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02. メランコリックな今日


っ! 何で昨日途中から帰っちゃったの?」
 陰鬱とした気持ちを抱えて登校し、教室に足を踏み入れるや否や「おはよう」の挨拶よりも先により非難の声を浴びる。ただでさえ、昨日ぶつかった人に最悪な態度しか取れなかった自分に辟易して眠れなかったというのに、この仕打ちは酷い。
 のろのろとした足取りで自分の席へ向かい、力なく椅子に腰掛けると、すぐさまは私の前の席へ陣取った。身勝手だとは解りつつも、まだ来ていない前の席の子を少しだけ恨めしく思ってしまう。
「あー……トイレ行ったら体育館がどっちかわかんなくなっちゃって……」
「ホントにぃ?」
 苦しい言い訳を述べた私を疑いの眼差しで睨むに、力なく笑いかけて誤魔化しを図ったが、そんなものが通用するほどは甘い子ではない。大きな目を細めて私の顔を無遠慮に見つめ続けるに、居た堪れなくなって顔を伏せてた。
「まぁ、いいけどね」
 珍しくあっさりと退いてくれたことに安堵して小さな溜息を吐く。
「で、その後ソフト部には見に行けた?」
 机の上に置いたままだった鞄の中身を引き出しに納め、横のフックに鞄を引っ掛けると、その空いたスペースには手のひらを置き、こちらへと身を乗り出してくる。
「それが……」
 の言葉に触発されて、昨日の放課後を思い出す。
 一番に思い出したのは、ソフトボールへ行った後のことではなく、その直前の出来事だった。
 一瞬しか顔を見ていないというのに、鮮明にあの人の顔が脳裏を過ぎる。ぶつかったという生易しいものではなく、まさに突撃したような衝撃で危害を加えたというのに、相手に対して満足に謝罪も出来なかった後悔がまたしても胸に襲い掛かってくる。
 言葉を失って呆然と彼を見上げることしか出来なかった私の顔は、どうしようもないほどにアホ面だったことだろう。


* * *


「……大丈夫か?」
 私の肩に手を添えたまま眉根を寄せて私を見下ろす彼に、視線を合わせたままではいられなくなって、私は慌てて俯いた。謝ることも出来なかったくせに、無遠慮に見つめ続けてしまったことを恥じて、血の気が引いたように冷たい頬を手の平で覆い、手を翻して制服の袖で鼻の下を拭う。
 流石に罪悪感で泣くほど幼くは無かったが、平静を保っていられるほどの胆力を備えてはいない。緊張に一瞬で乾いた唇を舐め、どのような言葉で彼に謝罪すれば良いかを考える。
 状況説明と言い訳がごっちゃにならないようにと考えあぐねたものの、どうしようか迷えば迷うほど言葉はまとまらずに頭の中で霧散した。
「悪ぃ、全然前を見てなかった……怪我、してないか?」
 黙り込んだ私を見かねたのか、彼が言葉をかけてくれたのだが、彼の謝罪の言葉に更に罪悪感が募る。入り口の向こうに誰かいるかもしれないだなんて考えずに、私は気分が乗るままに安易に飛び出した。どう考えても悪いのは私だ。
 俯いたまま、自分の靴先を見つめ続ける。どのような詫びの言葉を伝えれば、彼に対しての謝罪の言葉に足り得るか、頭の中で謝罪の言葉を探り続けたが、なかなかうまい言葉が出てこない。
 応えない私に痺れを切らしたのか、添えられただけだった手で肩を掴まれ、強制的に上を向かされる。
「……どこか、痛いのか?」
 彼の言葉は耳に入ったものの、それよりも先に目に入ったのは、顰められた顔と引き締められた唇、そして細められた目だった。彼の無骨な表情から伺える緊張感に、怒られるのではないかと危惧してしまう。
 勿論、怒られるようなことをした自分が悪いとは解っているけれど、出来れば入学早々上級生にシメられるなんて展開はご遠慮願いたいのが本音だ。
「ご、」
 緊張に声が裏返る。咳払いして喉の調子を戻し、震える唇に叱咤して、再度言葉を紡ぐ。
「ごめんなさいっ!」
 これ以上は無理だ。気まずさでどうにかなってしまう。そう判断した私は早々に彼の手から逃れるように身を翻し、数歩たたらを踏みつつも彼から距離を取る。
 一度振り返って彼へと視線を向けると、唖然とした顔をした彼の姿が目に入り、更に申し訳なさがドシンと心の内に積み重なる。空中を頭突きするような勢いで深く頭を下げ、顔を戻すや否や居た堪れなくなった私はその場を走り去った。


