Precious04

My precious one 04


 それは、よく晴れた昼休みのことだった。

 初めて迎えた中間試験を乗り越えた翌日。次の授業で早くも返ってきた答案を悲喜こもごもの思いで受け取ったオレたちは、出そろった結果を机の中に押し込んでいつものように昼休みのチャイムと共に外へ飛び出した。
 結果はどうあれ、ある種の緊張から解放されると無性に身体を動かしたくなる。そんな気持ちに駆り立てられればじっとなんてしてらんなかった。
 いつもなら廊下を歩けばどこからか飛び出してくる不良たちもさすがに今日に限っては出没してこない。テストの結果に消沈しているのか、それとも赤点を取って教師に呼び出されているのかは知らないが、興味もない連中に絡まれないだけで簡単にオレの心は軽くなる。
 この好機を逃すわけにはいかない。自由を得た心地に浮かれながら校舎を抜けだし、すんなりと運動場まで辿り着くとオレは思わずにんまりと口元を緩める。
 今日はなんていい一日なんだろう。難なく外に出た喜びを噛みしめる。たったこれだけで喜んでしまうほどの境遇に立たされているのだと思い知らされつつも、もたらされた幸運はありがたく受け止めるべきだとプラスに考える。
 思い返してみれば朝のニュースでやっている星座占いも1位だったし、給食のプリンじゃんけんも一人勝ちだった。占いでは「ラッキーカラーはゴールド」なんて言われてたけどそんなものを身につけてなくても十分幸運だと言えた。
 平和が一番。そう噛み締めながら運動場の片隅にある体育倉庫に足を踏み入れたオレたちは、サッカーボールが入ったカゴの中に手をつっこみながら試験の結果について会話を紡ぐ。
 試験の順位やどの問題を間違ったか。負ったばかりの傷口を正視する羽目にはなるが、同じ痛みを抱える友人らと過ぎてしまった苦難を振り返るのはどこか楽しかった。

「数学の引っ掛け問題、しっかり引っかかっちゃったんだよねぇ」
「あ、オレもオレも! あそこであの書き方はないよなぁ!」
「な! あの先生イジワルだよなー!」

 オレがミスった問題をふたりも同じようにやられたらしく、一際大きな声で同調される。高らかに「日本語力は国語で試してくれっつーの!」と愚痴を零せば「そーだそーだ!」と重なった。どうやらテスト明けのハイテンションに包まれているのはオレだけではないらしい。
 ポンポン会話を紡ぐ傍らで、どのボールがいいか見繕う。女三人寄れば姦しいなんて言葉があるが男三人の場合はなんと言うんだろう。ふとそんな考えが頭をよぎったが、どちらにせよむさ苦しいだとか暑苦しいだとか、あまりいい意味にはならないだろうと浮かび上がったばかりの考えを打ち捨てた。
 気を取り直し、ボールを拾い上げては空気の入り具合や皮がめくれてないかなど、念入りに見比べる。身を乗り出して底の方まで探していると、新品にほど近い手触りのボールを発見した。

「おっ、いいの発見ー!」
「マジ? どれどれ?」

 鼻歌交じりで宣言すると、隣のカゴの中を探していたふたりがこちらへ寄ってくる。待ってなって、ちゃんと見せてやるからよ。そんな気持ちとともにペロッと舌を出してボールに手をかけると、不意に背後から声をかけられた。

「――オイ、そこのチビ」

 聞き慣れない濁声から紡がれた悪口に、先に背後を振り返った友人らが身じろいだのが視界の端に入る。カゴの中に頭を突っ込んでいたオレもまた、お目当てのサッカーボールを両手で掴みながら背後を振り返った。
 声をかけてきたのはひょろりと背の高い男だった。逆光のためほとんど表情は見えないが、剣呑な空気を隠しもしない態度に「あぁ、また喧嘩を売られるのか」と漠然と感じとる。
 オレら三人の戸惑いなんて意に介していないらしいその男は、如何にもチンピラですと言わんばかりの歩き方でこちらへ近づいてくる。逃げ場のない体育倉庫に踏み入られるといやでも緊張が漂った。
 彼が一歩踏み出す度、言いようのない感覚が肌に纏わりつく。固唾を飲んで見守っていると、距離が近づいたことで相手の顔に影が差し、表情が見やすくなった。こちらを睨めつける厳しい視線は、体育倉庫内にいる三人目掛けて等しく差し向けられる。「ヒッ」と短い悲鳴が左右交互に上がり、その数秒後には相手の視線がオレの上で留まった。
 どうやらチビ代表でオレに当たりをつけたと知るにはそれだけで十分だった。だが、こちらに話しかけてきたにも関わらず、相手はオレと目が合うと怪訝そうに顔を顰める。

