008

08. レッド・インフェクション


 ソフト部のランニングコース。それは女子部の割にはしっかりと走らされるものだった。ルートはこうだ。まず校庭の外周を大きく走り、校門を出た後は学校の外周を、それから体育館の前を走ってまた校庭に戻る、というものだ。1周が約2.5kmから3km程度で、グラウンドを使える日はおよそ5周、使えない日は10周のノルマを課せられることが多い。今日は後半から野球部が屋内練習をするらしいから、グラウンド練習前に5周走ることになっている。
 マラソンの後の疲弊した状態なら、きっと守備練習の成果もよくなるだろう。そんなことを考えながら走っていたが、1周目の後半にさしかかり、体育館が目に入った瞬間に、ヒヤッとした感覚が背中を走った。それと同時に頭の中で藤真の声が響く。
 ――お前の好きな男を暴いてやる。
 せせら笑うような顔も同時に思い描かれて、思わず首を竦めた。実際の発言とはかなり違うけれど、嫌なイメージが増幅されて、悪い方に過大解釈してしまう。 
 先程は逃げることだけ考えていたから流せたけれど、冷静になって考えてみればかなりまずい。非常にまずい。
 恋愛の話題は、私にとってはそもそも苦手なジャンルだ。中学生の時だってかっこいいなと思う相手がいなかったわけじゃないけれど、それ以上に気持ちはソフト一直線だったし、誰かに恋愛感情を抱くことが気恥ずかしいと話題から避けていた。
 からの追求も中学3年間を経て、やっと話題に出しても無駄なのだと悟ってくれたのに、またこれから藤真に聞かれるのだとしたらと思うとぞっとする。ましてや、藤真なんて付き合いが短いのだから、何を言われるか解ったもんじゃない。
 勝手に決めつけられて、私が冷やかされるくらいなら我慢はできるけれど、もしもその相手に迷惑をかけてしまったら。そう考えるだけで頭の中が謝罪の言葉で埋め尽くされるようだった。心なしか顔から血の気が引いているような気がするのは、藤真の言葉が影響を及ぼしているからに違いない。
 酩酊感に額を手で抑えると、隣を走る部活の仲間から「大丈夫?」と気遣われた。どうやら彼女に、走ることに対して具合が悪くなったのだと勘違いさせてしまったらしい。それに「大丈夫」という言葉とともに笑みを浮かべて応え、また進路へと目を向ける。
 ぴっちりと閉ざされた体育館の扉の奥から、ボールを突く音や体育館を踏みしめる音が聞こえてくる。どうやらまだ休憩時間に入る気配はないようだ。安堵に胸を撫で下ろし、首にかけたタオルで口元の汗を拭う。
 休憩時間は部活によってまちまちだ。定刻で決まっている部活もあれば、練習の中で適宜のタイミングで休憩をとる部活もある。
 バスケ部がどうかは知らないが、5周走る間にバスケ部が出てこなければ今日の安全は確保される。休憩であっても藤真が出てこなければいいのだけど。そう願ってしまうのは無理も無い話だ。
 合図をよこせなんて言われた所で、無視すればいいだけのことなのだが、そんなことをしたら藤真が突拍子も無いことをしそうだという不安が拭い去れない。これ以上、困りごとを増やしたくないのだが、藤真はそう簡単には許してくれそうにないという予感ばかりが募り、自然と表情が暗いものになる。
 唇を内側に引っ込めてぎゅっと噛み締める。何かいい対処法はないものか。要は藤真を納得させればいいだけなのだ。好きな人なんていない。藤真が勘違いしているだけなのだ、と。
 体育館の前を通過して、グラウンドが目に入ると、不意にひとつの案が頭を過ぎった。
 ――そうだ。違う、って合図すればいいじゃん。
 その考えを思いついた瞬間、自然と頬が緩み、思わず歯を見せて笑ってしまう。いくら藤真だって、私が違うのだと合図すれば、それを否定することなんて出来ないはず。走るのに合わせて腰の高さで振っていた腕を止め、小さくガッツポーズを取る。
 絶望の際で思い浮かんだ解決策は、私にとって会心のものだった。普段、マウンドでさえ滅多にしない動作が飛び出てくるほど、胸の内に安堵が広がっていく。
 違うって合図は捕手のサインに首を振るうようにすればいいかな。それとも、いっそのこと胸の前でバツを作るくらいおどけてやろうか。練習中にふざけるような真似をするのは嫌いだから実際にはしないだろうけれど、勝手に頭の中だけで展開する妄想は楽しかった。
 自分の取るべき行動が頭にあるだけですっと心が楽になる。自分で思っていたよりも強くプレッシャーを感じていたらしい。
「よしっ」
 首にかけたタオルで口元を拭いながら、その下で口元に笑みを携える。気持ちに余裕が出てきたおかげで、ランニングの列を乱すまではいかないが、足取りが急に軽くなった。
 調子に乗った私は、さっさと藤真出てこい、だなんて思うほどに浮かれきっていた。


