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01. ファースト・コンタクト


 翔陽高校に入学して数日経った。一通りのオリエンテーションも終わり、一年生の部活動の見学が解禁された頃、浮き足立った空気はますます顕著になっている。新しい生活をスタートさせたばかりの私たちにとって「部活を選ぶ」というのは一大イベントでもあった。高校生活をどのように進めていくかの初めての選択肢だ。高揚しないわけがない。
 私は既に入る部活を決めていたので、他の子と比べたら地に足はついている方なのだろうけれど、新しい環境にそわそわしてしまうのは同じだった。
「ねぇ。もさ、バスケ部見に行かない?」
 運動場に急がなければ、といそいそと鞄に教科書類を詰め込む私に、中学から一緒のが声を掛けてくる。唐突なの誘いに、普段なら二つ返事で頷くのだけど、この日ばかりはそうもいかなかった。
 一年生の中で、一番にソフト部に入るのだと決めていたからだ。早く見学に行って、どのような人たちとプレイできるのかが知りたい。そして、少しでもいいから練習に参加させてもらえたら。
 そのために、入学式の次の日から練習道具をロッカーに持ち込んでいた。普段は何事も慎重な私だが、ソフトに関してだけはいつも気が急くのだ。
 受験の合間は勉強に専念していたし、試験が終わった後の自主練もランニングくらいしか出来なかったので、一刻も早く受験によるブランクを埋めたいという気持ちが強く育っていた。また白球を追いかけることが出来るのだと弾む気持ちを抑え切れず、頬が自然と紅潮する。
「あー……でも、私、もう入る部活決まってるから」
 ソフト部の練習に参加したいの。だからごめんね。
 そう言外に含ませた。つもりだった。しかし、私の言葉を受けたは、晴れやかに破顔して、こう宣った。
「じゃあ、見学行かなくても大丈夫だね」
 いつだって自分の都合のいいようにポジティブに考えるに、婉曲的な物言いは通らないことなんて、長年の付き合いから解りきっていた。だけど、まさか数少ない主張すらも通らないとは微塵も頭になかった。
「あ、いや……あの、もう入部するからー……」
「なおさらだよ! 他の部活見れるの今しかないんだから! さぁ、行こう行こう」
 私の背後に回りこんだは、机の上に置かれた鞄を掴むと同時に私の背中を押して教室から連れ出そうとする。そのあまりの強引さに呆れ返ってしまった私は、背中に受ける力を受け入れながら空中を仰いだ。目に入ったのは古ぼけた廊下の天井。青空は、まだ見えない。
 の強引な性格と今までの経験から予測すると、恐らく完全下校時刻よりも前にから解放される可能性は低い。
 ――一番に、ソフト部に入部したかった。
 靴箱へと続く道とは反対側へと私を誘導するに背中を押されるがまま歩みを進める。願いが叶わなかったことを嘆き、内心で溜息を吐くことしか出来なかった。


* * *


 体育館へ辿り付いた私たちは、解放された扉から、2人上下に重なるようにして中を覗き込んだ。目を引いたのは、プレイヤー然とした男子の姿だった。ボールを手にし、思い思いに過ごすのはおそらく上級生だろう。壁際に目を向ければ、考えていたよりも、随分と大人数が壁に沿って横一列に並んでいるさまが目に入る。Tシャツとハーフパンツといった出で立ちの人がほとんどであったが、私たちと同じように制服で見学に来ている人も少なくなかった。
「お前らも部活見学?」
 ふと、頭上から声が落ちてきた。どこだろう、と、声の主を探して、反射的に見上げれば、唇の厚めの男の人が入口のすぐ側の壁に背中を預けたまま腕を組み、私たちを見下ろしていた。随分と背が高いけれど、制服を着ていることと、上履きの色が私たちのものと同じであることから、一年生なのだろうと見当をつける。
「あ、はい」
「そっか、女子はあっちに並んでるぜ」
 彼の示すとおり、体育館の入り口から見て右側の壁を伝うように制服を着た女子が並んでいた。新しい環境に入ったことによる緊張感のある面持ちと、目の前にある球技に興味をそそられずにはいられないといった気持ちが入り混じった表情の彼女たちに触発され、無意識に私の背筋も伸びる。運動部独特の空気は、自然と私を高揚させた。
「ありがとうございます。あっちに行ってみますね」
「いやいや、まぁ、部活入ったらよろしくな」
 ニッと笑った彼は、軽く頭を揺らして会釈をすると、また視線を体育館の中へと向ける。私たちも彼に会釈を返し、女子一同の並ぶ場所へと移動した。
 端に立った子の隣に並び、改めて部活の準備する上級生たちに視線を向けると、各々アップをしたりバッシュの紐を結び直したりと思い思いの行動を取っているようだった。まだ授業が終わって間もないし、恐らくバスケ部の部員も揃ってないだろうと推測する。そんな様子でさえも、これからの未来として自分を重ねたのか、や他の子たちは期待に満ちた視線でもって見つめている。傍目から見ていると、まるでこの体育館にいることさえも誇らしく思っているようにさえ見えた。
 たしかに、部活前独特の空気感に心が反応しないわけではない。だが、自分自身がその空気に馴染めないことに、所詮部外者なのだというのを強く感じる。
 ――つまんないなぁ。早くソフト部観に行きたいなぁ。
 バスケ部に恨みは無いけれどそんなことを考えてしまう。どうしても自分の意識がソフトボールに向かってしまっているため、目の前にある球技に夢中になることが出来なかった。
 別にバスケを嫌ってるというわけではない。スポーツは見るのもするのも大好きだ。だが、それ以上にソフトが好きという理由ひとつで、この時間を惜しいと思ってしまうのだ。
 そうこうしているうちに、他のクラスも帰りのホームルームが終わったのか、更に数名が私たちの隣に並ぶ。このまま並び続けてしまっては逃げ損ねるかもしれない。
 焦りが胸中に浮かび上がり、今のうちに体育館を後にしなければと気持ちが強く動く。
 横目でに視線を送る。普段は大雑把な性質ではあるが、一度集中すれば並ではない集中力を発揮するが今、バスケ部へと集中しているというのなら、恐らくそっとここを離れたとて気付かない可能性は高い。
 試しに一歩だけ、横に移動して距離を取ってみる。数秒待ってみたが、の視線はバスケ部に釘付けのようで、私の動向は目に入っていないようだ。
 とは反対側の隣に立った人に目配せを送ると、不自然な動きをしていた私が気になったのか、すぐに視線が合う。
 ――出るの?
 唇の動きと微かに傾げた首により、彼女の音で発せられなかった言葉が伝わってくる。両手の平を上に向けて小さく彼女の方からの方へと動かすと、察してくれたのか、私が空けたばかりのスペースを詰めてくれた。
 手の平を合わせて深々と頭を下げて感謝の意を表すと、彼女はひらりと手の平を翳して応じる。顔を上げて彼女の様子を伺えば、彼女は少しだけ口元を上げて笑い、また視線を体育館の中心に戻した。
 そのまま彼女の背中側にある微かに空いたスペースを通り抜け、そろり、そろりと足音を忍ばせて体育館から抜け出した。


