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03. シャイボーイ×シャイガール


 新入生に対して部活が解禁されて一週間ほど経った頃。連日、バスケ部へ見学へ通うを振り切って、漸くソフト部に入部することが出来た私は晴れやかな気持ちで部活に参加していた。
 ソフト部に入部した子には、残念ながら同じクラスの子はいなかった。だけど1年生はたくさんいたし、中学の時に対戦したことがある子もいたので、すぐに馴染むことが出来た。
 当初の念願だった「1年生で一番最初の部員になる」という密かな目標は果たせなかったけれど、そのような些末ごとに拘って自分の意気を消沈させるのも勿体無い。順風満帆と言っていいほどに、順調だった。
 放課後になればグラウンドへ駆けていく。ただそれだけでソフトが出来ることに、幸せを噛み締める。受験の合間、ソフトを出来なかったことで持て余していた情熱を発散するように打ちこんだ。それは、胸の内にある罪悪感を必死に押し殺す意味も兼ねていたのかもしれない。
ってさ、中学の時どこ守ってたんだっけ?」
 休憩時間になって、持参したスポーツドリンクに口をつけると、背後から先輩に声をかけられた。自己紹介のときに聞いたのだけど忘れてしまったのだと照れくさそうに笑う先輩に、背筋を伸ばして応じる。
「はい! ポジションは投手です!」
 咄嗟の質問だったということもあり、自己紹介の時とまったく同じセリフが口をついて出た。あ、と戸惑う私に、先輩はそうだった、と笑って応じてくれた。
「ピッチャーだったね、は。ね、ちょっとだけ投げてみない? 私受けるからさ」
「あ、はい! 喜んで!」
 傍らに置いていたキャッチャーミットを拾い上げた先輩は、グラウンドの隅を指差して私を促す。私もまたグラブとボールを取って先輩の後を追った。
 フェンスから少しだけ離れた場所に腰を下ろした先輩は、胸の前でミットを構える。
「じゃあ、真っ直ぐと、得意球を3球ずつ」
「全部真ん中でいいですか?」
「うん、いいよ」
「はい、よろしくお願いしますっ」
 スパイクの爪先で撫で付けるように地面を均し、身体の正面でグラブを構える。鼻に届くグラブの独特ににおいの懐かしさに、全身の筋肉が収縮するのが解った。
 ここはマウンドではないけれど、目の前には球を受けてくれるキャッチャーがいる。自主練では決して望めなかったシチュエーションを目の前に、私の気持ちは簡単に掻き立てられた。初めて喋った先輩相手に投げることには、少しだけ緊張したけれど、それも投球モーションに入ればたちまち消え失せる。
 構えて、投げる。高々6球と言ってしまえば、その程度なのかもしれない。それでもそのたった6球を投げる中でどんどん、気持ちが高まっていく。
 先輩はキャッチャーとしても腕の立つ人なのだろう。中学の頃とはまったく違う音が鳴る。鼓舞された気持ちに乗せられて、最後の1球――スライダーは、今まで投げた中で一番綺麗に曲がった。
「へー、いいじゃん。身体がもう少し大きくなったらもっとスピード出そうだね。頑張んなよ」
「ありがとうございますっ」
 頬を紅潮させ、頭を下げると先輩は「律儀だねー」と笑う。お世辞かもしれないけれど率直に褒められたことが嬉しかった。興奮した気持ちを抱えたまま休憩所へ戻ると、口々に労いと賞賛の言葉を口にしてくれる。
 手放しに褒められることに慣れていなくて、うまい言葉が出てこない。会釈をすることで返事をするが、私の緩みきった表情を目にした彼女たちがそれを咎めることはなかった。
 フェンスに巻きつけていたタオルを抜き取り、表情を隠すように顔を覆う。緊張も理由のひとつなのだろう、帽子と額の間に生まれた汗を丁寧に拭いとった。
 タオルに顔を埋めていると、ふと、耳に砂を踏みしめる音が届いた。
