007

07. シークレット・シークレット


「一志だろ」
 自信満々といった表情で放たれた言葉は、おそらく藤真にとっては確信に満ちたものだったのだろう。ニヤリと口元を緩めて笑う藤真には、人を圧倒させるようなある種の迫力があり、自然とつばを飲む動作をしてしまう。
 思わず勢いに負けて肯定するかのように縦に動きかけた首を、辛うじて引き止め、そのまま横に倒した。藤真に言われた言葉を胸中で反芻する。だが、身に覚えのないことを探したところで記憶にないのだから確認のしようがない。
 カズシという名前の知り合いなら中学の時に何人かいた気がするけれど、その人達は多分、翔陽に入学してないと思うし、それ以前に最近見掛けた覚えもない。
 うちのクラスにでも「カズシ君」はいたのだろうか。少し記憶を遡ってみたものの、苗字すら曖昧な人が多いのに下の名前と顔を一致させるような芸当が出来るはずがない、
 そもそも結構話す藤真の下の名前すら思い出せないくらいだ。他の人の名前を思い出せなくても仕方がない。
「……誰それ?」
「誰って……お前なぁ……」
 早々に白旗を揚げると、机の上にも関わらず、片方の肩をガクリと落とすリアクションを取った藤真は、半眼で私を睨みつけてくる。その鋭さに、思わず怯み、一歩退いてしまうほどだった。
 そんなに睨まれても知らないものは仕方がないじゃないか。第一、人間観察なんて趣味じゃないんだからそんなに人を見つめた記憶すらないというのに。
 飲み込まれた反論が藤真に届くはずもなく、ただ曖昧に口を開いたまま藤真を見返すことしかできない。
 大仰に溜息を吐く藤真を尻目に、私もまた小さく息を吐き出す。言い掛かりのような藤真の言葉に呆れたいのは私の方だ。最も呆れ以上に、藤真には何を言っても無駄なのだという諦めの気持ちの方が大きくあったのだが。
 怒ったような表情でぶつぶつと文句を口の中で転がす藤真から視線を外し、廊下の方へと差し向けると、ホームルームが終わったクラスがあるのか、疎らではあるものの、人が通りすぎていく姿が目に入る。
 中学の時の知り合いや、同じ部活の友達、まだ話したこともない人らが通っていく中で、背の高い男の人の姿が目に留まる。ただそれだけの条件で、あの人かな、と一瞬で考えてしまう。早とちりな心音を誤魔化すように胸の上の制服を掴み、廊下を歩く彼の姿を目で追った。
 擦りガラスの窓を通り過ぎ、開いた扉の向こうを通るまでを見つめたが、その人は思い描いた人ではないということを知らされるだけであった。
 背の高さは変わらないくらいだったけれど、坊主ではなく刈り上げたような髪型だったし、体つきも少しあの人よりもいかつく見える。
 違ったのだ、と思うと同時に、唇からは溜息が漏れた。残念がるような行動を取った自分の感情に違和感を覚えたが、それを確認することなんて、藤真の前で出来るはずがない。
 妙にドギマギとした心臓を抱えたまま、藤真の様子を伺う。私の変調に気づいていない藤真は「永野じゃん」とポツリと言葉をこぼした。
 どうやら今の通りすぎていった人は永野というらしい。もしかしたら背も高かったし、またバスケ部の人だったのだろうか。
 それにしても高野といい、藤真の友達ってなんとか野って人が多いのかな。無遠慮に藤真の顔を見下ろしたままでいると、ふと脳裏に藤真の友達の、あの人のはにかむような笑顔が過ぎった。
 ――あの人の名前は何だろう。
 名前を知らないことを思い出すと同時に、妙に気になってしまう。意外と本当に、なんとか野だったりして、だなんて空想が頭の中に繰り広げられる。
 高野、永野とくればどうだろう。天野とか、茅野とか。もしかしたら佐野とかかもしれない。
 適当に知っている「野」のつく名前を例に挙げる。ありえない妄想に、手のひらの下で口元をほころばせた。