「オマエがか?」
「? はい、そうです」

 こんなところまで踏み込んできたくせに、相手はオレの名前しか知らなかったらしい。オレが頷いたところで寄せられた眉根がほどけることはなく、むしろ更に眉根を寄せる。
 どこか納得していない顔つきでオレを見下ろすこの人は、もしかしたら ほかのクラスの男子同様に内心で「こんなチビが噂になってんのか?」とでも考えているのかもしれない。
 値踏みされるのには慣れてきたが、そんな態度に気分害さなくなったわけではない。キュッと唇を引き締め、いまだこちらを睨めつける相手を見上げる。
 名前どころか顔すら知らない相手は無遠慮にこちらを見下ろしたままだ。負けじとオレもその人の風貌をきちんと視界に収めたが、あまりにも見覚えが無さすぎて首を捻ってしまう。いつもなら顔を見ればパッとクラスくらいなら判別できるのだが、記憶を探ってもまったく引っかからない。
 ――まぁ、多分、年上なんだろうけれど。
 相手の顔に合わせていた視線を軽く下げ、全身を観察する。
 短く刈り上げられた金髪。短ランの下はお世辞にも趣味がいいとは言えない柄シャツを着込んでいて、首には金ピカのネックレス。どこぞのチンピラが潜り込んできたのではと危ぶんでしまうほどの容姿はさすがにこの時期の一年坊にできるような格好じゃないだろう。

「まぁ、いいワ。ちょっとついてこい」

 顎でしゃくった相手は倉庫を出ると一度こちらを振り返り、そのまま歩き出してしまう。ついてこいと言った以上、オレがついてくるのは彼の中では決定事項のようだ。
 地面を靴の底で叩きながら歩く姿はやはりどう贔屓目に見てもチンピラそのものだった。あんな態度を見せられればやはり今から喧嘩になるんだろうと最悪の予想を立てるほかない。
 たしかにオレはテスト明けの鈍った身体を動かしたいと思ったよ。だけどそれが喧嘩だなんてあんまりじゃないか。せっかく見つけた新品にほど近いサッカーボールの感触を手のひらで確かめながら唇を尖らせる。
 ――このまま無視してもいいんだけど、後から因縁をつけられるのもイヤだしなぁ。
 手の中で転がしていたサッカーボールを腰に押し付けるように片手で抱え、空いた手で耳の裏を指先で引っ掻く。どうしたもんかと軽く肩を竦めると、息を殺して固まっていた友人らが「っ!」と悲鳴みたいな声と共に駆け寄ってきた。

「ヤバい。ヤバいってマジで今回はマジでヤバい」

 血相を変えてオレの腕を掴んだ友人は、テストにすべての語彙力をぶつけてしまったことで力を失ったがごとくヤバいよヤバいよと繰り返す。

「今回ばかりは絶対ついて行かない方がいいよっ」
「あの人、たしか代々木のW林の片割れだって。ヤベェって」

 立ち去ったばかりの相手に聞こえないようにと気を使ったのだろう。声をひそめながらも強い語調で訴えかけてくる友人らは必死そのものだ。だが聞いたこともない通り名を告げられたところピンとこなさすぎて、思わず顔を顰めてしまう。

「ダブリンって……。えぇ、何、今の人、アイルランド出身なの? それとも留年した?」
「ちげぇよ! 林って苗字につくヤベェ人がふたりいんの!」
「ああ、なるほどね……。ふたりの林でW林ってことね」

