Precious05

My precious one 05


 例の先輩により、伸ばし続けていた無敗記録に初めて黒星がついた。負けたやつには興味はない。そう考えた不良たちはその日を境にオレに喧嘩を売るのを止め、入学当初のような平和が戻ってきた。めでたしめでたし。
 ――なんて、ハッピーエンドがやってくるはずもなく、オレの日常は相変わらず暴力にまみれていた。さすがに一回の喧嘩でオレの人生が劇的に変わるほど都合よく出来ていないらしい。昼休みになれば適当な場所に呼び出されて喧嘩を売られるし、隙あらばカツアゲに遭いそうになる日々が否応なしに続いていた。
 変わらないこの世界に辟易したところで現状が変わっちゃくれない。不良どもがオレを痛めつけようとするのであれば、こっちだって黙ってやられるわけにはいかなかった。
 だが、抵抗を重ねれば重ねるほど不本意ながらも名前は流れ、不良たちはムキになって喧嘩を仕掛けてくる。梅雨に入ったことで、奴らの装備品に傘が増えたのも惨状に拍車をかける一因だった。傘で叩かれると拳で殴られた時と種類の違う痛みが走るし、雨の降る中で急襲されると制服も汚れてしまうから踏んだり蹴ったりだ。
 重なる不運に嘆きながらもやつらの戦力アップに対し手をこまねくばかりではなかった。
 相手を舐めてかかって大敗を喫した経験を生かすべく、相手に一発殴らせて正当防衛を唱える戦法を封印し、先手必勝の戦法に切り替えた。この切り替えが功を奏し、比較的怪我をする頻度は下がるようになった。
 これは負けた甲斐があったとも言える変化だった。とは言え、あの先輩に「おかげさまで更に有利になりました」などと伝えるつもりもないのだが。

 ――そう言えば、結局、あの人の後輩ってのは誰だったんだろう。

 たった今、階段の踊り場で突然掴みかかってきた相手のこめかみに回し蹴りを放ったオレは、こいつが先月末にも喧嘩を売ってきた相手だったと思い出す。もしかしたらこの男があの人の後輩だったのかもしれなかったが、問い質そうにも相手が白目を剥いているようでは答えが返ってくる気がしない。
 小さく溜息を吐き、脱げかかった上靴の踵に指をねじ込む。踵の位置を整えながら、ぼんやりと例の先輩の姿を脳裏に浮かべた。
 あの敗北以来、喧嘩の再戦を望んできた相手には気絶させるよりも前に「先輩を差し向けたのはオマエか」と尋ねるようにしている。だが、残念ながら今まで倒してきた中に心当たりがあると宣言する者はいなかった。
 ――まぁ、いたとしても正直に名乗り出てこないかもしれないしな。
 人を疑うのはあまり褒められた行為ではないが、相手がオレに喧嘩を売るようなヤツなので仕方が無い。そもそもこいつらもオレの質問に対し、答えるメリットはないだろう。
 知りようがないものを追いかけたところで意味が無い。そんなことはじめからわかっているのに、どこか釈然としない感情が胸の奥に残っていて、どうしても気にしてしまう。本当にあの人の後輩はオレに再戦を仕掛けてきていないのか、それとも紛れ込んできていたにも関わらず嘘を吐いたのか。
 そのどちらであっても、どことなくその理由はある程度頭の中に浮かんでいる。嘘を吐いたパターンであれば、先輩を差し向けたことを暴かれたくなかっただとか、そもそも「教えてやらねぇよバァカ」と内心で嘲笑っていたとか。再戦に来ていないのであれば、オレが先輩に負けたことで溜飲を下げオレとの先頭から手を引いたのかもしれないだとか。いくつか思い描かれるパターンを頭の中に並べ立てながら、上げていた爪先を下ろす。
 脳の揺れが回復していないのか、蹲ったまま背中を震わせる相手に一瞥を差し向け、そのまま階段を降り始めた。先輩の後輩。気になる存在ではあるが、現時点でわからない相手を気にしたところで不毛ってヤツだ。
 今まで喧嘩を売ってきたやつすべてに確認しに行くつもりがない以上、思い出したときに確認する、くらいのスタンスでやっていこうと気持ちを新たにした。