 友達を作るのに苗字に「野」がつかないといけないだなんて縛りを作るはずがないし、なんとなくだけどそういう名前じゃない気がしたからだ。
 こんな風に考えるくらいなら、とっとと聞いておけばよかった何度か話す機会はあったのに、何故かいまだに聞けてないんだよなぁ。
 あぁ、それにしてもあの人の――。
「……名前なんていうんだろうなぁ」
「誰の?」
 頭の中だけで考えていたはずだった言葉が、いつの間にか唇から漏れていたらしい。耳聡く聞きつけた藤真は瞬時に反応し、言葉尻を逃さないとばかりに私を見上げる。
 もともと大きい目を更に見開き、私の言葉を待つ藤真には、誤魔化しの言葉なんて通用しそうもない。言葉を引っ込めることなど出来ない代わりに、反射的に下唇に噛みついた。
「誰のって……藤真には関係ないよっ」
 藤真のニヤけた顔は、私の心境が手に取るようにわかると書いてあるようだった。感情を見透かされることを恐れた私は、反射的に羞恥の熱が走る頬を手のひらで覆い隠してしまう。その反応が決定打になったらしい。藤真はますます笑みのかたちを露骨なものに変えた。
「なに、お前なんも知らないヤツのこと好きなの?」
「好きって……違うよ、別にそこまでは……」
 軽口を続ける藤真の顔を見ていることができなくて、足元に視線を落とした。そういう話題を恥ずかしいと思っている自分と、無理矢理に意識させようとする藤真がイヤで顔を上げることが出来ない。歯を食いしばって羞恥に耐えながら、藤真への罵倒の言葉を頭の中に積み重ねた。
 藤真に言い負かされている気がする。違うんだと言葉で否定するだけでは足りない。灰色のスラックスが目に入った。この細っこい向こう脛を、おもいっきり蹴ったら、さぞかし溜飲が下がる事だろう。
 暴力で解決することはよくないこととわかりつつも、そんな乱暴なことを考えてしまう。そのくらい藤真の言葉は唐突で、脈絡の欠片も無いものだった。
 なのに、どうしてだか藤真の言葉は私の心を掻き乱す。まるで知らない自分をどんどん暴いていくような恐ろしさが藤真の言葉にはあった。
「でもよ、もさ、そいつの名前くらい知りたいと思わん?」
 顔を伏せたままでいたのに、下から顎を掴まれ強制的に上を向かされる。ついでに、とばかりに、また頬の肉が盛り上がるように押し潰されると、簡単に私の顔は歪んだ。
 藤真はこうやって躊躇もなく人の顔を触ってくるから困る。してる方は気づかないだろうけれど結構痛いんだよ、これ。
「……お、思うけど、そりゃ、気にはなるし……」
 言って、しまったとすぐさま口をつぐむ。あの人のことを気にしているということさえも藤真にはバレたくなかった。
 チラリと脳裏によぎった笑顔の持ち主の名前を、鬼の首取ったかのようにせせら笑う藤真が知っていることは間違いないだろう。
 ついこの前、廊下でソフトした時に藤真があの人の名前を呼んだのを聞いたはずだ。だけどその名前の欠片を思い出せないどころか、カズシ君であってたのかどうかもわからない。
 だからといって、藤真に今ここであの坊主の人の名前は何なのか尋ねることなんて もっと出来ない。そんなことをしてしまえば、どれだけ面倒くさいことになるか、想像することさえ恐ろしい。
 真っ直ぐに見上げてくる藤真の視線に怯みそうになる。だが、そういつもいつも負けてばかりではいられない。意を決して、私もまた同様に藤真を真っ直ぐに見返した。
 珍しい反応に藤真は一旦は目を丸くしたものの、すぐさまニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。満足気な顔をした藤真は私の顎から手を離し、腰掛けていた机の上から飛び降りた。
「よし、じゃあ合ってるかどうか今から見に行くか」