 さっきの相手に心当たりがあるらしいふたりは「行ったらまずいことになる」とオレ以上に危機感を抱いているようだった。だが、慌てふためくふたりの姿を見ていると逆に頭が冷静に働く。
 たしかに今の人には同級生には無い迫力があった。だが、無理やり連れていく粗暴さがないあたり、同級生よりもまだ話が通じるのではと期待できる。
 それに今ビビって逃げたところで、後日不意打ちで襲いかかられるだけだ。不良の執念は凄まじいものだとこの1ヶ月ちょっとで身に染みるほど理解している。下手に後回しにすると逆上した相手が何するかわかんないし、正々堂々挑まれた時に対処する方が得ってもんだ。

「まぁ、でも今日逃げたとしても顔バレちゃってるしな」

 損得勘定を頭の中で弾き出し、ついていく結論を出したオレを前にふたりはガックリとうなだれた。

「大丈夫。いざとなったらタマ蹴ってでも倒すから。先に場所取っておいてくれよ」
「……うん」
「マジで気を付けろよ」

 眉根を寄せたふたりに抱えていたサッカーボールを手渡し、軽く手を振りながら体育倉庫を後にした。
 表に出ると目の多くに明るい日差しが突き刺さる。反射的に目を細め、先を出て行った男の背中を探した。たしか最後にちらっと見たときは校舎に向かって歩いていたはずだ。そう見当をつけ駆け足で追いかければ、相手が少し離れた場所に立ち止まっているのに気がついた。
 顰めた顔をこちらに差し向けたその人は、オレが軽く頭を下げると再びどこかへ向かって歩き始める。
 その背中に追いついたところで相手の歩みは止まらない。どこか彼の中で定めた場所に辿り着くまではついて行くほかないらしい。
 黙ったまま先を行く背中を見上げる。足音のみでオレがついてきていると判断しているのか、相手がこちらを振り返る様子が微塵もない。
 あまりにもこちらを気にかけてない姿に、このまま延髄蹴りでもして終わらせるのもアリだな、とひとつの考えが頭に浮かぶ。だが人殺しになりうる攻撃を無防備の相手に食らわせるのはさすがに良心の呵責に苛まれる。
 ――それに、なんとなく……この人にはそんな卑怯な真似はしたくない。
 不意に湧き上がった感情を飲み込みきれず思わず首を捻る。いつもなら〝正当防衛を立証するためには一発殴られるべきだ〟と考えているからこそ不意打ちをよしとしないのだが、今し方頭に浮かんだ考えはそんな自らの保身に対する配慮は一切混じっていなかった。
 相手が先輩だから遠慮しているとでもいうんだろうか。それとも強そうだからビビっているんだろうか。
 奇っ怪な忠誠心じみた感情に納得がいかず唇を尖らせる。思い当たる節のない抵抗をを打ち払うためには目の前を歩くこの人の首筋を蹴り飛ばすほかないだろう。そうとわかりつつも、やはりそんな大それたことをする気にはなれなかった。

「あっ、林さん!」

 頭に浮かんだ疑念の解決方法を模索していると不意に間近で声が上がった。驚いて自然と下がっていた目線を上げれば、運動場を闊歩していただろう男子たちがそそくさと端に寄る姿が目に入る。

「ちーっすッ!」

 前を歩くひとに向かって挨拶をした連中には見覚えがあった。いずれもオレと喧嘩したことのあるやつらで、みな一様に後ろ手を君で頭を下げている。その光景はドラマや映画なんかで見たことのあるヤクザやチンピラへの対応そのもので〝類は友を呼ぶ〟なんてことわざが頭を掠めた。

「アレ、後ろにいるのじゃん……」
「死んだな、アイツ」

 彼らにとっての目上の相手が通り過ぎ、顔を上げた連中の視線がこちらへと流れたらしい。好き勝手にこちらの行く末を評価する彼らの言葉に「余計なお世話だ」と思いながらも、それほどまでに強いのかと若干戸惑いに似た感情がわき起こる。
 ――やっぱり蹴っ飛ばしちゃう?
 グラウンドの砂を擦るように歩く背中を睨めつけ、不意打ちを食らわせるかどうか算段を整える。相変わらずこちらの動向に一切気を払っていない姿を確認すると、眉根が自然と寄った。
 ――ホントこっちのことは気にも留めてないみたいだな。