 ***

「あ、オイ。

 それは梅雨の最中には珍しく二日連続で晴れ間を見せた日の昼休みのことだった。
 何日かぶりの晴天にもうすぐ夏が来る気配をうっすらと感じられる陽気の中。もう少ししたら夏休みに入るわくわくめいた気持ちを抱えたオレたちは、たまには図書室で本でも借りてみるかと廊下を歩いていた。背後から聞き覚えのある濁声が投げかけられ、反射的に振り返れば、例の上級生が片手で頭の裏を掻きながら立っていた。
 再びオレの元へやってきた先輩を目にした途端、つい最近、治ったばかりの頬がまた痛んだような気がした。

「ちょうどよかったワ。オマエを呼びに行こうとしてたんだよ。――ちょっと来い」

 相変わらず声をかけたらついてくるものと思っているらしい先輩は、オレの返事を待たずに上靴を廊下に叩きつけながら歩いて行く。両手をズボンのポケットにねじ込み歩く背中はやはりチンピラそのものだ。周りを威嚇してはばからない姿に、またあの人の後輩を殴ってしまったのかと一瞬肝を冷やした。だが、前回は差し向けられていた険のある態度がまったく感じられないことに気付くとその懸念は薄れていく。
 それでも些細な変化を感じつつも、先日との違いに戸惑いは隠せない。目を丸くしたまま去って行く背中を見送っていると、先輩は首だけでこちらを振り返る。

「オイ、。来いっつってんだろ」

 乱暴な口調だが、脅しつけるような声でもない。それでもなぜか「呼ばれたからには行かなくちゃ」と心が傾くままに足はふらりと動いていた。
 だがオレが2歩目を踏み出すよりも先に一緒にいた友人らに左右同時に腕を引かれて止められる。

ッ! 今日こそついてくのヤメロよ!」
「うーん……。でもなんか今日はそんなに怒ってないっぽいし、普通に話があるだけみたいなんだよね」
「そんなこと言って……またぶっ飛ばされても知らねぇぞ!」
「今日こそは大丈夫だって。――多分」

 悲痛な顔をしてオレの両腕を左右から抑えていたふたりに断りを入れ、先を歩く先輩の背中を追った。廊下の角で待っていたその人はオレがついてきたのを目に入れるとまたどこかに向かって歩き始める。
 相変わらず隙だらけの背中を見上げていると、目に目映いほどの白シャツが視界に入る。どうやら学ランから夏服に替わるとさすがにあの派手な柄シャツは封印されるらしい。
 ――意外と保守的なのかもしれない。
 チラリと盗み見しながらそんなことを考える。もっとも、例の金ピカのネックレスは今日も首元に輝いていたのだが。

「オゥ、着いたぞ」

 階段の踊り場に辿り着くと同時に再び声をかけられた。場所を明け渡すように横に移動した先輩の隣に足を踏み入れれば、その奥に三人の人物が立っていることに気がつく。呼び出された場所にいたのは、ゴールデンウィーク明けにオレに因縁をつけてきた同級生三人だった。
 ――騙された、のか?
 一瞬、数人で囲んでボコボコにされる展開を頭に思い描いた。だがオレが身構えるよりも先に、周りを押さえつけるような濁声がその場に響いた。

「オイ、オメェらもちゃんとコイツに謝れ!」
「ごめん……なさい」
「サーセンッした……」
「……ッス」

 先輩に言われるがままに三人が口々に謝罪とは呼べない言葉を紡ぐ。三者三様に気まずそうな顔つきを浮かべた同級生たちは、こちらに目を合わせようとはしないもののぺこっと頭を下げてくる。
 拙いながらも紛うことなき謝罪を目にしたオレは驚きのあまりぽかんと口を開いてしまった。眼球の動きだけで三人と先輩の姿を見比べていると、更に衝撃の光景が目の前に差し出される。
 同級生たちの謝罪を見届けた先輩もまたこちらに向かって頭を下げていた。
 
