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09. 欲に抗う手立てなし


 学校に行きたくない、と考えることは別に珍しいことじゃない。試験の前だとか、すごく雨が降っているだとか。取るに足らないことがネックになって渋々登校することはよくあることだ。
 ただ、今日みたいに陰鬱な空気を纏い、学校への道を辿るのは滅多に無いため、身内にある感情をどう処理していいものかと悩んでしまう。もちろんソフトの朝練があるのだから、それに間に合うように行くし、部活が始まればこんな腑抜けた表情なんてしない。
 だけど朝からこんな凄惨な顔をして学校へ行く羽目になったのは間違いなくある男のせいだった。
 藤真健司。同じクラスの、バスケ部の男。そして――。
「ああああああああ」
 道端であることも忘れて、頭を両手の平で掴んで悶絶する。肩に掛けたスポーツバッグは前傾したと同時にずり落ちて、思わず地面に膝をつきそうになる。
 傍目から見たら一人でなにやってんだとツッコミを入れざるを得ないようなリアクションを取ってしまったが、まだ朝が早いからそんなに人通りがないことは不幸中の幸いなのかもしれない。
 もっとも、誰か知り合いがいればこんな風には嫌なことばかり頭を駆け巡らなかったのかもしれないが。
 膝頭を手のひらで抑え、昨日の部活での出来事を思い返す。藤真から逃げ出した後、グラウンド内に戻って来た先輩たちからは当然からかわれたし、同学年の子たちも藤真とデキてるのかと様々な反応を向けられたが、そんなもの大したことじゃない。そこには私の真実は何ひとつ無いのだから。
 だけど、真実を知る相手にはそうも行かない。誰よりも、何よりも。一番怖いのは藤真だ。
 昨日の一連の流れを目にした藤真に何を言われるのかと想像すると同時に背中に冷たいものが走った。三日月の形に目を緩ませた藤真が脳裏を駆け巡る。頭から出て行け、とばかりに大仰に頭を振り散らした。
 おおきく息を吐き、額にかかる髪の毛を指の甲で撫で付ける。頭を振っても髪の毛が邪魔にならないのだから、短い髪ってこういう時便利だ。ソフトのために短くしている髪型を手櫛で整え、膝頭をひとつ叩いて面を上げる。
 背筋を伸ばした途端、前傾姿勢を保ちすぎたのか、眼の奥が貧血の時みたいにチカチカと痛む。昨夜は藤真の反応が怖くて、あまり眠れなかったからそれも理由のひとつだ。
 目を細めながら、思う。昨晩眠れなかったもうひとつの理由。自然と俯いてしまい、手の甲で口元を抑えつけることで溢れ出そうな感情を飲みこんだ。
 チラチラと昨晩から頭に浮かぶ、目の細い彼の優しい笑顔。

 ――私、あの人のことが、好きなんだ。

 胸の内を去来する感情をかたちにすることで、必要以上に自覚してしまい、瞬時に頬に熱が走った。 まるで目薬をさした時のように視界がぼやける。 血の流れが耳のすぐ側でリズミカルに聞こえ、堪えるように深く瞑目した。
 瞼を透かして光る外界を意識から遮断し、昨日自覚したばかりの感情を反芻する。
 彼とは互いのランニング中に目があうことは何度かあったし、あんな風に手を掲げてくれたことだって初めてじゃない。ただ、私の中に投げ込んだ藤真の言葉が、否が応でも彼のことを意識させた。
 気付かないうちに蓋をしたのは、私が彼のことを何も知らないからにほかならない。まさか、いや、そんなわけは、と何度も浮かびそうな可能性を否定した。
 かつてあの人が触れたことのある右肩口に左手を添える。それだけでは足りなくて、手に触れた衣服を縋るように掴む。 じわりと胸の内に走る痛みを堪えるため、ぎゅっと目をつぶった。
 痛みといっても苦しみだけではない。そこにほのかに混じる喜びは昨日藤真に暴かれる前から存在していた想いだった。名前すらも知らなくとも、あの人の声が、手が、人となりが、優しいことを知っている。
 ――それだけで、充分だ。
 意識しなければ緩みそうになる唇をきゅっと引き締め、背筋を伸ばして身を起こす。身なりを整えるように肩にバッグをかけ直し、ひとつため息を吐いた。