* * *


 重石の無くなった軽やかな気持ちで4周を走り終えた。あとはこの最後の周回だけ乗りきれれば今日の嫌なイベントは出現することなく潰えることになる。
 一定のペースを守り走り続けていると、程なくして外周を走り終え、校門を通り過ぎれば体育館へ続く道に差し掛かる。
 ここが、最後の山場だ。そう思うと同時に、軽い足取りに枷がかけられたかのように走行に乱れが生じる。隣を走る子の心配そうな視線は、疲労が足に来たのかと探るものなのだろう。だけど、目下、私の注意は体育館へ向けられているため、藤真の出現を恐れているのかと気付かれはしないかと危ぶんでしまう。
 顎を引き、まだ程遠い体育館の屋根を睨み据える。いつバスケ部が外に出てきても耐えてみせると意気込んだものの、一向に出てくる気配がない。
 5周も走っていれば体中が気怠さに支配される。余計なことを考える余裕が無くなってきたのもあるが、自分にとって楽な方へ考えが傾いていく。もしかしたらもうバスケ部は出てこないのではないかという期待が湧いてきたのだ。
 ここを過ぎれば今日はもう藤真から追求されなくて済む。明日に持ち越すのなれば、それもまた面倒くさいのだが、今日はひとまずの平穏が欲しい。否定すればいい、という考えはすでになかった。危機に直面し、考えを翻したのもひとえに保身が働いた結果だ。
 体育館の入口が目に入り、次第に近づいて行くにつれて、疲労とはまた別の意味で心臓が締め付けられるような感覚を味わった。食道の辺りが詰まったような息苦しさは、胸が緊張によって支配されていることを如実に表している。何かに縋りたくて、自然と首にかけたタオルに手が伸びた。
 ――来る。
 予感が走る。それと同時に体育館の入口が開くのが目に入った。
 嫌な予感というは得てして当たるもので、約束通りにいの一番に藤真がそこから出てくる姿が目に飛び込んでくる。走りながら帽子の角度を整える。普段よりも目深に被ってしまったのは、防衛本能が働いたせいだろう。
 チラリとこちらへと視線を向けた藤真は、すぐさま私を発見し、おもちゃを見つけた子供のように嬉しそうに笑った。
「あ、おーい、っ!」
 藤真の叫び声が耳に届くと同時に、身の置き所がない状態に追い込まれる感覚を味わった。藤真と、藤真が私が好きだと誤解している人が出てくることには備えていた。だが、まさか、あんなに大声で名前を呼ばれるなんて微塵も考えてなかった。
 名前を叫ぶ藤真は当然だが、呼ばれた私もまた嫌でも目立ってしまう。部活仲間の視線が私に集中することで、それに誘導されたバスケ部の視線もまた私に集まった。
 あまりの羞恥に、帽子を更に下げる。顔を上げることが出来なくて、内心で何度も藤真のバカと罵った。私の心境をちっとも理解しようとしない藤真は、いつまでも面を伏せたままの私を急かすように何度も私の名前を叫ぶ。
 無視していたかったのに、私以上に周囲がそれを許さない。部活のメンバーの視線が集まるだけではなく、自然と周囲を走っていた子らが私から距離を取っていく。
。呼んでるよ」
 トドメとばかりに、いつの間にか先頭を走っていたはずのキャプテンが隣まで下がってきて、茶化すように背中を叩く。それは悪意などなく、おそらく私が出るに出れないということを察してくれたからこその行動なのだろうけれど、出来れば私を隠したままこの場を去ってくれた方が何倍もありがたかった。
「あの子彼氏?」
「かわいい顔してるのに情熱的」
 たっぷりと誤解を含んだ周りの表情と言葉に「違います」と返したけれど、まともに取り合ってくれるはずもなく、軽やかな笑い声で私の言葉を流してしまう。
「ウチらに遠慮しなくていいから」
 照れているのだと思っているらしい先輩たちは、部長と似たような笑いを浮かべ、口々に冷やかしの言葉を告げながら私の肩や背中を叩いてくる。走りながらの衝撃は受け止めにくいもので、足元が覚束なくなるには充分だった。
 それが続けば自然と方々に弾かれ、輪から飛び出す格好になった、
 ひとり、放り出された私を見つけた藤真はようやく私の名前を呼ぶのをやめてくれたのだけど、どうしてもそのまま素直に藤真の方を向くことが出来なかった。あまり目立つのは好きじゃない。このまま列の最後にでも並んで走ろうと、身体を反転させ、少しの距離を逆走する。
 こんな羞恥に塗れる羽目になったのは間違いなく藤真のせいだ。言い様のない苛立ちが心中に広がり、藤真を睨んでやろうと顔を上げる。
 藤真は藤真で無視する私に腹が立っていたのか、不機嫌な声で「、てめぇコッチ向けって!」と叫んだ。
 羞恥に涙の滲む瞳で、大声の主に視線を向けた。だが、藤真の姿が目に収まるよりも前に、勝手に視線が左にずれる。吸い寄せられるようにして身体が反応したことに、自分自身が戸惑いを覚えるほどだった。
 シフトした視線の先にいた相手は、藤真よりも少し背が高い、坊主頭のあの人だった。
 驚いた顔をして私のことを見ている彼の顔を目にした瞬間、藤真の声だとか、恥ずかしいだとか、雑念がすべて吹っ飛んでいってしまった。息が詰まったのか、胸と喉の間がつっかかり、痺れにも似た感覚が走る。
 弾かれた私がおかしかったのか、私を安心させるためか、理由は解らない。だが、たしかに彼は私と目が合うとほんの少しだけ口元を綻ばせた。胸の高さまで手を持ち上げ、こちらへと翳す。
 ほんのちっぽけな合図だ。だが、彼の行動に、胸が歓喜に占められていく。その反応は当然、表情にも現れる。つい先程まで怒りや羞恥で強ばっていたものが、簡単に解けてしまうほどだった。
 ただ、反射的な感情が過ぎてしまえば、控えていた気恥ずかしさが湧き出てくる。だらしなく緩んだ口元を隠すために首にかけたタオルで覆う。本当は手を振り返したかったけれど、藤真や部活の仲間が見ているかと思うと、余計に行動に移せなくなる。
 せめて会釈だけでも、と頭を下げたが、錯乱状態に陥っていたため勢いをつけ過ぎてしまう。頭を垂れるどころか、エア頭突きのような仕草は、どう贔屓目に見ても会釈には見えなかったことだろう。
 失態を犯したことで居た堪れなさに拍車がかかり、走るペースを上げて、その場から逃げ出した。途中を走っていたチームメイトたちをすべて抜き去り、一目散にグラウンドに戻る。当然、ソフト部のために解放されたグラウンドには誰の姿もなく、そのことにようやく安堵した私は、その場に崩れ落ちるようにしてしゃがみ込んだ。
 息が苦しいのも、顔が熱いのも、走ったせいなのだと自分に言い聞かせたが、どんな言い訳も通用する気がしなかった。藤真の言葉が頭の中に鳴り響く。