「悪かった。話を聞いてないのはオレの方だった」
「……へ?」

 驚きのあまり声が裏返った。こちらに頭を下げたままの先輩は、低い声で言葉を続ける。

「パーちん――オレのダチに言われたんだよ。コイツら、オマエのこと気に入らねぇって三人がかりで殴りかかったらしいじゃねぇか」

 頭を上げたその人は、バツの悪そうな顔をしてこちらから視線を外した。気まずそうに唇を尖らせた先輩は謝罪のために後ろ手に組んでいた両手をポケットに突っ込んだ矢先に片手を自分の後頭部にやってガシガシと短い髪をなでつけている。
 落ち着かない様子を見せられると、なんだかこっちまでソワソワしてしまう。居心地の悪さを飼い慣らせないままでいると先輩の視線がこちらに落ちてきた。

「そりゃ、おとなしく殴られてるわけにはいかねぇよな……。オマエは全然悪くねぇのに、オレまであんな目に遭わせちまった」

 ただでさえチンピラ風の先輩が、きゅっと眉根を寄せると人相が一層悪くなる。だが特徴的な下がり眉が強調されると、まるでお気に入りのおやつが入った皿をぶちまけてしまったこどものようにも見えた。
 わざとではないにしろ自らの過ちを悔いる姿にぱちぱちと目を瞬かせる。いまだ混乱の最中にいるオレに一瞥を向けた先輩は軽く唇を尖らせると「だから、ゴメン」と再び手を後ろで組みこちらに向かって頭を下げた。
 にわかには状況を飲み込めなかったが、重ねられた謝罪の言葉と態度にようやく理解が追いついてくる。同時に胸の内に熱が広がっていくのを感じ、思わず目を見開いた。
 数度目を瞬かせたまま、下げられた頭を見下ろした。自分の仲間が傷つけられたと知れば黙っていられないらしい性格。誤解もあって殴られたけれど、自分が間違っていると気付いたら謝ることができる姿勢。素直に人を信じるところに危うさを感じつつも、この人の生き様が何故かひどく胸に突き刺さる。
 実直なひとだと思う。オレにやられたと吹聴した三人に、悪意でもって嘘をつかれたのか、早合点して騙される羽目になったのかは知らない。
 だが、結果として事実が歪められていたと知ってなお、三人を恨むでもなく一緒にオレに謝りに来ることを選んだこの人の価値は、騙されやすさを加味しても、決して下がらないとさえ思えた。
 先輩に対して抱いていた警戒心がみるみる解けていくのを感じる。それどころか、俄然、興味が湧いた。他人に対し、こんなにも心を揺さぶられたのは初めての経験だった。
 どこか世界がきらきらしているようにさえ思えて思わず瞬きを繰り返していると、頭を上げた先輩は萎縮しっぱなしの三人を振り返った。

「オラ、ちゃんと謝ったんならテメェらは今日は帰れ。次からは気に入らねぇやついたらサシでぶん殴りにいけよ」
「それもちょっと困ります……」

 喧嘩は売られない方がいい。そんなオレの些細な抵抗など届くはずもなく、三人は「ウッス」と先輩に頭を下げるとそそくさとその場から退散してしまった。

「ったくよー……。ってゆーかお前もちゃんと弁解しろよ。殴っちまったじゃネェか」

 溜息交じりに三人を見送った先輩の忠告がこちらにも飛び火する。殴られる前に一応の弁明はしたつもりだったが、相手に響かなかったのであれば意味は無い。オレだって「話の通じないチンピラに違いない」と端から先輩を侮っていた面もあるし、おあいこってやつだ。
 だが、もしもあの時、オレがやられている側だと必死に訴えかけていればこの人なら信じてくれたかもしれない。今、目にした光景を思えば、その予想は正しいんじゃないかと思えた。

「大丈夫ですよ。たしかにメチャクチャ痛かったですけど歯が折れたわけでもねぇですし、あなたに殴られてからはちゃんと先手必勝の戦闘スタイルに切り替えましたしね。ある意味ラッキーでしたよ、あなたに殴られて」

 つい先日までは伝えるつもりがなかった感謝の念がぽろりとこぼれる。僅かながらも先輩の為人を知ったことで素直に「おかげさまで」と思えたからだ。だがオレの感謝とは裏腹に、オレの言葉を耳にした先輩は「ハァ?」と大仰に顔を歪めた。

