004

04. 魔球、スライダー


「おい、っ」
 お弁当を食べ終わった後、手を洗いに行ったの背中を追おうと私もまた席を立つと、背後から聞き慣れない声が飛んできた。その声の主を探して振り返ると、まだ少し幼さの残る顔をした男の子が立っているのが目に入る。
 背後に立つ彼に向き直るように体を捻る。視線を合わせると、彼は顎を少しだけ持ち上げて睫の長い目を瞬かせて私を見下ろした。不遜な態度とも言えるけれど、決して厭味には感じられないのはこの人のそのような態度が不思議と似合っているからなのだろう。
「お前、だったよな?」
 返事もせずに彼の顔を眺めたままだった私に、彼は少しだけ眉根を寄せつつも強気な態度は崩さずに言葉を放つ。自信ありげのその態度に、私は首を縦に揺らして応えることしか出来なかった。
 同じクラスとは言え、まだ話したことの無い彼の名前をすぐには思い出せなくて、無遠慮にも彼の顔を見つめ続ける。滑らかな色白な肌に、あまり外には出ないのだろうかと訝しみ、それと同時に脳裏に彼の姿を教室ではない場所で見たことがあることを思い出す。
――あぁ、確かこの人バスケ部の人だ。
 確かがカッコいいって言ってた相手で、名前は――藤井、だっけ? おぼろげな記憶を探ったがどうも確証を得ない。思いついた名前に自信がないことの現れか、自然と表情がぎこちないものへと変貌する。
「えっと、藤井? どうしたの」
「藤真だよ」
「……ごめん」
 名前を間違えてしまったことに対して不服そうな表情を浮かべた彼――藤真に、頭を下げて謝罪するが、藤真の表情は変わらない。端正な顔をしているからこそ、引き締まった表情にはある種の迫力が生まれる。失礼を働いたのは私の方だ。その自覚があるからこそ、心が萎縮するままに肩を小さくすぼめた。
「別にいいけど……お前さ、野球部だったよな?」
「いや、ソフト部……」
「お、そーだった悪ぃ」
 謝罪を口にした割に、ちっとも悪びれた様子を見せない藤真に、目を丸くする。驚きを表情に浮かべた私へと一瞥を投げて寄越した藤真は、なぜかつい先ほどあったはずの不機嫌さを一掃させた。歯を見せて笑い機嫌の良さを顕にした藤真は、私の頭を軽く手の平で叩く。
「お前さ、アレ教えてくれよ。ソフトの投げ方。アレ、なんつったかなあ」
「ウインドミル?」
「そう、それっ!」
 記憶の曖昧さに呻いた藤真に助け舟を出すと、またしても藤真は弾けるように笑った。
「えっと……でもなんで?」
「あぁ。昨日、駄菓子屋でこれ買ってよ」
 差し出されたのはプラスチックのバットだった。30センチくらいの長さで、グリップに安っぽいシールが巻かれているそれは、一目見ただけでも子供用のおもちゃだと見て取れる。サッカーボールやバレーボールのおもちゃと共に、駄菓子屋の天井から吊るされている様子が安易に想像できた。
 だが、それを見つけた藤真が嬉々として買ったのだと想像すると、ひどくミスマッチのように思える。高校生にもなって、だなんて言うつもりはないが、ひどくおかしな光景だ。抑えきれない笑みが浮かび上がるのを隠すように、手の甲で口元を隠した。
「上手で投げたら段々ヒートアップしてボール壊れちまったんだよ」
 自分の席に視線を走らせた藤真は、今はプラスチックの塊となったそれに一瞥を投げかける。ゴミとして捨てていないのは、分別の仕方がわからなかったからなのか、修繕を試みたいと考えているからなのか。読めない思考を尋ねるか否か考えてみたが、答えを出すより先に、藤真はまた視線を翻し、自らの手の中のあるものへと視線を落とした。
 釣られてそこに目を向ける。どうやら今は壊れてしまったボールの代わりに、配布されたプリントを丸め、ガムテープでコーティングされた歪な球体をボールとしているらしい。
 投手目線で見なくとも、投げにくそうに見えるそれを手の平で弄ぶ藤真は、「ほらよ」と、私の方へと投げて寄越す。触れると、思った以上にその歪さが手のひらに伝わって来る。