 厄介な藤真を振り切るための手立てなど思い付かないが、ここで蹲っていたところで状況が改善されるわけではない。そもそも、まだ朝練があるのだから教室に行くまで猶予があるし、うまく時間を調節してギリギリに教室に入れば藤真と顔を合わせなくても済むかもしれない。
 朝礼の後の休み時間さえ凌げばすぐに授業が始まる。授業が始まってしまえばそう簡単には話しかけられないし、休み時間の度に藤真が私に話しかけようだなんてあるはずもない。
 もし藤真が動こうとしても高野あたりがなんの気もなしに藤真に話しかけたりするだろう。ぐいっと手の甲で口元を拭い、もう一度学校への歩みを進めた。


* * *


 誰に鉢合わせるでもなく、正門へと辿り着いた。ソフト部の子にさえ会えなかったのは少し残念だったけれど、どうせ部室に行けば顔を合わせることになるし、昨日さんざんからかわれたことを思えばこれでよかったのかもしれない。
 一安心、とばかりに溜息を吐き出す。ここまで来れば、もうあとは藤真の立ち入ることのない部室、そしてグラウンドへ向かうだけだ。
 微かに口元に浮かぶ笑みを隠さずに正門をくぐる。部室へ向かって一直線だ、と意気込んだ瞬間、右側から快活な声が投げかけられた。
「よぅ、
 耳に飛び込んできたその声の持ち主の姿が脳裏を過り、にわかに背筋が伸びた。安堵感に緩みきった顔が引き攣っていくのが自分でもわかる。
 今の声は、一番会いたくない相手、藤真の声だ。
 振り返って確かめようかと逡巡したが、目を合わせるリスクがあまりにも高過ぎる。まるでサバンナの猛獣に対するような評価だが、そんなものは簡単に日本でお目にかかるわけがないし、自らこっちに出向いてくる藤真の方が性質が悪いというものだ。
 聞こえないふりをしてそのままやり過ごせる相手ではないのなら、いっそ走って逃げてしまおうか。
「ナニ無視してんだよ、お前」
「ぎゃ」
 走ろう、と足に力を入れた瞬間、無遠慮に後頭部を掴まれ、そのまま蛇口を撚るように首を回される。視線が合わせないように泳がせるだけの抵抗も虚しく、程なくして半眼で睨み据える藤真の姿が目に入った。
 こうなってしまえば、観念してその場に踏みとどまるしかなさそうだ。力なく肩を落とし、そのままの勢いで溢れる溜息を隠しもせずに吐きこぼした。痛む首を庇うために体全体で藤真を振り返ると、ようやく頭から手を離される。
 乱暴に外されたせいでたたらを踏んでしまう。結果、普段以上に藤真との距離を詰めることになり、右目の上あたりを藤真の胸にぶつけた。
「長谷川一志」
 解放されたばかりの頭に走る痛みを緩和させようと手で撫で付けていると、不意に藤真が口を開いた。目線だけを持ち上げて藤真を盗み見ると、藤真は極上の笑みを浮かべて私を見下ろしていた。
「知らなかったみたいだからな。一応」
「だ、誰、それ……」
「誰ってお前……この期に及んでそういうこと言うのかよ。お前の好きな男の名ま……」
「わぁ! 言わないで!」
 ほんの小さな抵抗のつもりで口にした誤魔化しは藤真には通用しない。ピッチャーライナーのように鋭い返答をされて、瞬時に顔が赤く染まる。両手のひらを藤真の口元に押し付けると、突然の私の行動に驚いたのか、藤真は肩に掛けていたスポーツバッグを取り落とした。
 苦しそうに顔を歪ませた藤真は、呆けることなく素早く攻勢に出る。両手首をまとめるように掴まれ、簡単に藤真の口元から引き剥がされてしまった腕は、私の力で振りほどくことは容易ではなかった。
「……そんな真っ赤な顔してさ」
 呆れたように言う藤真は、じろりと私を睨み据える。指摘された頬を隠したくて腕に力を込めたが、藤真は手を緩めることをしない。腕を掴んでる間は口を塞がれないことに安堵したのか、それとも私の顔が面白いのか、藤真は不敵に笑った。
 残る足で脛を蹴ってやろうと伸ばしたが、軽く足をあげられればその攻撃は空振りに終わる。