 善は急げとでも言いたいのか、藤真は私の腕を掴んで教室外へと連れだそうとする。今、この状態で彼に会うなんてとんでもない。踏ん張って拒絶しようと足に力を入れたが、思いの外力強く引かれたため、突っ張った足では抵抗できず数歩分引きずられるように歩いてしまう。
 だが、このまま進むなんて絶対に嫌だ。強い意志を持って、私の腕を掴んだ藤真の手を、反対の腕でしっかりと掴む。
「無理無理無理無理無理無理」
「何回言うんだよ」
 踏み止まった私を怪訝そうに振り返った藤真に、左右に首を振り散らして答えると、藤真は目を細めて呆れたように溜息を吐いた。
 呆れられたっていい。今すぐあの人に会いに行くだなんてそれだけはできない。それも、藤真は私があの人を好きなのだと誤解している状態で連れていかれたら何を言われるかわかったもんじゃない。
 チラリと過ぎった彼の笑顔に、勝手に頬が熱を帯びて行くのが解った。それをまたしても目ざとく藤真が拾い上げる。目元を赤く染めた私の表情を盗み見た藤真は、小馬鹿にするように白い歯をこぼした。
「よし、分かった。じゃあこうしよう」
「……うん?」
 こちらを振り返った藤真は、ようやく私から手を離してくれた。また腕を掴まれてはたまらない。解放された手をそのまま胸にくっつけるようにして防御の構えを取り、藤真の言葉を待つ。私の警戒心を目の当たりにした藤真はひどく面白そうに笑った。
「お前さ、最近外周走ってることあるよな?」
「うっ……うん?」
 あの人のことから話が逸れたことに安堵した。だがそれ以上に、先程までの執拗な追求が消え失せたことに肩透かしを食らってしまう。結果、返事が曖昧になってしまう。
 ストレートではなく変化球で会話が続けられるのでは、と危惧し、ますます身構える腕に力が入った。反射的に右足を一歩引いたのは、次に発せられる藤真の言葉によっては、教室から逃げ出すことも辞さないと頭の片隅で考えているせいだろう。
「じゃあ外周走る時体育館の前通るだろ?」
「う? うん……」
「そん時さ、タイミング見計らって一志と外に出るから、もしも当たってたら合図寄越せ」
「合図? なんの?」
「こう……目配せ的なこと出来るだろ?」
「いやだ。ウインクとかぶりっこくさい」
 目配せの合図のつもりなのだろう。藤真が片目を瞑って示すものだから、反射的に拒絶してしまう。キッパリとした態度になったのは自分がそんな行動をすることに違和感があるのと、ウインクが似合うのはアイドルくらいのものだと思っているからだ。
 唐突に嫌悪感を見せたせいか、藤真は面食らったように目を開き、手のひらで自分の額を覆いながら大仰に溜息を吐いた。
「もーいいわ、お前」
 呆れと共に零された言葉の裏に潜む意味を敏感に感じ取り、私の背筋は自然と伸びる。藤真の言うことよりも部活に意識が傾き、気もそぞろな状態だった私にとって今の言葉は解放にも等しい言葉だった。
「じゃあもう部活行っていい?」
 嬉しさに顔がほころぶのが解る。そして私の表情の変化を見た藤真が反対に顔を歪める理由もわかったけれど、それは無視することにした。
「おぉ。でも声掛けるからな。ちゃんとこっち見ろよ?」
「はいはい。わかりましたよー」
 藤真にとっては話に決着がついたというわけではないことはわかっていたけれど、そこはあえて無視させてもらう。
 提案に生返事で応えた私は、自分の席に置いたままだった鞄を引っ掴み、意気揚々と藤真に手を振る。そんなわたしを一瞥した藤真は、憎らしげな表情を浮かべたが、あっちに行けとばかりに手をヒラリと翳す。
 睨むような藤真の視線が私を追っていることには気付いていたが、これに絆されて話を続けることなんてできない。藤真の気が変わる前に、と笑顔を残して教室を飛び出した。



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