――オマエだって吐きたくはないだろ? 食ったばかりのカレーライス」
「ンだと、コラァ!!」

 暗に腹を蹴飛ばしてやると吐き捨てれば相手は顔を真っ赤にしてこちらに飛びかかってきた。真正面から飛んできた拳を左腕で受け止めながら体勢を整える。
 さてこれからどんな攻撃に転じようか。腹を蹴飛ばしてしまえば相手は冗談抜きで嘔吐する可能性が高いだろう。食べたばかりのものが靴やズボンにかかってしまうのはオレも極力避けたいところだが――。
攻めの一手を封じるべきかどうか逡巡する。だが、がら空きの胴体を見るとどうもそこを狙わなければ失礼なのではと思えてくる。
 ――オレはちゃんと忠告したからな。
 本来なら脛でも蹴って体勢を崩させたところに首の裏にでも肘を落としてやりたいところだが、蹴られないように気をつけろと言ったところで相手に防御する気がないなら仕方がない。カレーがかかる前に足を引けばいいかと考えを改めたオレは、二発目の拳が届く前に右足を前に突き出してやった。


 ***


 ロクでもない用事を理由に、来る日も来る日も不良たちはやってくる。呼び出されては撃退する毎日を過ごしていると、1ヶ月は驚くほど早く過ぎた。
 
 程なくして訪れたゴールデンウィークの間はさすがに襲撃は受けなかったが、少し間が空いたところで興味をほかに移してくれるような生易しい連中ではない。むしろ間が空いたからこそ憎しみが満ちたのだろう。連休明けに学校へ行けば、やっと会えたとばかりの歓待を受けた。
 移動教室へ向かう途中にある階段の踊り場。図書館へ続く渡り廊下のど真ん中。帰り道にある公園で待ち伏せされたこともあったっけ。
 犬も歩けば棒に当たるとはよく言ったもので、外を歩けば至る所で喧嘩を売られるような状況が続いている。以前と変わらず――否、以前よりも悪い方向にパワーアップしたヤツらのお呼び出しにオレは頭を抱えるほかなかった。
 連休前よりも強いやつがやってくるのも嫌だったけれど、一番困ったのは頻度が増えたことだった。一日あたりひとりあるかないかくらいの呼び出しは、連休明けからは日に二回、もしくはふたり同時に喧嘩を売られるようになった。
 体格差があれば体力の基本値も変わってくる。幸い、運動神経は良かったので大怪我をすることは無かったが、それでも生傷が絶えない日常はかなり堪える日々だった。

 ある日、あまりにも喧嘩を売られすぎて業を煮やしたオレは、殴り倒して気を失った相手を叩き起こしたうえで問い詰めた。
 その男曰く、ヤツらの間には「を退けた」以外にも新しい噂が流れはじめたらしい。首を締め上げたまま内容を聞き出せば、相変わらず馬鹿げた話を口にされ、オレは思わず再び相手を気絶させてしまった。
 オレに負けた連中は「こんなチビに負けるなんて喧嘩が弱いに決まっている」と蔑まれるようになるだとか。そもそも「喧嘩を売ってない時点で臆病者だ」とか。オレをヤツらのつまらない〝格〟の指針として扱いはじめたなんて事実を前に目の前が暗くなるようだった。
 オレにはそっちの世界での上昇志向は皆無なので、今年の1年の喧嘩強いやつランキングとやらからは除名してほしいところだが、そうは問屋が卸さない。
 取るに足らないマウント意識を剥き出しにしては同じクラスの不良の他にも隣のクラスや名も知らぬ相手が連日オレを名指しで呼び出した。まさかの三人同時に喧嘩を売られた時は絶望にも似た感情が芽生えたものだ。何とか退けたものの、これ以上増えると一度に相手はできないと悟ったオレは、人数が多い時は逃げるように心掛けたのはいうまでもない。
 根性がないなどと罵られたところで傷つく名誉なんてないんだから当然の判断だ。それでも性懲りも無く徒党を組んでくる相手は減らない。
 連日でふたり以上に殴りかかられ、堪忍袋の緒が切れたオレは、打開策を打ち立てるために新しい噂を流させることにした。
 とある喧嘩の後、ひとりで挑んできた相手に「最近はひとりで来るヤツがいないからオマエは骨のあるやつだ」と褒めそやし、ふたり以上で挑んできた相手には「何組の誰々はひとりで挑んできたのにオマエらは卑怯だ」と非難した。結果は上々で、いつしか「複数人でに喧嘩を仕掛けるやつは勇気がない」と新しい噂で上書きされ、最近では再びソロで挑まれることが多くなった。
 プライドの高い連中だが、所詮はオレと同じく小学校から上がったばかりのこどもだ。単純で助かると息を吐いたのは言うまでもない。
 喧嘩を売られれば勝つまでやるしかないし、ちょっとはこっちに有利にならないとやってらんないっつーの。

「……っつーわけで、アンタも正々堂々挑んでくれて助かったよ」

 こめかみに回し蹴りを放ったことで脳震盪を起こしているらしい喧嘩相手のかたわらにしゃがみ込み、ツンツンと指先で背中を突いた。痙攣する背中を眺めながら反対の手で頬杖をつき、画策の結果、ほんの少しだけ軽くなった境遇に安堵の息を吐き出す。
 中学に入るまでのオレは「ちっちゃくてかわいい」と褒められるだけの人生だった。お子様扱いしてくるのはもっぱら姉の友人たちだが、クラスメイトたちもとりわけ背の低いオレに対しわざわざ意地悪をするようなことはなかった。
 小学生の時に受けた待遇とは60度くらい変わった生活に、またひとつ溜息がこぼれた。
 ――大体オレに挑んで何になるんだよ。
 よっぽどが強かったと言うならこの事態も致し方ないのかもしれないが、別にそんな噂が耳に入ったことはない。それどころかオレ以外の相手と喧嘩した噂すら耳にしなかった。まぁ、オレに喧嘩を売ったときも様子がおかしかったし、多分アイツも中学デビューってやつだったんだろうな。
 勝手な予測を立てながら教室でのの様子を思い描く。相変わらず周囲を威嚇してはばからないだったが誰かと喧嘩をしたなんて話は耳にしていない。もしかしたらオレとの噂と同様に〝クラスメイトA〟的な扱いで話題になっているのかもしれないが、それはそれで「知ったこっちゃない」ってやつだ。
 ――面子が理由と言うのならどうぞ自分たちの世界で守ってくださいよ、ってんだ。
 意識を取り戻さない相手に見切りをつけ、その場に立ち上がったオレは出来たばかりの傷を手のひらで隠しながら保健室へ足を運んだ。



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