「だから言ったろ? お前は一志のことを見てるんだって」
 ムキになって今度は足を踏んでやろうと足を持ち上げた。だが、踏みしめるよりも先に藤真が放った言葉にますます居た堪れない気持ちに支配される。力なく下ろした足は地面を踏んでもなお、満足に力が入らない。もじもじと足元を踏み固めてみたが、焦燥や不安が胸にある状況ではなにひとつ改善しなかった。
 藤真から顔を隠すために頭を下げる。腕を掴まれたまま身動ぎしてしまったため、中途半端にずり下がった鞄の紐が制服に引っかかる。それを目にした藤真は、辟易したとばかりに重い溜息を吐きこぼした。
 私が逃げだなさいと判断したのだろう。藤真は乱暴に私の腕から手を離した。思っていたよりも藤真の手を頼り立ちつくしていたらしく、支えが無くなった途端に、膝から力が抜けその場にしゃがみ込んでしまう。
「部活中にあんな視線寄越してたら誰だってわかるっつの」
 頭の天辺に落とされた言葉を受け止めきれなくて、両膝に手を乗せてそこに額を押し付けた。
「……認めたか?」
 藤真が投げかけてきた質問の答えはひとつしか用意されていない。だけどそれを藤真に素直に伝えるのは憚られて下を向いたまま頭を振った。
「ホント強情な女……」
 また溜息を吐き出した藤真は爪先で地面を叩く。苛つかせてしまったのだろうか。チラリと顔を持ち上げて藤真の表情を盗み見たが藤真は自分の顎に手を当てて逡巡しているようだった。
「一志に聞いたんだけどさぁ、お前バスケ部入る気あったのか?」
 斜め上に視線を持ち上げたままだった藤真から予想だにしなかった質問が飛んでくる。
「え? ないよ」
 顔をきちんと上げて頭を振るうと、そこで藤真は私に視線を落とした。
「だよなぁ……」
「なんでそんなこと聞くの」
「一志がさ、お前が見学に来てたの見たって言ってたんだよ」
「え!」
「2回来てたんだって?」
「うお!」
 体勢こそしゃがんだままではあるものの、藤真の発言を受けた私は勢い良く背筋を伸ばしてしまう。そんな反応を見た藤真は、手の甲で口元を隠しながらも、さも面白そうに笑った。
 咄嗟に誤魔化そうと視線を逸らしたものの、嬉しさに顔が緩むのは抑えきれなかった。2回、と藤真は言った。それは正しく、私がに連れられて部活見学へと体育館に趣いた数と合致する。
「うわ……」
 あんな些細なことだというのに、あの人は覚えていてくれたのか。喜びが満ちていくと同時に、自然と頬が緩む。
 顎を引き、目を伏せても藤真の楽しそうな表情が見えるようだった。ニヤけて持ち上がった頬に当てた手が離せない。
 緊張に冷えた手を熱を持つ頬にあてがう。いやに熱を携えたそれは、ちっとやそっとでは収まりそうもないことを知るには十分だった。
 あの人はきっと、単なる話題のひとつとして、藤真に私を見たことがあると言ったのだろう。だけど、自分がいない場所で、彼が私のことを話題に出したということが重要なのだ。
 嬉しい報せに、口元がいつになく緩む。堪えきれない笑みを浮かべたままでいると、不意に、正面に立っていた藤真がしゃがみ込み、こちらの顔を覗き込んできた。
「で、いつ告ンの?」
「うっわ……」
 唐突な物言いに上気していた頬の熱も瞬時に冷める。
 ――何を言っているんだ、この人は。
 昨日、ようやく好きだと自覚したばかりなのに、たった一日でそんなこと出来るわけないじゃないか。
「しないよ。できないよ、そんなこと」
「まぁ、勝算がないうちから仕掛けんのもアレか」
 片膝をついて座る藤真は指の甲で顎を軽く叩きながら、また何かを考えるように視線を持ち上げた。数秒、黙ったままの藤真を眺めていたが、それに飽いてしまった私は、膝に置いたままの手の甲に顎を乗せて、おとなしく藤真の言葉を待つ。
 その間、藤真に教えてもらったばかりの名前を胸中で反芻する。あの人の名前を、ハセガワカズシだと藤真は言った。
 ――かっこいい名前だな。
 そのような評価を自分が下すのもおかしな話だが、その名前の響きすらもイイもののように感じて、思わず頬を朱に染めた。