* * *


 無事、に気付かれること無く抜け出せたことに安堵し、肩から息を吐く。ミッションクリア、なんて言うと仰々しいかもしれないが、小さな満足感が胸にはあった。
 置き去りにしてしまったことは申し訳ないとは思うけれど、教室から連れ去られる合間に何度も「飽きたらソフト部に行くからね」と念を押していたのだから問題は無いだろう。
 気を取り直し、ソフト部へ向かうのだと気持ちを上向かせる。に急かされたため、ロッカーに練習着を置いて来てしまったことを後悔したが、練習を見るだけでも、今の私を充分満足させてくれるはずだ。
「運動場ってどっちなんだろうな」
 周囲に視線を走らせて見たものの、イマイチ見当をつけることが出来なかった。体育館へから教室へ向かう道のりも、教室から下足場に向かう道のりも覚えていたけれど、体育館から下足場への最短距離を把握出来ていない。入学して一週間経ってないのだからそれも無理のないことだ。
 方向音痴というほどではないけれど、初めて辿った道をすんなり探索出来るほど賢くも無かった。
「こっちかな」
 軽く視線を巡らせたものの解らないのだから仕方が無い。とりあえず校舎に戻ればまた視点が変わって、正しい道のりを思いつくかもしれない。
 そう楽観的に考え、に見つかる前に、と、そそくさと体育館の前から立ち去る。体育館前から校舎へと続く渡り廊下を駆けていると、もうすぐソフト部に入れるのだと自然と気持ちが高揚していく。弾む気持ちは、時に私を大胆にさせる。普段ならそんなことを思いつかないのに、校舎へ入るために設置された、たった2段の階段を一息に跳ぼうと思いつく。
――えいっ!
 辿り付いた1段目の段差に足を掛け、心が弾むままに勢い良くジャンプした。しかし、床を踏みしめるのだと思っていた足が届く前に、身体の前面に衝撃が走る。
 柔らかいのと硬いのと、その中間くらい。
 ぶつかった感触に覚えが無いわけではなかったけれど、壁や扉などといった平面のものではないこと、また頑丈とは言い切れない感触だったことに焦りを覚える。それが人のかたちであるのだと気付いたのは、遠慮がちに私の肩に添えられた手の平が目に入ったからだった。
「あ、ごめんなさ――」
 強かにぶつけた鼻の頭を抑えて、視線を持ち上げる。しかし、顔があるだろうと思った位置に持ち上げても、目に入ったのはブレザーの襟元だけで、更に見上げなければ相手の顔を見られないことに気付かされる。
 相手の首筋に沿って視線を持ち上げるごとに、静かに不安が降り募っていくようだ。首が痛いくらいに見上げたことで、ぶつかった相手の視線に、背筋に冷たいものが走る。

 細い目。坊主頭。何よりも、大きな体躯。

 黙ったまま私を見下ろす彼の目が私の姿を捉え、その細い目が更に細められることで、より一層の凄みが増す。浮かれてはしゃいで、普段しないようなことをしてしまった自分のバカさ加減に嫌気が差した。結構勢いをつけて跳んだから、下手したら怪我をさせてしまったかもしれない。
 否、怪我までには至らなくても、鳩尾辺りに不意の衝撃が走れば、相当痛かったはずだ。謝らなければ。そう思ったのに声が絞り出せそうも無い。そのことに気がつくと、顔から血の気が引いていくのが解った。
「……大丈夫か?」
 ぼそりと声を紡いだ彼に、喉の奥が詰まったような音と共に唾を飲み込む。彼の発した声は、聞いたことも無いくらい低いもので、うちの中学の男子って声は幼かったんだなと、頭の隅で思った。現実逃避のような考えを思い浮かべ、それでも彼から目が離せなくなる。
 中学が一緒だった男子には無い、彼の持つあまりの迫力に、鼻水が出た。




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