「……オマエ、やっぱあのときワザとオレに殴らせただろ」
「え? えぇ。だって、先に殴らせたら正当防衛だって言えるじゃないですか」
「オマエ……。ハァー、マジでいい性格してんなぁ……」

 呆れたように顔を顰めた先輩は額を手のひらで抑えると大仰に溜息を吐きこぼした。
 
 うなだれた姿を眺めていると、ふと顔を上げた先輩の視線が落ちてくる。口元を緩めたオレが一心に見上げているのを不思議そうに見返した先輩は、オレの視線が離れないのを知ると微かに眉根を寄せた。

「ンだよ。ニヤニヤしやがって」
「生まれもった顔を悪く言うのはよくないですよ」

 藪から棒に飛んで来た罵倒に苦笑して応えると「アァ?!」とガラの悪い反論が投げつけられる。ビビるほどのものではないが、まともとも言えない受け答えすら今はどこか楽しかった。

「まぁ、冗談はさておき。――あなただけですよ。オレのことをあんなにキレイに吹っ飛ばしてくれたのは」

 喧嘩を売られた数はとうに指を折るのも億劫なほどに膨らんでいた。数々の経験の中で地面に放り投げられた数は両手でも足りないほどにある。だけど身体はともかく、心まで吹っ飛ばしたのは、あなたの一撃だけだった。
 〝井の中の蛙、大海を知らず〟なんて言葉はあるけれど、あの日、オレは目に映る空の高さを知った。殴られることで広がった世界。それは「世界にはオレより強いヤツがいる」なんて短絡的なものではない。
 浅慮も傲慢も打ち砕かれた。「恥を知る」という言葉の意味を辞書で引いて知った気になっていたものを、身をもって知らされた。そのうえで今日、自らの過ちを認めて謝りに来られたことで誠実さまで見せつけられた。
 ――こんなひと、憧れないわけがない。
 思い知らされた感情はいたってシンプルなものだった。身体の奥から滲む熱は、生まれて初めて自転車を自分ひとりで漕げたときの高揚感によく似ている。この人とならどこへでも行ける。そんなわくわくとした確信が胸に生まれると、自然と口は動いていた。

「ねえ、これもなにかの縁ですしオレをあなたの側においてくださいよ。きっと役に立ちますよ」
「ハァ? なんでオマエみてぇなガキとつるまないといけねぇんだよ。フツーにヤだわ」
「そんな無碍にしないでくださいよ。少なくともオレはあなたを騙したりしませんよ?」

 神に誓ってなんて言うガラじゃない。それでもあなたになら誓える。心底嫌そうな顔をした先輩にはオレの真意なんてちっとも響いた気はしないが、それはそのうち知ってもらえばいいかと考えを改めた。

「知ったような口を利くなよ。別にアイツらだってワザとオレを騙そうとしたつもりじゃネェんだからよ」
「――そうですよね、失言でした。すみません。……あ、じゃあ名前だけでも教えてくださいよ」

 後輩への誹りに対し微かに不機嫌な顔をした先輩へ謝ると同時に、即座に話題を転換する。
 側仕えさせてくれないというのならせめて名前くらいは聞いておかないと。そう感じたオレは、無理難題を取り下げ、応じやすい第二の提案を投げかける。交渉の術の基本を仕掛けたオレはその意図を見抜かれまいとニコニコと笑ったまま先輩を見上げた。

「ご存知と思いますが、オレはと申します」

 あと一押し。そう感じたオレは自らの名前を告げることで先を促した。ムッと唇を尖らせた先輩は、そのまま一度視線を外したのち、軽く眉根を寄せて言葉を紡ぐ。

「――二年の林だ」
「あぁ、そういえばこの前、あなたに挨拶していたヤツらに林さんって呼ばれてましたね。じゃあ林先輩でいいですか?」
「先輩ってガラじゃねぇな……。あー……。じゃあ、ぺーやんでいいワ。ほかのやつらもそう呼ぶしよ」