「よし、オレが協力してやるわ」
 鼓舞するように自分の太ももを叩いた藤真は、目元に力を込めて高らかに宣言した。その内容のあまりの突拍子の無さに、目を瞬かせる。意味が頭の中に浸透すると同時に、瞬時に体中から血の気が引く。
「ダメッ!」
「ダメって……なんで」
「だって……あの人の迷惑になるじゃん」
「なんでよ」
「友達ですらないのに好かれても嫌でしょ」
「だから、なんで」
 首を捻って鋭角な質問を続行する藤真は、これ以上理由を連ねても一生理解してくれなさそうな面持ちをしていた。額を手で抑え、長く息を吐き出す。目の前にしゃがみこんだ藤真を睨みつけながら、聞き分けのないこの男の進言を受け入れざるを得ないのだろうなと薄々とは感じていた。諦めた方が早いと言い換えてもいい。だが、それでもやはり、協力なんてしてもらう立場ではないと思ってしまう。
 私と彼の間には、接点らしい接点もない。むしろ入学してからこれまで、彼には迷惑しかかけたことがないのに、おこがましくも好意を向け、あまつさえそれを友達に協力してもらうなんて厚かましいにもほどがある。
 ついさっき名前を知ったばかりで、これでようやく顔見知り程度にはなれたのではないかと喜んだばかりなのに、早急にそれ以上を望むなんて私には出来ない。藤真がいなければその名前を知ることも出来なかったことを思えば、もう既に充分協力してもらっているというものだ。
「……いいよ」
「意地張んなって」
 首を振って断りを入れたが、藤真は自分の意見を曲げない。それに触発されたのか、思わぬ言葉が口をついて出た。
「違う。ここからは自分で頑張りたい」
 言って、はたと気付き、目を見開く。頑張る、という言葉が出たことに、自分でも驚いてしまった。
 彼の名前を知れた。部活中でも目が合えば会釈が出来る。それだけで充分だと、つい先程考えたはずだったのに、これから頑張るということは、今の状況に満足できていないということになる。
 初恋は、と考えたときに、中学が一緒だったとある男子の姿を思い出す。それは思慕というにはあまりにも希薄で、漠然とかっこいい男子がいる、くらいの認識だった。見れば満足、という薄い充足感を友情の範囲で楽しんだ。
 今回の感情もそれなのだろうと思っていたのに、もっと質の違うもののようだと自覚する。膝頭にあるスカートを掴み、きゅっと口元を結ぶ。
 どうやら私は、あの人のことを見るだけでは満足しないらしい。
 今までにない感情だったが、自覚してしまった以上は受け入れることしか出来ない。もし、藤真にお膳立てしてもらえば、恐らく想像以上に簡単に彼に関わることは出来ることだろう。
 でもそれは彼の中での藤真への信頼に所以するもので、私に対する評価とイコールにはならない。
 ――そんなものが、欲しいわけじゃない。
 強欲な本心を藤真に告げたわけではないが、きっぱりと告げた拒絶に含まれたものを感じ取ったのか、それ以上藤真は私に追求の言葉を投げかけることをしなかった。
「あーぁ……つまんねーの」
 私から視線を外した藤真は、腕を伸ばしながら立ち上がる。青空を背負ってこちらを見下ろす藤真を、眩しさに目を細めて見やる。白い歯を見せつけるように口元を綻ばせた藤真は、嬉しそうに笑っていた。
 それを呆けた顔をして見上げる私は間抜けな顔をしていたことだろう。藤真の笑みが移ったかのように私に口元も自然とカーブする。鞄を肩に掛けながら、藤真の正面に立ち上がる。
 目線が同じくらいになったことで笑みを引っ込めた藤真は、少しだけ意地悪な表情を浮かべてこちらの顎に指を突きつける。
「……言っとくけど、一志はお前に好かれて迷惑とか感じる男じゃねーよ?」
「ん」
 出会った端から迷惑をかけた私のことでさえ、怪我をさせてないのか心配してくれるような人だ。心根が優しいのは充分知っているからこそ、藤真の言葉をすんなり受け入れた。
 ニヤリと不敵に笑う藤真が、不意に私から外した視線を正門へと走らせる。
「お、噂をすれば……」