* * *


「あああああああああ」
「過去の自分思い返して唸るのはやめなよ」
 昨日の醜態を思い返し、頭を抱えたまま机に突っ伏して、喉の奥から声を絞り出すと、から手厳しい言葉を投げつけられた。追い討ちをかけるような言葉に、泣きっ面に蜂とはこのことかと痛感する。
 唇を尖らせてを見やるが、椅子の背もたれに片肘をついた彼女は何食わぬ顔で私を見下ろすだけで、睨みつけたところで何の意味も為さなかった。
 手をだらしなく下に下ろし、右の頬を机にくっつけると、ひんやりとした感触が心地よかった。昨日の羞恥に火照った頬を冷やすにはちょうどいい。
 唇をまごつかせて、後悔で漏れそうになる声を我慢していると、いたずら好きのが私のこめかみを指で抑えながら口を開いた。
「じゃあさ、今日はさ、藤真君観に行こうよ」
「藤真君って同じクラスの?」
 明るいの声につられ、机に頭を乗せたままではあるものの首をひねり、視線を合わせるように持ち上げる。機嫌良く笑うは目を合わせるとにやりとその瞳を更に細めた。
「そうそう、バスケ部の藤真君」
「またバスケ部じゃん。今のうちに他の部活観に行くんじゃなかったの?」
「それはそれ。カッコいいじゃん、あの人」
 の視線が私から離れ、どこかへと向けられる。おそらく、視線の先には件の藤真くんとやらがいるのだろう。それに倣って私もまた体を起こし藤真君へと視線を移した。
 教室の後ろの方で、同じクラスの男子と笑う藤真君の顔をまじまじと見つめる。色白で髪がサラサラしていて、目鼻立ちがくっきりしている彼は、他のクラスの女子でさえも見物に来るくらい見た目がよかった。
 そして、恐ろしいのは彼の良さはその見た目だけじゃないということだ。あの屈託無く笑う顔や、入学したばかりだというのに男子たちの中心にいれるほどの利発さがいいんだと思う。個人的にはカッコいいというよりも、かわいい部類に入るんじゃないかと思ったけれど、それでも目を引くものを藤真君が持っていることは変わりない。
 無遠慮に見つめ続ける私たちに気付いたのか、藤真君の視線がこちらへと向けられる。ただそれだけで、特になんの反応もなかったのだが、私たちはそろってまずいものを見てしまったかのように恐縮して視線を外すほかなかった。
 互いに視線を交わしあった私たちは、気を取り直して元のふたりの会話を続けるべく向き合った。
「あ、でももう私、今日こそはソフト部に入ろうと決めてるから」
 昨日、私がグラウンドに辿り付いたとき、既に見学者はグラウンドの中に招かれていた。声を上げれば応じてくれたのかもしれないが、途中からそれを望むのはおこがましいほどに真剣な空気だったので、影からコソコソ見てるだけで終わってしまったのだ。
 授業が終わったら一目散に職員室に行く。そして顧問の先生に入部届けを出すんだ。
 見学に一回も行かずに入部するのは珍しいことかもしれないけれど、高校でもソフトを続けるのだと決めているのだから決して後悔なんてしない。机の下で決意に拳を固め、今日こそはの誘いを断るのだと意気込んだ。
 だが――。
「でも昨日アンタ逃げたよね?」
 頬杖をついたは目を細めて私を睨みつける。低い声で放たれた言葉は脅しにしか聞えず、私の意気はすぐさま霧散してしまうのであった。