 後ろ頭を掻きながら渋々告げられたあだなに思わず目を丸くする。

「え、ぺーやん?」
「〝君〟ぐらいつけろや」

 林のどこからぺーやんが来たのか。疑問に思うままに教えてもらったばかりのあだなを口にすると、怒った顔をした先輩――ぺーやん君に頭を押さえつけられる。

「う、ぐぅ……ちょっと首が痛いです」
「ワザと痛くしてんだよ。っつーかオマエがナマイキだって喧嘩売られてんのわかっちまったわ」
「えぇ……。誤解だと思うんですけどねぇ。こんなに素直でかわいい後輩はなかなかいませんよ」
「……そーゆーとこだワ」

 冗談めかして言葉を紡げば呆れたような声が降ってくる。それと同時に乱暴に頭を解放されると思わずたたらを踏んでしまった。足下の覚束ない様子を見せたオレを見て小さく笑ったぺーやん君は「行くぞ」と残すとさっさと階段を降り始めてしまう。
 相変わらず自分が行くと言ったらついてくるのが当たり前だと思っているらしい背中は、ぽかんと口を開いたオレを置いてぐんぐんと離れていく。
 
「え、待ってくださいよ。どこ行くんすか?」
「殴っちまった詫びになんか飲みモン買ってやっからよ。自販機に着く前に、何がいいか考えとけよ――

 慌てて追いかけるオレを肩越しに振り返ったぺーやん君はバツの悪そうな表情でそう言うと、軽く唇を尖らせて前を向いてしまう。少しずつ聞き慣れてきた濁声で紡がれた自分の名前に思わず目を瞬かせた。

「……つるむ気ないって言ったくせに」
「アァ?! っせぇな、テメェ! ンなくだらねぇ文句言いやがるならジュース選ばせてやんねぇからなッ?!」

 ぼそりと零した言葉は耳ざとく拾われる。大声で怒鳴りつけられたが、奢ってくれるのは確定らしい。律儀というかなんというか。言葉の端々から滲み出る不器用な優しさを拾い上げては勝手に好印象を抱く。
 やっぱりこの人の下につきたいと決意を固めたオレは、怒った顔をしたぺーやん君を宥めにかかった。

「えー。じゃあぺーやん君のセンスってやつにお任せだと何になるんですか?」
「ンなもんマッカン一択に決まってんだろ」

 聞き慣れない響きに軽く首を傾げる。コーラやポカリと言ったポピュラーな商品名ではなかったことにキョトンとしていると、軽くこちらを振り返ったぺーやん君は「マッカンだよ、マッカン。MAXコーヒー」と続けた。
 正式名称を耳にすると同時に黄色い缶が頭の中に思い描かれる。自販機で見たことはあるが、喉が渇いているときはスポドリか炭酸を選ぶことが多いオレには縁の無い飲み物だった。
 
「オレ、マッカン飲んだことないです。美味しいんですか?」
「ったりめぇだろ! じゃあ奢ってやっから今日はそれ飲んどけよ。ウメェからよ」

 自分の気に入った飲み物に興味を持たれたことが嬉しかったのか、ぺーやん君はニッと笑ってこちらを振り返った。機嫌良さそうな顔につられてオレもまた自然と口元を緩ませる。

「じゃあ、それにします。楽しみにしてますね」
「オゥ。じゃあ、決まりな」
「はい、ありがとうございます」

 素直に頷き感謝の言葉を紡ぐと、ぺーやん君は目を細めて笑い、再び前を向いて歩き始めた。軽やかな会話を紡ぐままにふたりで上靴を鳴らしながら階段を下りていく。その音が重なる度、少しずつ距離が縮まっているような気がして、どこかくすぐったいような、面映ゆいような心地になった。
 清々しい気持ちを抱えたまま視線を転じる。踊り場の窓から差す光は梅雨なんて吹っ飛ばしてしまったのではないかと思えるくらい明るくて、もうすぐ楽しい夏が来るんだと無条件で信じられた。

 ――それは、オレの人生が更に120度くらい変えられた出会いだった。

 このあとオレは、ぺーやんくんに奢ってもらったマッカンのあまりの口当たりに「ゲロ甘ぇ!」と噴き出してしまい、ぶん殴られることになる。だが、それさえも楽しい日々の幕開けに対する荒っぽい祝福のようにのように思えてならない。痛む頭を抱え「もう、痛いじゃないですか」と文句を言いつつも、沸き立つ心に促され、オレは笑った。



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