 自身の力への過信とも取れる行動に、見ず知らずの人だというのに今後が心配になってしまう。とは言え、忠告をするような間柄には無いので憂いたところでどうしようもないのだが。
どうしたものかと後ろ頭を掻いていると、ふと前を歩いていた相手が歩みを止めてこちらを振り返った。付かず離れずの距離にあったとはいえ、不意に正面から見下ろされると喧嘩前の独特な緊張感が腹の中をうごめく。
 移動先である校舎脇の手洗い場には昼休みだと言うのに嘘みたいに人がいない。不良ともなれば悪さ慣れしてるから人通りの少ない場所を把握しているんだろうか。呑気にもそんなことを考えていると、正面に立つ男が唐突に口を開いた。

「オマエのウワサは2年でも出回っててよ」
「……あぁ、そうなんですね」

 低い声で紡がれる語り口と言い、顰められた表情と言い 、その噂とやらがあまりいいものでは無いと察しがついた。どうせならもう少しこっちのテンションが上がるような噂であればいいのに。例えばかわいい後輩が入ってきたってきれいな女の先輩が騒いでる、とかさ。
 望みの薄い願望を頭の中で思い描きながら正面の相手――2年生と名乗る人物に意識を戻す。おおよそかわいい後輩に向けるものとは思えない視線に、もしやこの人の彼女がオレに熱を上げているのではと諦めの悪い期待を募らせた。だが、心を躍らせる間もなく冷ややかな声が降ってくる。

「聞けばウチのモンが世話になったそうじゃねぇか」
「あー……。ウチの、と言うのはどなたのことでしょう。なにぶん、こんなちびっこは格好の的なもんで」

 こんな幼気なオレをみんながよってたかって虐めるのだと情に訴えるべくしょんぼりとした顔を浮かべてみせるとと、鼻で笑ったような音が聞こえた。チラリと様子を見てみたが、相手から差し向けられる敵意は健在で、これはもう殴り合うほかないらしいと推察された。
 だが、やり返しに来たというのなら少しはこっちの言い分を聞いて欲しい。なにせこちらから喧嘩を仕掛けたことは一度も無いのだから。

「……その人たちの話、ちゃんと聞きました?」
「話だァ? オマエに殴られたってだけで十分だろ」

 聞き入れてくれる気はしないが一応の抵抗を試みる。案の定、身も蓋もない答えが返ってきて思わず溜息を吐きこぼしそうになった。
 ――それだけだと不十分だから話を聞いたのか確認したってのに。
 上級生がわざわざ「ウチのモン」と称するからには後輩か舎弟でも従えているんだろう。となると、2年生だと自称するこのひとが指す人物はおそらく一年坊――つまりオレと同級生の可能性が高い。
 だが、ひとつだけ拾い上げたヒントは何の役にも立ちそうもない。なぜならその特徴だけではオレに喧嘩を売ってきた相手のすべてが当てはまってしまうからだ。
 他に何かこの人に対し、自分の都合の良いように言った相手を探るヒントは無かっただろうか。そう考えた途端、先程の道中で何人かの男子がこのひとに接触した光景が脳裏に浮かんだ。
 もしかしたらさっき挨拶していた連中の中にこの人の言う「ウチのモン」とやらがいたのかもしれない。そしてオレにやられたとこの人にチクった――。
 十分ありえそうな展開に思わず顔を顰める。勝手にひとに喧嘩をふっかけてきて、負けたからって先輩を差し向けるなんて卑怯以外の何物でも無い。次に喧嘩を売られた時は手加減してやんねぇからな。
 さっき通りすがりに見かけたヤツらの顔を頭の中に並べながら唇を尖らせていると「だいたいよぉ」と刺々しい声が飛んでくる。