* * *


 の迫力に怯えた私は、昨日に引き続きまたしても体育館へと連れてこられてしまった。捕まる前に逃げてもよかったのだけど、翌日も同じように連れてこられてるという負の連鎖に押し込まれるよりは今日大人しく従ったほうがいいだろうという打算もあった。
 初日にちゃんと断っておけば、こんなことにならなかったのかな。そうすればソフト部にもう入部出来てるはずだった。さらに言うのであれば、ぶつかってしまったあの人に、嫌な思いをさせずに済んだことだろう。
 いまだに引きずっている後悔を追い出すように、肩から息を吐いた。だが、そんな単純なことで気が晴れるはずもなく、より一層、自分の中に根強く残っているのだと自覚するだけだった。
 あれこれ考えたところで、結果が覆せるわけではない。もうこのことを考えるのはやめよう。私が今しないといけないのは、の意識から外れるように大人しくしていることだけだ。
「ちょっと、。ちゃんと見てるの?」
「ごめんごめん」
 脱走を諦めきれずじわじわと距離を取り始めたことを気付かれるのにそう時間はかからなかった。距離が離れたところをすかさずに咎められてしまう。
 不満顔で振り向いたは、今日は体育館の中に入り込まず、外から見ようと決めたらしい。彼女に倣って、とは反対側の入り口の縁を掴み、中を覗きこむ。昨日とは違って制服で来ている子は少ない。履き慣れてそうなバッシュを抱えた子の中に、昨日隣に立っていた子の姿もあった。
「ねぇ、藤真君いる?」
 視線を体育館の奥に延ばしたは、私を振り返らずに問いかけた。言われるがままに女バスの方に向けていた視線を男バス側へと転じる。だが、その中にいる男の人たちに見覚えのある人はいなかった。いくら目立つとは言え、制服を着ているならともかく、Tシャツを着た藤真君をパッと見つけられるほど彼の顔を覚えていないのだと知るにはそれで十分だった。
「男バスのコート奥だから全然見えないや」
「よし、反対側の入り口に回るわよ」
「えー……体育館裏ってなんか立ち寄るの怖い」
「ウォッス」
 意気込むを軽くいなしていると、背後から低い声が耳に届いた。聞き覚えのあるその声はよく耳に馴染み、首筋にぞわりとした感覚が走る。
「え。誰?」
 先に振り返ったが怪訝そうな顔をして見上げ、そして何事も無かったかのようにまた体育館の奥へと視線を戻すのが横目で見える。その間、2秒足らずだったけれど、「彼」が動く気配は無かった。
 意を決して入り口の邪魔にならないように横に移動しながら、振り仰いで見ると、予想通り昨日ぶつかってしまった彼が立っていた。黒のTシャツを着た彼もまたバスケ部だったようで、その片手にはバッシュが引っかかっていた。
 冷静に考えれば、あの渡り廊下へ続く道は体育館しかないのだから、彼がバスケ部に入るつもりであの場所を歩いていた可能性は高いことなんて想像に容易い。
 それすら思いつかずに、のうのうとここに来てしまった自分が恥ずかしい。もし、今日会えるのだと解っていれば、きちんとした言葉を伝えられるように言葉を用意したのに、と後悔が駆け巡る。
 突然、降りかかった再会に、昨日と動揺に緊張が走る。唇を真一文字に引き締めて、真っ直ぐに彼を見上げる私に、応えるように彼もまた真摯な目で私を見下ろした。
 その細い目に見つめられると、酷く居た堪れない気持ちが沸き起こり、逃げるように慌てて俯いてしまう。
 ――ダメだ、また謝れない。
 迫力があって怖いとか、そういうのを抜きにして言葉が出てこなかった。身体大丈夫か、とか怪我してないか、とか。あんな無礼を働いた私を、この人は気遣ってくれたというのに私は何も言えないでいる。
 ――あぁ、でももう私のことなんて忘れているかもしれないし、話題を掘り返したところでかえって不興を買ってしまったら。
 保身にまみれた思考の渦に飲まれながら指先を隠すように手を握り込める。足元に落とした視線を這い巡らせている間に、彼は小さく溜息を吐き、そのまま体育館へと入ってしまった。
 しまった、と顔を上げて彼の背中に視線を向ける。彼もまたこちらを首だけで振り返ったところだった。絡み合った視線に、喉の奥が塞がれるような感覚が走る。
 ――何か言わなくちゃ、今度こそ。
 唇を開いて言葉を放とうと思った。だけど喉から声は出てこない。またしても何の反応も返せずにいると、少しだけ眉を下げた彼は、そのまま躊躇することなく真っ直ぐに男子バスケ部の方へと向かってしまった。
 何度も言葉を掛けられない私に呆れられてしまったようだ。否、そもそも気にしていたのは私だけだったんじゃないだろうか。それを傲慢にも何度も何度も謝ろうとしたり、無遠慮に見上げた挙句に顔を背けたり、非礼の限りを尽くした自分が途端に恥ずかしくなる。
 小さく溜息を吐いて肩から力を抜く。落胆のせいか、昨日以上にバスケ部への感情が希薄なものになっていく。
「おねがいしゃーっす!」
 体育館から大きな声が上がる。どうやら練習がスタートするらしい。それに伴い、体育館の中へと意識を集中させたは私のことなんてもう目に入っていないだろう。
 そんなにバスケ部が気になるのならもう入部してしまえばいいのに、だなんて八つ当たりのようなことを考えてしまう。一度だけ、視線を延ばして男バスの方を見たのだが、勿論、あの人が私を気にしていることなんてなくて、益々疎外感を膨らませるだけであった。
 ――もう、いいや。
 小さく溜息を吐いて、体育館から一歩退き、そのまま渡り廊下へと足を進める。
?」
 の呼びかけに振り返りもせずに手の平を翳すだけで応えた。それ以上、追いかけられることも声をかけられることも無いことに安堵し、気の乗らないままその場を離れる。
「あーぁ……」
 溜息を吐きながら校舎へと続く道のりを踏みしめる。昨日、体育館を出た時は弾んだはずの気持ちが、今日はなぜか沈んだままだった。ソフトボールが出来る喜びよりも勝る失意があるだなんて初めての経験で、自分の気持ちを持て余してしまう。
 渡り廊下を歩き切る直前、ふと、足を止める。昨日、飛び越えた段差が、私の爪先を阻むように立ちふさがっていた。昨日の吃驚したような彼の顔と困惑の声が浮かび上がり、つい先程の少し眉を下げた彼の顔が脳裏を過ぎる。
 強く奥歯を噛み締め、俯いていた顔を上げた私は、段差を強く踏みしめた。一段、二段と上がればすぐに校舎の中へと辿り着く。
 乗り越えてもなお渦巻くような感情が胸の中を去来する。息が詰まるような想いを抱いて、身内にある罪悪感とは違う感情から逃げるように走った。
 運動場につけば、ソフトボールがあるから、きっと忘れられる。縋るような願いを抱き、人のいない廊下を駆け抜けた。


   



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