 視線を持ち上げて周囲を見渡すと、部活生であろう男子たちが群れを成して走り去っているのが目に入る。この一週間のうちに何度も目にした姿に、ひとつだけ感嘆の息を吐いた。
 次第に離れていく足音は、ほぼ15分おきくらいに耳にしている。校舎の外を走っているのはどこの部活でも行われているが、ふざけながら走っている部活もある中で、全員が真面目に走っている姿は非常に好感が持てた。
 一年生ほぼ全員が彼らの姿を目におっている。その中に混じって私もまた彼らの背中を眺めていると、近くに腰掛けた先輩たちが口々に言葉をこぼす。
「バスケ部、よく走ってるよね」
「大会も近いからね。気合入ってるんでしょ」
「学校で一番走ってるもんね、あいつら。基礎が大事だって」
 先輩たちの声が耳に届き、外周を走っているのはどうやらバスケ部であることを知った。
 聞けば、インターハイ予選が近付いている時期は練習試合を多く組む、というのが習慣にあるらしい。体育館から追い出された1年生は、4月中は基本的に練習はほとんどランニングで、体力向上に努めるのが恒例になっているそうだ。受験でなまった身体を鍛えなおすためには、一番効率がいいとも言える。
 流れる汗をタオルで抑え付けながら彼らの走り去る姿を目で追っていると、あの人の後ろ姿を見つけてしまう。浮かび上がりそうになった声を押さえつけるために口元をタオルで隠し、意識から外すように先輩たちの話に耳を傾けた。
 バスケ部はシード権を獲得することも多く、更に言えば全国の常連校でもあるらしい。海南という高校と神奈川の双璧と例えられることもあるだとか。
 先輩たちの話に胸が湧き躍る。頬に走る熱は、栄冠を手にする彼らが身近にいるのだと知ったことで、全国大会が遠い夢ではなく、現実に起こりうるものなのだと改めて感じたからだ。全国で試合をするのって、どういう気持ちになれるんだろう、と俄然興味が沸く。
 もっと強いチームと当たれれば、自分の実力を確かめた上で更に高めていくことも出来ることだろう。考えるだけで肌がざわつくのが解った。
 いつか、そこに辿り付ければ味わえるだろうか。栄光が傍にある彼らの話を聞いてみたい。ふとそんなことを考えた。


* * *


 今日もまた、バスケ部は走っている。 先輩の言っていた通り、4月中はランニング、というのはどうやら真実らしい。外野でノックを受けていると、15分おきに彼らの気配を感じ取れた。
 初めてバスケ部が走っているのだと知った日の次の日も、またその次の日も彼らは外周を走り続けていた。規則正しい足音に、自然と面を上げてそちらへと視線を向ける者も少なくない。誰かが頑張っていることで、こちらも気を引き締められるような感覚になるのはみんな同じらしい。
 守備練習中の独特な掛け声に、先程以上の気合が混じって、グラウンドに響く。飛んでくるボールを捌きながら、ふとあの人の目を思い出した。
 ――そういえば、あの人はバスケ部だったけれど、どんなプレイをするのだろう。
 全国区だと言う翔陽に入ってきたと言うことは、結構巧い選手なのではないか、と勝手に考える。彼がバスケをしている姿を見ることは出来るんだろうか。あの日、逃げ出して以来、近寄ることさえできていない場所に踏み込むのに、どれだけの勇気が必要なのか見当もつかない。
 他校との練習試合があるのなら観に行けるだろうか。ふと、そんなことを考えたが、練習試合なんて日曜にするのがほとんどだ。私にもソフト部の練習があるはずだから、その願いが叶うことは無いだろう。
 小さく溜息を吐いた自分の気持ちに「残念だ」という想いが混じっているのが不思議で、少しだけ首を捻った。思い入れなんてあるはずもないのに、どうして彼のことを考えてしまうのだろうか。
 冷静に考えたものの答えは見つからない。罪悪感に触発されたのなら、今更謝れない以上、関わらないように気をつける、というのが正しい選択だ。頭で理解していてもなお、気落ちしている感は拭えない。