「オマエの言い分なんて知ったこっちゃねぇんだワ。ただこっちにもメンツってモンがあっからよ。後輩がヤられっぱなしで見逃すわけにはいかねぇんだよ」

 首を軽く後ろに反らしながら凄む相手の視線は依然として険しい。もうオレを殴るしかないと腹を括ったような顔つきだった。
 ――そんなもん、括らないでほしいんだけどなぁ。
 叶うはずのない祈りを頭に思い浮かべ、肩を落とす。

「オレも降りかかった火の粉を払っただけなんですけどねぇ……」
「ア? 何言ってっかわかんねえよ」

 苛立たしげに首を傾げた相手から視線を外し、そっと息を吐き出した。その後輩ってのが元凶だと言葉を募ったところで相手に響かないのであれば意味は無い。
 入学してから1ヶ月とちょっと。この短い間に売られた喧嘩はすでに両手でも足りない数になっている。複数人まとめてぶっ飛ばした時もあれば、日に二回も三回も喧嘩を売られた時もある。それらを考慮すれば打ち負かした相手の数はすでに30人は超えているだろう。
 改めて考えればすでに一クラス分程度の人数を敵に回したのだと知る。多分、この人の言う「ウチのモン」も殴り倒していることだろう。とは言え、元を正せばオレに喧嘩を売ったのはその後輩なんだから、その辺は考慮して欲しいものだが。

「オイ、テメェどこ見てんだよ」

 よく聞くフレーズに思わず身体を硬直させる。きっと、オレの見せた隙に乗じて殴りかかってくるのだろうと身構えた。だが、相手はズボンのポケットに手を突っ込んだまま前傾しただけで、特にこちらに歩み寄る素振りひとつ見せちゃいなかった。

「……え、いえ。特には何も見てないですけど」
「ンだよ。テメェ礼儀ってモンがなっちゃねぇな。話は目で聞けって先公どもに言われてねぇのかよ」

 全校集会などでよく聞かされるフレーズと共に当然のようにこっちを向けと言われたことに思わず目を瞠る。喧嘩前の口上が長くなると相手から視線を外すのは、喧嘩を頻繁に売られるようになってついた癖だった。
 隙を見せれば罠とも知らず勝機だと思い込んだ相手が真正面から殴りかかってくる。それを避けるにしろ受けるにしろ、不意を突かれるよりよっぽどやりやすかったからだ。正当防衛を主張する手段としても役立つ癖だったが、どうやらこの人には通用しないらしい。
 不意を打たずともオレなんて一発で倒せるとでも思っているんだろうか。それほど腕に自信があるのか、単に状況を読めないのか、それとも彼なりの武士道ってやつなのか。
 胡乱な瞳で見ていた視線をまっすぐに相手へ向ける。敵意は敵意として向けられているのには変わりはない。だがオレを見下ろす瞳には同級生のように侮りが映ることはなく、ただ目の前にいる敵へと集中しているように見えた。

「要するにあなたは後輩の落とし前をつけにきたんですよね?」
「あぁ、それだ。なんだよ話通じてんじゃねぇか」

 あなたがオレの元に来た意図は正しく理解していると伝えると、相手は嬉しそうに口角を上げた。人のいい笑顔を目の当たりにするともう一度説得を試みたいような気になったが、おそらくその話を持ち掛けたとところで通らないだろう。
 