 タイミングがいいのか悪いのか。振り返って見れば、今しがた目下の話題となりまくっていた彼が、すぐ背後を通過する。正門の影に隠れるようにしていた私たちに、どうやら彼は気付かなかったらしい。
 次第に遠くなる背中を、目が追ってしまう抗えない。抗う気にもなれない。本能で、少しでも関わりたいだなんて強欲な願いを抱いてしまう。
「おい! 一志!」
 事も無げに声をかける藤真に驚いて鞄を取り落としそうになる。もちろん同じ部活の仲間なのだから挨拶をしようが追い掛けようが好きにしたらいいのだが、そこに私を巻き込まないでほしかった。
 先程抱いた決意が、彼を目の前にすると簡単に霧散する。まだ彼はこちらを振り返っていない。正門の裏側に隠れればやり過ごせるのではないだろうか。
、頑張るんだろ。逃げんなって」
 私の耳元で小声で囁き、動きを封じるためか右腕を掴まれる。
「かーずしっ!」
 音程よく叫んだ藤真の声をようやく聞きとらえたのか、彼は首だけをこちらへ向けて、少しだけ目を細める。
「藤真っ」
 ブンブンと彼に向かって右手を振るう藤真は、まだ私の腕を開放してはくれない反対の手で藤真の脇腹辺りのブレザーを掴んで引き留めようとしたが、そんなことで藤真の行動が止まるはずもなく、そうこうしているうちに律儀にも彼は足を止めてこちら側へと寄って来る。
 彼が近づくに連れて頭の中が「逃げたい」で埋め尽くされていく。彼のことを手に入れるために頑張るだなんて、よくもまぁ言えたもんだと自分でも思う。
 いっそ藤真の背中に隠れようとしたが、そうは行くかとばかりに藤真は掴んでいた腕を開放すると同時に身を翻し、私を矢面に立たせた。身を隠すものがなくなり、咄嗟に胸の前を斜めに走る鞄の紐に手をやる。
「藤真」
 藤真へと会釈した彼だったが、私の背後に回った藤真がこちらの背中を押して彼の目の前に立たせるものだから、はばかることなく、彼の視線が私に降り注がれる。
「あ」
 昨日から自覚した想いは、まだ息づいたばかりでうまく自分の中で飲み込めてすらいない。それでも、この人に全力で頑張るのだと決めたのは、私だ。秘めた想いを出せなくてもせめて勇気だけは、と気持ちを奮い立たせる。
「あ、あの」
 訥々と零される言葉を、彼はじっとこちらの目を見たまま待ってくれる。そういう優しいところが、堪らなく好きだと思った。
「はっ……」
 目を合ったまま、視線を外さないようにと心掛ければ掛けるほどに、言葉が喉元でつかえてしまう。ひとつ、唾を飲み込んで、もう一度口を開く。
「はせがわっ!」
 初めて、名前を呼んだ。藤真に聞いたばかりの彼の名前を、とうとう口にしてしまった。
 背筋にゾクゾクとした感覚が走り、首元に電気が走ったような痛みが生まれる。緊張と喜びが合わさった体の反応に、胸の内が燃えるように熱くなっていった。
「――おはよう!」
 次いで出た言葉はなんの変哲もない朝の挨拶の言葉だった。だが、それは今の私にとっての精一杯の言葉だった。長谷川の目をまっすぐ見つめる私には見えないが、真横にいる藤真はきっと、この上ないほど呆れた顔をしていることだろう。
 どんどん上気していく頬に触発されたのか、今お風呂に入っているわけでもないのに、のぼせた時のような感覚を味わう。目の前がぐるぐると回るような緊張感の中、私を見下ろしたままでいた長谷川が、小さく口を開いたのが目に入った。
「おはよう、
 まだ聞き慣れていない、でも耳にほどよく馴染む低い声で応じてくれた。私に視線を合わせたまま、ゆるりと、長谷川は笑った。たったそれだけのことなのに、喜びに肌が粟立つ。
 長谷川を好きだと自覚してから、初めて向けられた笑顔は格別すぎて、何にも代えがたい感情を飲み下せそうもなかった。
 スポーツバッグの紐に縋る手を益々握りしめる。これからずっと、何があっても、長谷川のこと好きでいる。そう誓えるほど、長谷川の笑みは私の心に痛いほど響いた。




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