 うえ、と思わず付いて出た呻き声を誤魔化すように、手の中に収まった球体に両手をそえる。表面を均そうと、ロージンを塗りたくるようにして手の平で握り直していると、少しずつではあるが歪さが取れ、丸い形を生み出していった。
「かと言ってアンダーで緩く投げたらボカスカ打たれるしよ」
 恨み節を吐き捨て、私の手の中からボールを取り上げた藤真は、左手の中でボールを数度跳ねさせる。随分と慣れた手つきに、もしかして藤真は左利きなのかもしれないと漠然と考えた。
「だからさ、。ソフトの投げ方教えてくれよ。あれで打ち取ったら気持ち良さそうだし」
「えー……でも」
「いいじゃん、昨日投げてたろ。お前」
「投げたっけ?」
「投げてたよ。あれ、お前じゃねーの?」
 身に覚えのないことをあげつらう藤真に首を捻る。だが、私の反応を目にしてもなお語気を強める藤真に、昨日の部活に思いを巡らせる。
 昨日はほぼ一日、守備練習をしていたはずだった。グラウンド脇でのストレッチから順番に練習内容を思い返していると、休憩時間に差し掛かったところでひとつの記憶が脳裏に浮かび上がる。
 ――そう言えば、休憩時間中に先輩から見せてって言われて数球投げたんだっけ。
 ストレートとスライダーと、3球ずつ。ほんのわずかな数だったが、捕手に向けてボールを投げれる喜びと、先輩にいいところを見せたいという欲に抗えず、調子に乗って肩も作りきってないうちから目一杯に投げてしまった。いつもよりも鈍く重みを感じる肩は、昨日のようなことを続けるのはよくないと主張しているようだった。
「ランニング中に目に入ってさ。結構カッコいいなって思ったんだよ」
 ストレートな褒め言葉に、簡単に自分の気持ちが高揚するのがわかった。野球に比べるとソフトはメジャーではないし、そもそも男子のプレイ人口は少ない。興味を持ってもらえること、そして好印象を抱いてくれたことがありがたかった。
「な、いいだろ?お前の球ホントにスゲェって思ったんだもん。オレも投げてみたい」
 藤真の言葉は耳にくすぐったいくらいストレートだった。頼まれると嫌だというくせに、褒められると乗せられてしまうところのある私の扱い方を、藤真はからあらかじめ聞いてやって来たのだろうかと疑ってしまう。
「じゃあ……少しだけ」
「おう、頼むぜ」
 ポンと背中を叩かれ、善は急げと廊下へと誘われる。軽くではあるが肩を抱くような体勢のまま連れ出されることに、戸惑いを感じずにはいられない。馴れ馴れしい藤真の態度に顔を顰めながら、高校生にもなって男女の性差を感じさせない堂々とした様子に、ある意味感心してしまう。
 だが、こういう接触は苦手だ。居た堪れなさに耐えきれなかった私は、身を捩って躱そうと試みた。だが、そんな素振りに藤真はまったく気付かずに、私の肩を掴んだまま歩みを進める。
 藤真はどうやら物事に頓着しない性格らしい。反対に人見知りの気がある自分には急にこんな態度を取られると身を硬くしてしまうほかなかった。
 連れ出された廊下には、藤真の友達と思しき男子が数名輪になって集まっていた。藤真が「おい」と声をかけると、彼らは一斉にこちらを振り返る。
「お、来た来た」
「助っ人ってか。、よろしくなー」
 沸き立つ空気に驚いて藤真を振り返ると、目を細めて笑う藤真と目が合う。何も言わない藤真は、掴んでいた私の肩を叩き、そのまま廊下の中央へと押しやる。
 突然解放されたことに驚いてたたらを踏んで藤真の顔を見上げると、緩やかな軌跡を描いてボールを投げ渡された。
「よし、っ!頼んだぜ!」
 親指を立てて叫ぶ藤真を振り返り、転じて男子たちの集団に視線を延ばすと、右打席に見立てて立った男と目が合った。その相手に向かって、藤真はバットさえも投げ渡す。綺麗な回転で宙を舞うバットを見送りながら、藤真は可愛い顔しているのに、存外横着なのだなと考えた。
 難なく飛ぶバットをキャッチした彼に視線を向け、居るべき場所にキャッチャーが居ないことに気付き、違和感に眉を下げる。