 考えたところで、逐一気にしてしまうのは変わらないのであればもうどうしようもない。あんな風にぶつかって、満足に謝ることも出来なかったのだから、罪悪感を抱いてしまうのも仕方の無いことだ。
 同じクラスの男子の何人かがバスケ部に入ったのだという話を小耳に挟んだけれど、数日前にが騒いでいた男の子の名前すらも朧気で、ランニング中の彼ら顔を見たところで誰が誰だか解らない。昔から人の名前を覚えるのは得意ではなかったけれど、高校に入ってからもっと顕著になった気がする。
 クラスの人だけではなく、同じ部活のメンバー、先輩、先生など一気に覚えないといけないという環境では、それも無理もないのかもしれない。
 それでも、男バスが走っているのを目にする度に、視界に一番に飛び込んできたのは、あの人だった。1人だけ坊主頭なのだというのも十分理由になるのだろうけれど、それを抜きにしてもどうしても目を引いてしまうのだ。
 頭を見て判断するよりも先に、彼の姿かたちを目にして、彼なのだと認識する。それから髪形を見て、やっぱりあの人だったと納得する、というのが常であった。
 坊主頭の彼は、精悍な顔つきでただ黙々と走っている。真っ直ぐに前だけを見て走る彼の、真剣な眼差しには、同じスポーツをやっている者として共鳴してしまうだけの想いが溢れているようで目が離せなくなる。目が細いと言うのも理由に含まれるのだろうけれど、彼のひたむきさが滲み出る表情や姿を目にするだけで、自然と身体に力が生まれた。
 バスケ部が走っているのを気にせず、そのまま見過ごせばいいのに、どうしても目が追ってしまうのは、もはや謝らなければという罪悪感のみが理由ではないのかもしれない。
 また、規則正しい足音が遠くから近づいて来るのを感じる。視線を転じればバスケ部の一団が走っているさまが目に入ることだろう。
 外野の守備についてノックを受けているというのに視界の端が気になっている自分に辟易する。集中できてないな、と左膝をグラブで叩いた。
 飛んできたフライを捌き、ホームに返球しようと身体を捻ったが、上手く身体を使うことが出来ず、指先を離れる瞬間に届かないという予感が駆け抜ける。
 案の定、ホームの手前でひとつ跳ねたボールに小さく溜息を吐く。ノーバンで返せなかったことに、受験時のブランクをまだ埋め切れていないことを実感させられた。
 以前であれば、練習中にうまく処理できないなんてことはほぼ無かったのに。そんなことを思いながら肩で息を吐き、頭を振るうことで気落ちする感情をかなぐり捨てた。
 回れ右をして列の最後に並び、肩口で口元の汗を拭う。ふと、視線をフェンスの方へと向けると、ちょうどバスケ部が近くを走っていることに気付いてしまう。
 今は練習に集中しなければ、そう言い聞かせたのに一度気にしてしまったせいで、視線を外してもなお、意識がそちらへと傾いてしまう。こうなってしまうと、もう彼の姿を目にしなければ練習と向き合うことはできないだろう。
 一秒だけ、そう心の中で呟いて視線をグラウンドの外へと転じる。
「あ……」
 すぐに目に入ったあの人の姿に、言葉が自然と唇から漏れる。グラウンドに入る前や休憩中に走るバスケ部をよく見かけた弊害だろうか。その度に視線を転じていたせいか、いつからか一瞬で彼の姿を見つけてしまうようになっていた。
 いつ見ても彼の視線は真っ直ぐで、それを見るだけで身が引き締まるようであった。よし、と一つ息を吐き、視線を元に戻そうとした瞬間、私の身体は固まった。
 不意に彼の細い目がこちらへと向けられる。当然、彼の姿を追っていた私の視線は彼の眼差しに絡め取られた。
 細い彼の目が丸みを帯びる。その変化にぐらりと心が動いた。距離があることで、この前のような身を固めるほどの緊張感は湧き出てこない。もしかしたら、一方的ではあったものの、ずっとあの人を見つめ続けていたから免疫が出来たのかもしれない。