 ――なに、お前なんも知らないヤツのこと好きなの?

 あの時は言葉の意味を深く考えずに流すことができたけれど、改めてあの人の顔を見てしまうと、急激に意識してしまう。藤真は、私があの人を好きなのだと知っている風であった。知っているというのは疑っているとか、勘付いているとか生易しいものではなく、確信しているということだ。
 私だって性格どころか、名前も知らない相手を想ったつもりなんてない。だけど、頭で考えていることとは裏腹に、勝手に身体が――心が反応してしまう。
 藤真が変なことを言うからいけないんだ。責任転嫁のようなことを考えて、頭を振った。大事なとこはそこじゃない。
 言葉では言い表せそうにもない感情が、今、胸に渦巻いているという事実が拭い去れないのであれば、それを受け入れるしか道はない。頬が熱い。手の甲で何度も頬を擦る。私が知らなかった感情を、藤真が先に見つけてしまったから混乱したけれど、辻褄が合わないわけじゃない。むしろ嫌になるほど、妙にストンと胸の中にハマるくらいだ。
 ユニフォームの前を掻き集めて、何度も深呼吸をした。膝をついたままの体勢から、右側にそのまま倒れ、それでも飽きたらず仰向けに寝転がり、右腕で目頭を抑える。袖口に付着した砂が顔に当たったけれど、それを気にすることすら出来ないくらい追い込まれていた。
 胸が苦しくなっているのも、泣きそうになっているのも、悲しいとか、苦しいとかじゃない。
「――すきだからなんだ」
 掠れた声で紡がれた言葉は誰にも届くことなく、青空に溶けていく。


 次の日、藤真はあの人の名前を勝ち誇ったように教えてくれた。




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