「……どこに投げたらいい?」
 打たれること前提で投げることも、空振りさせて廊下をボールが駆け抜けることも嫌で、問いかけると、男子の一群の中で1人、手を上げた者が居た。
「お、じゃあオレ受けるわ」
 捕手役を買って出てくれた男子が、窓枠に預けていた背を起こしながら手を掲げた。胸に付けられた名札を盗み見て、彼の名前が高野であることを知る。
 チラリとその顔を確認すれば、厚めの唇が目に入った。口元から耳にかけてのラインには見覚えがあった。初日にバスケ部の見学に行ったとき、話しかけられたのは高野だったのかと記憶を付き合わせる。
「よしっ。いつでもこーい」
 打者の後ろに腰を落とした高野が叫ぶ。綺麗な教科書をミットに見立てて持つ高野に、まだ入学して間もないのにいいのだろうかと不安が沸き起こる。
 だけど、藤真がせっつくように「見せつけてやれ、っ!」と負けじと叫ぶものだから、驚きによる反射で一球を投じてしまう。
 もちろん、そんなに力は入れていない。だが、藤真たちが投げるよりも早い球を投げた自信はあった。打者のバットは空を切り、高野が構えた場所に寸分違わず収まると、廊下に低い声が響き渡る。
「おー! いいねぇ! それ! オレそれ投げたいっ!」
 少し離れたところに立っていた藤真が歓喜の声を上げて近寄ってくる。見様見真似で腕を撓らせる藤真は、どうやら運動神経がいいらしい。一見しただけのはずなのに、綺麗なフォームを繰り出す様子に、後はボールの握り方と指を離すタイミングさえ習得すればいい球を投げれるんじゃないだろうかと思えるほどだった。
 高野からの返球を受け、そのボールを藤真の手に乗せる。
「えっとね、じゃあ、まずこう持って……」
「こうか?」
「うん、そんな感じ。で、投げる時の肘は柔らかく回して……」
 基本の投げ方を教えようと、実際に身体をゆっくりと動かして見せる。だが、藤真は頭を降って拒絶し、スライダーはどう投げるのかと質問を投げかけてきた。
 基本を飛ばして聞かれることに、吃驚して目を丸くしてしまう。だが、同時にソフトを始めたばかりの頃の自分の記憶がフラッシュバックする。
 私も変化球を投げたくて、投げるフォームも覚えないうちから色々な球種の握り方が書かれた本を読んだものだ。興味があることから教えた方がいいかと思い直し、スライダーの握りになるように藤真の指を動かす。
「スライダーはこう持って……小指から抜くの」
「はあぁ? 小指から抜くってどういうことだよ」
「えっとね、投げるときに親指の方からじゃなくて、こう、手首を捻って……」
「あー、わっかんねーからちょっと投げてみろよ」
 頭に疑問符を散らしたような顔をしているくせに、不遜な態度を見せる藤真に吃驚させられたのは何度目だろうか。この短い時間の中で、もう片手では足りない数に迫っているのではないだろか。
 質問に応じる立場でこんな風に大きな態度で尋ねられた経験が無く、何度も目を瞬かせてしまう。気の強い男の子って苦手だなぁ、と頬を掻いて立ち竦んでいると背後から突然声が掛かった。
「なにやってんだ、藤真」
「あ、よぉ。一志もやろうぜ」
 不機嫌な態度から一変、藤真の声が弾ける。どうやら仲のいい人が来たらしい。高野もまた下ろしていた腰を上げ、私の背後に立つであろう人に向かって手の平を翳す。
 藤真の呼びかけを受けた相手は誰だろうか。気になって背後を振り返ると、すぐ後ろに立った相手の襟元しか見えず、目を丸くしてしまう。
 思いのほか背が高いのだなと視線を上げると同時に、相手の視線もまた下がったのか、私を見下ろす彼と、正面から視線が重なった。
「あ」
「あ」
 同時に漏れた言葉を、手の平で口元を覆うことで隠す。それは彼と私の両方で取られた行動だったが、私にとっては熱を持ちかけた頬を隠すためのものでもあった。