 いつもならば逃げるように視線を反らすか、平常心を装いつつも意識を練習に戻すかするのだが、目が合ってしまったことに対して、何か反応を返したいという気持ちが沸き起こる。今度は逃げずに会釈してみた。おまけというほどにもならないけれど、口元も軽く緩める。
 笑いかけるような真似を、知り合いでもない人にしたことは初めてで、上手く笑えたかどうかは解らなかった。だけど、いつもの無愛想なものとはまた違った表情を、彼に知って欲しいと思ってしまったのだ。
 丸めていた目を更に見開いた彼は瞬きもせずに一心にこちらを見つめている。衝撃と書いてあるような表情に、馴れ馴れしいことをしてしまったと自らの行動を恥じるように唇を引き締める。
 だが、それでも「もしかしたら反応を返してくれるかもしれない」という僅かな希望を捨て切れなくて、あの人に視線を留めたままでいた。
 縋るような思いで見つめ続けていると、彼はほんの少しだけ眉根を寄せる。
 ――だめだ、困らせた。
 悪い方向へと考えてしまう悪癖が、陰鬱な気分を胸の内にぶちまけた。血の気が引くような冷たい感覚が腕に走る。やってしまった、と後悔が押し寄せたが、一度起こした行動を引っ込めることなど出来なくて、私もまた彼と同様に顔を顰めることしか出来なかった。
 唇を薄く開き、そっと呼気を吐き出した。これ以上見つめていても、彼の不興を買うだけだ。とっとと視線なんて外してしまった方がいい。
 自分から関わったのに、踵を返すような真似をするのは無礼かもしれないけれど、無遠慮に眺め続けることの方が
失礼だろう、だなんて考えに支配される。
 小さく息を吐き、視線を反らそうと顔を動かした瞬間、目の端で彼の微かな身動ぎを捉える。眼球の動きだけで彼の姿を確認すると、あの人は微かに頭を揺らして、そしてまた私の方へと視線を向けた。
 真っ直ぐに見つめられて、一切の喧騒が耳から遮断される。時間にしては一瞬のものだったのかもしれない。だけど、随分と長いこと彼の目を見つめ返していた気がする。
 会釈を返されたのだと気付いた瞬間、頬に熱が走る。走り去る間際に進路に目線を戻し、そのまま顔を伏せた彼の口元がかすかに緩んでいるように見えた。それは、私の都合のいい目の錯覚かもしれない。それでも、漸く彼に逃げずに向き合うことが出来たことで、先程落ちたばかりの気分がいとも簡単に高揚するのが解った。
 意識を元の練習へと戻すと、ちょうど私の前の人がボールを取ろうと捕球体勢に入っているところだった。グラブに弾かれたボールを取りに走る彼女に、緊張に身が引き締まる思いがした。
 今は部活中だというのに、他のものに気を取られてるという集中力を欠いた真似をした自分を戒めるために頬を手の甲で張り、目の前にある競技に意識を傾ける。頬が熱いのを誤魔化そうと下唇を噛み締めて、ボールを捌きながら横に退いた彼女の姿を視界の端に収める。
「次、ーっ! 行くよー!」
「はいっ!! お願いしますっ!!」
 先輩の大きな声がグラウンドに響く。先輩に負けないように、お腹の底から声を出した。
 ――あの人の耳に、少しでも入っただろうか。
 チラリと沸き起こった考えを頭を振ることで振るい落とし、軽い音と共に上がった白球を見上げる。浅いフライ気味になったボールを必死で追って落下地点に入ると、頭上に高くグラブを掲げ、真ん中で捕球する。鈍い痛みを手のひらに受けながら、即座にホームへと視線を転じた。
 私に向けて構えられたミットを確認すると、腕を強く引き、鞭のように撓らせて肩を振るう。すっきりとした思いで投げたボールは、キャッチャーミットに吸い込まれていった。



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