「……わかりました。その喧嘩、受けて立ちます」
「話が早くて助かるワ。――来いよ」

 左腕を前に構えながら右足を下げると相手も同様にファイティングポーズをとる。だが、距離を保ったまま相手の出方を窺ったオレ同様に相手も動き出す様子を見せない。
 オレに喧嘩を売ってきたくせに、問答無用で殴りかかってこない姿にきゅっと唇を引き締める。
 ――これも先輩の流儀ってヤツなのか?
 あまりにも相手に対して好意的な予想を立てたのは、漠然と、この人がそんなに悪い人では無いような気がしてきたからだ。短い会話の中でうっすらと感じ取った為人を過信するのはあまりよくないのはわかっている。
 だが、後輩をいじめた相手に焼きを入れに来たと言う割にはどこか実直さが垣間見えると好意的に捉えるほかなかった。もしかしたらただ単に〝正々堂々潰してやる〟ってのが彼なりの正義なのかもしれないが、それはそれで割と好ましい態度に思えた。
 ――どうせならその優しさをオレの話に耳を傾ける方に使って欲しかった。
 口にできない嘆きを頭に思い浮かべ、そっと息を吐いた。叶わない望みを追うより、今はこの人との喧嘩に集中しなければならない。じりじりとした緊張感に包まれるまま、相手の身体を見回し、戦闘に対する予測を立てる。
 身長差は優に30センチはあるだろう。リーチの長さは利点だが、ひょろりとした痩躯では脅威に感じない。体重が軽い分、拳に威力は無いだろう。
 ――この分ならいつもみたいに一発受けてやり返すのがベストだな。
 そう判断したオレは、一歩相手に踏み込みながら右腕を引いた。反動で目の前にいる敵の頬を目掛けて拳を繰り出すための動きを見せれば、相手もまた同じようにこちらに踏み出した。振りかぶった相手の拳にスピードが乗るのに合わせて防御のために上げていた左腕を軽く下げる。

「……! テメェッ!」

 ワザと殴られるべく拳を下げたのが相手にも伝わったのだろう。苛立ちまじりの声が飛んでくると同時に拳が一直線に頬へ突き刺さる。いつもならここから反撃に映るところだ。だが、想像以上に重い一撃に思わず目を瞠った。

「痛ッて……!」

 同級生に殴られた痛みなんて比ではない。じんわりとなんて生優しさもなく、まるで雷が走るように鋭く響いた痛みに思わず声が漏れた。脳が揺れる感覚に抵抗すべく足を踏みしめようとしたが、力が入らないどころかいつの間にか身体が宙を舞っていた。

「……ッ」

 背中から地面に叩きつけられた衝撃に再び鈍い痛みに襲われる。目の奥がチカチカと光る感覚に思わず眉間にシワを寄せると、不意に視界が暗くなった。気でも失ったかと訝しんだが、突然身体を引き上げられた感覚にそうではないと気付かされる。
 朧気な世界を瞬きによって塗り替える。そのまま目を凝らせば、先ほどまで対峙していた男がオレの上に跨がり胸ぐらを掴んでいることに気がついた。

「オイ、テメェ……今、手ェ抜きやがっただろ」
「――へへ」

 その問いかけにどう答えるべきかわからず曖昧に笑って誤魔化した。まさか〝一発わざと殴らせて正当防衛を主張しようとしたけど失敗した〟なんて告白するのはあまりにもかっこ悪すぎる。
 そもそも言葉を紡ごうにも与えられた衝撃で脳は揺れたままだ。まともな思考が成り立つはずがない。オレに喋る意思がないと判断したらしい相手は、釈然としない顔つきで忌々しげに舌を打ち鳴らした。

「チッ……勝ちは勝ちだ。これに懲りたらオレの後輩に手ェ出すんじゃねぇぞ」

 掴まれていた胸ぐらを解放されると同時に後頭部を地面に強かにぶつけた。元々ダメージを負わされていたところに更に衝撃が加わったことで意識が急速に遠のいていく。再び襲いかってきた目眩と頭痛に抗う術はない。ブラックアウトの直前、視界に入った相手の顔は下がり眉を更に下げた困惑に塗れたものだった。

 ***

「――ッ!!」

 オレの名前を呼ぶ声と共に肩を揺すられる。覚醒に促されるように閉じていた瞼を薄く開けばぼんやりとした視界にふたりの友人の姿が飛び込んできた。心配そうな顔つきを見上げながら、数度瞬きを繰り返す。何度か深く瞑目して視界を取り戻そうと試みるうちに自分の身に降りかかった災難が脳裏を過った。
 意識が戻ると同時に頬に激痛が走る。だが手を抜いたうえに呆気なく負けてしまった手前、大仰に痛がるのが恥ずかしくて何食わぬ顔をしてふたりの呼びかけに応じた。

「――あれ、どうしたの? ふたりとも」
「どうしたのじゃねぇよ、このバカ! だから行くなって言ったのに!」
「さっきの先輩に言われたんだよ。がここに倒れてるからどうにかしろって」