 手の平の下で唇を引き締める。藤真もバスケ部だったことは解っていたのに、彼との接点があると言うことを失念していた。同じ部活であるのならこの人と知り合いでも何もおかしいことは無い。
「……どうも」
 頭を揺らした彼に触発されて、私もまた頭を下げる。気まずさ全開の表情を浮かべているのは私だけではなく、彼もまた同じだった。眉根を寄せ、私から視線を外した彼の横顔を盗み見ながら、私もまたおぼつかない視線を定められずにいた。
 藤真が怪訝そうな顔をして私と彼の顔を見比べている様子が視界の端に映る。居た堪れなさに負け視線を足元に落とすと、同じ色をした上靴が向かい合っていることに気付く。それは私たちが同学年であることを示していた。
 ――先輩じゃなかったのか。
 ひとつ、気がかりが減ったことに小さな安堵が沸き起こる。だがそれも束の間の反応で、同級生であると思えばますます接点が増えるのかもしれないという考えが生まれた途端、にわかに心臓が早く鳴動し始めた。
 安堵なんてなかったとばかりの反応に、自然と顔が強張ってしまう。彼の出現に触発されたことは間違いないのだろうが、気まずさだけが理由ではないような気がした。
 身内に駆け抜ける緊張感は、マウンドで味わうものとはまた種類が違っていて、沸き起こった感情を持て余してしまう。
「なぁ、お前も野球やんね?」
「野球?」
 ――違う、ソフト。
 藤真の言葉に対してさっきみたいに言い返したかったのに、彼が目の前にいるのだと意識すると言葉が出てこなかった。萎縮してしまい、唇を引き締めたまま藤真と彼の会話を見守ってしまう。
 私がじっと見ていることに気がついた藤真は、私の隣に立ち、藤真よりも背の高い彼を見上げた。
「コイツ、マジカッコいいんだって」
 乱暴に頭を叩かれ、そのままの勢いで肩に腕を回される。簡単にパーソナルスペースをぶち壊す藤真に、こんな風に触られたのは先程のと合わせて2回目だった。だが、先程以上に身内に羞恥が広がり、耐え切れなくて藤真の肩から逃れた。目を丸くして私を見やる藤真を、彼は困ったような顔をして見下ろしている。
「まぁ、いいや。お前も絶対見た方がいいぞ。打席立ってみろよ」
「え、あ、おい。藤真」
 彼の背中を叩いて私の方へと押しやった藤真は、傍観者になるつもりなのか、一歩退いた。こちらへと近寄ろうとしていた高野に、もう一度座れと藤真は指示を出す。
 強引な藤真の態度に慌てる彼よりも私の方がきっと狼狽していたことだろう。彼に対して得意なソフトの投球を披露することは厭わない。しかし、もしも彼の満足するような投球が出来なくて「こんなものか」と、見下げられてしまったら、と怖くなる。
 出来れば紙のボールではなく、本気の投球を見てくれるのなら、決して見損なわせないだけのものは見せれるんだけどな。
 傲慢な考えを頭の中に展開していると、緊張の為に肩に力が入ったのを感知した。平たく言えば、彼の前でいい格好をしたい。その思いが心の底にあることに気付いてしまう。
「……あー、全然ダメだな」
 隣で一球を投じた藤真が呻く。私が先程教えたばかりの握りで投げたようだが、曲がるどころか高野の元に辿りつかずにボールは転々と廊下を転がるだけだった。
「次はなっ」
 激を入れるためにか、藤真に腰の辺りを叩かれる。痛がって顔を顰めているところに、高野からの返球が眼前に迫り、既のところで左手で受ける。
「一志、お前早くあっち行けって。打てるもんなら打ってもいいから」
 横暴な藤真の言葉に従う彼は、あちらへ向かう直前、一瞥を私に投げかけ「ごめんな」と呟いた。
 恐らく藤真の態度のことを詫びているのだろう。頭を横に振るうことで気にしていないのだと示すと、少しだけ口元を緩めた彼はそのまま緩やかな足取りで持って打席へと向かった。
「おい、。もう一回投げてみ? さっきのな」
 彼の謝罪の意図に微塵も気付いていないだろう藤真に指示されたことに対して、小さく溜息を吐き出した。逡巡したところで仕方が無い。

 ――どうにでも、なれっ!