 さっきの先輩というのはオレに喧嘩を売りに来た相手のことだろう。自分で殴り飛ばしておきながら助けを寄越してくるなんて、変なところが律儀というかやさしいというか。
 同じ不良のはずなのに同級生とはまるで違う。その差に驚きと共に感心に似た思いが重なれば自然と溜息がこぼれていた。

「そっか。ありがとな」
「お礼とかいいって。それより大丈夫か、。保健室行くか?」
「あぁ、うん。じゃあ、行こっかな」

 肘に力を入れ身体を起こしかけるとすかさず背中を支えられる。よっぽどのありさまなんだろうと苦笑したのも束の間、殴られた頬以外の痛みがほとんどないことに気がついた。全身に意識を張り巡らせたが、頬以外のダメージはぶっ飛ばされたときに擦ったであろう背中にかすかな痛みを感じただけだった。

「痛ッ……けど、ほっぺただけだからそんな心配すんなって」
「え、マジで?」
「腹とか背中とか殴られてねぇの?」

 左頬に手を添えながら呟けば不思議そうにふたりがこちらを覗き込んでくる。うん、とひとつ頭を揺らしたがにわかには信じがたいのか、ふたりは眉根を寄せて首を捻った。
 ――でも、オレだって信じられないよ。
 落とし前をつけにきたと言うからには見せしめにボコボコにされたり骨の一本や二本折られたりするのかと思っていた。だが、意識があるときに殴られた傷以外の痛みはまったく感じられない。
 身体的な痛みがないのであれば金銭的なダメージを与えられているかもしれない。同級生の前口上によくまじる「金を出せ」という恐喝を思い出すと同時に自分の尻に手を添えればポケットに突っ込んだ財布に指先が触れる。

「財布も別に取られてないし……」

 念のため中身を検めたが、何日か前にノートを買った時に見た残金と同じ額が入っていた。必要以上の暴力もカツアゲもなく、本当に殴りにきただけだったらしい。そう気付かされると同時に、どこか釈然としない心地が湧いてくる。
 ――え、これ人間的にも負けてない?
 殴られていないならお金を取られたかもしれない、などと相手の品位を疑ってかかった自分の浅ましい考えに打ちのめされる。お金を取るどころかこうやってふたりを寄越してくれた相手に対し、なんて恩知らずなことを考えるんだ。
 元はと言えば殴ったのはあのひとだから恩義なんて感じる必要は微塵も無いのだけど、それを差し引いたとてオレの勝手な予想がすべて打ち返された事実に身体の奥に熱が生まれる。人間として、あまりの恥ずかしさに顔から火が出る思いがした。
 オレを殴りに来たからには負けたらボコボコにされると決めつけ、あまつさえお金を取られるとさえ考えた。だったら勝てばいいし、正当防衛を主張するためにも一発殴らせておこうなどと相手が不利になるための計画まで立てた。
 思い返せばなんと浅はかな考えなんだろう。そのすべてをさっきの人に覆された事実に思い至り、喉から羞恥の声が滲んだ。

「おい! 大丈夫か、?!」
「どっか痛いのか?」
「や、大丈夫だから……」

 痛いのは傲慢さを暴かれた腹の内だ、とはさすがに言えず曖昧に誤魔化した。
 ――ダサい。死ぬほどダサい。
 今までどんなに体格差のある同級生にも負けなかった経験が、いつしかオレの中に驕りを生み出していたらしい。相手の戦力、そして為人を見誤ったオレの完敗だ。

「……オレもまだまだひよっこだなぁ」

 ガキであるとしみじみ噛みしめるように言うと、隣にいるふたりは不思議そうに首を傾げる。それを横目で捉えながら大きく息を吐き出し、空を振り仰いだ。青々とした空に、芽吹き始めたばかりの新緑が目に入る。春先の空よりもすっきりとした青に空の高さを思い知る。
 世界は広い。井の中の蛙の心境ってのはこんな感じなんだろうか。
 やわらかな風が短い髪が肌をくすぐるように撫でていく。梅雨もまだ迎えてない空をぼんやりと眺めながら頬に残る痛みを手のひらでなぞった。



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