 グラブは無いけれど、昨日と同じように鼻先にボールを構え、右腕を引き、腕を回転させる。普段のボールよりも幾分か軽いものを投げる違和感はあったものの、いつものタイミングで、それは手から離れていった。
 フォロースルーでは脇を締めて小指側からボールが抜けるように捻る。小さくジャンプし、俄かに緊張した身体を弛緩させ、ひとつ、息を吐き出す。
 紙で出来た球体とは言え、手を抜いて投げていた先程とは違い、随分と勢いを乗せてしまった。
 高野の元へとたどり着いたボールは、乾いた高い音を生み出し、グラブの代わりに使っていた教科書を弾いた。高野も、彼も、宙を舞う教科書を目で追っている。それは、数秒後に教科書が廊下に叩きつけられるまで続いた。
 冷静な観察は投手としての性だった。だが、唖然とした空気を肌に感じれば、瞬時に顔がひきつるのがわかった。
 今しがた自分が投げたボールの強さを思い出し、藤真に煽られるままに本気で投げてしまった自分を恥じる。いくらなんでも、例え男子相手であっても、廊下みたいな場所で本気になってしまうなんてありえない。こんなの、失態だ。
 捕手役をしていた高野も、打席に立った彼も、一様に口を半開きにしてこちらを見やったまま固まっている。ひとり、何食わぬ顔をした藤真は「おぉ」と感嘆の息を吐くだけであった。
「なっ、カッコいいだろ?」
 まるで自分が投げたかのように尊大に構える藤真は、同様に誇らしげにあの人に呼びかける。
 今しがた自分に起こったことが理解できないと言う風にマジマジと私を見つめる彼に、かぶってもいない帽子のツバを探したが、当然掴めるはずもなく、代わりに、と眉に掛からないほどの長さの前髪を掴んだ。
 危険極まりない球を投げてしまったことを彼が怒っていないかどうか確かめたいが、自分の蒼白な顔を見られたくない。矛盾した考えが、私に中途半端な行動を取らせる。
「……スゲェ」
 感嘆の息が交じる声に、弾かれたように顔を上げる。口の端を持ち上げ、彼は笑っていた。笑顔のまま私を振り返った彼の上気した頬は、興奮していることを示しており、醸し出された色気に中てられて、私の全身が熱を持つようだった。
 私が投げた球で、この人の心を動かすことが出来たのだと思うと、怒られるのではと怯えていた気持ちが簡単に霧散する。下唇に噛み付いて、沸きあがりそうな感情を堪えた。そうでもしないと、だらしなく口元を緩めてしまいそうだった。
 それでも目元に浮かぶ喜色を隠すことなど出来なくて、あの人に向けた視線を外すことが出来なくなる。彼がこちらへと歩み寄ってくるのを、期待に満ちた目で見つめてしまう。
 彼の笑顔を信じられないと奇跡に感じるよりも強く、今のこの場面を目に焼き付けていたかった。私たちの間に落ちていたボールを拾い上げた彼は私の正面に立ち、そっと私の手の平にボールを乗せ、笑ったまま私を見下ろした。
「カッコいいな、お前」
 初めて聞いたときと同じくらい低い声。だけど、その中に、確かにあった、優しい色。
 その声が耳に染み渡っていき、藤真に褒められたときよりも熱く、血が燃えた。



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