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10. 心恋の朝に


 藤真の協力のおかげもあってか、長谷川とは最近避けることなく関われている。名前を知れたことで、少しでも近づけたのかもしれない。そんな傲慢なことを思うわけではないけれど、ひとつの壁を乗り越えられたような気分になれた。
 「ねぇ」とか「あの」よりも「長谷川」とストレートに名前を呼び掛けられることで、話かける際に躊躇いが減った。おそらく長谷川は前者の呼びかけであっても聞き逃さないでいてくれるような人だけど、私の方の心構えが格段に変わる。
 廊下で会えば朝の挨拶くらいは普通にかわせるし、部活前には頑張ってと声を掛けれられる。まだそれ以外の場面で遭遇してしまうと、身体が逃げそうになるけれど、どうにかこうにか堪えて、会釈や手を振ったりは出来るのだから著しい成長と言っても過言ではない。
 長谷川の中での私の認識は「他のクラスの知らない女子」という状況を打破できている、はずだ。「他のクラスで挨拶をする女子」くらいにはなれたんじゃないだろうか。あまり変わってないかもしれないけれど、この挨拶のできるできないという差は大きい、きっと。
 挨拶ができた日は、その日一日のモチベーションが全く変わってくる。ちっとも進展してねぇクセに幸せそうな顔をしやがって、だなんて藤真はバカにするけれど、急に距離を詰めれるような性格ならとっくに詰めている。そして詰めに詰めた挙句、とっくに玉砕しているはずだ。
 まだこの気持をぶつけるには確証も自信もないし、ゼロの確率を少しでも上げていきたいと願うのは当然のことだった。確率が上がるか上がらないかはこの際、見ないフリをさせてもらう。簡単に言ってしまえば少しでも長谷川と関わりたいと思う気持ちに、理由を持たせたいだけなのだから。
 ただ、もっと仲良くなりたいと思いながらも、空回りしているのもまた事実で、正直どうしたらいいのか迷っている面も大いにある。
 クラスの男子、例えば藤真にするように、特に意識せず大雑把に対応できたらいいのだけど、どうしても長谷川にだけはそういう態度を見せることは出来なかった。気を使うというよりも、着飾りたいと言った方が正しいのだろうか。
 下手なところを見せたくないとか、見損なわれたくないだとか、どうしても保身欲が沸いてしまうのだ。
 小さく溜息を吐いて、制服のカッターシャツに腕を通す。部活の朝練が終わり、着替えている間、長谷川のことを考えるのが最近の日課だった。
 もちろん、部活の仲間に会話を振られれば応えてはいたが、朝練の後はみんな疲労困憊で黙りこむことが少なくなかったからだ。人数の割には狭い部室で、他人の気配を感じながらも衣擦れの音だけが響くしんとした室内は、自分の心情と向き合うには最適な場所だった。
 ――バスケ部も朝練があったはずだ。
 体育館前を通った際に、姿は見えなかったがバスケ部特有のバッシュと床がこすれ合う音やボールの音が響いていたから、その疑念もほぼ確信に近いものだった。そこに長谷川もきっと参加したことだろう。
 以前、藤真とお昼ごはんを一緒に食べた際に、長谷川がどういう人柄なのか一方的に捲し立てられたことがあったのだが、その中に「バスケに関しては特にひたむきだ」という評価をされていたことを思い出す。そんな長谷川ならば、身体を壊した以外の理由で簡単に朝練をサボることは無いのだろう。
 先日の記憶の先を辿り、長谷川のいいところばかりを並べ立てた藤真に、もしかして長谷川のことが好きなのかとジョークを投げかけたのだが、その際に食らわされたデコピンの威力を思い出し、思わず額を擦った。
 そのまま少しだけ手を下げ、目元を覆う。叶わないことが多いけれど、と苦笑しながらも深く息を吐いた。
 教室までの道のりで会えないか。毎朝、かすかに、そう願う。


* * *


「おはよう、
 耳をそばだてなくとも、その声を私が取り零すことはなかった。低い音質の中に微かに混じる優しい声色は、耳に馴染むと同時に、どうしようもないほどに胸を甘く痺れさせた。
 ほのかに熱を持つ頬を隠す暇も惜しい。自分の上履き置き場に片手を突っ込んだまま、期待に満ちた目で振り返ると、やはり想像通りそこには長谷川の姿があった。
 私と同じく朝練を終えたばかりなのだろう。部活による熱はまだ冷めやらぬ、という状態の長谷川は、普段よりも精悍さを感じさせる。
 目が合うと、特徴のある丸刈りの頭を揺らした長谷川はもう一度私に向かって「オッス」と口にした。
「長谷川っ! おはよう!」
 長谷川から声を掛けてもらえたことが嬉しくて、自然と声が弾んだ。下足場に入ってきた長谷川は、周囲を歩く人の邪魔をしないよう避けるためか、私の正面で立ち止まる。
 そのまま長谷川が視線を落とすことで、無遠慮にまじまじと見つめていた私と視線が重なった。背の高い長谷川を見上げると、その身長差に思わず胸を高鳴らせてしまう。
「朝練か?」
「うん、そっちも?」
「あぁ、お疲れ様」
「ありがとう。長谷川もお疲れ様」
 笑んで受け入れていくれた長谷川はゆったりとした歩調で私の背後を通り過ぎ、自分のクラスの下駄箱へと向かっているようだった。私もまた、掴んだままだった上履きを床に置き、外靴と履き替える。横目で長谷川の様子を探りながら、どうにか教室まで長谷川と並んで歩けないかタイミングを計る。
 1年の教室は4階と3階にあり、長谷川のクラスも私のクラスも4階にあった。毎日のその昇り降りはあまり歓迎できたものではないが、もし長谷川と共に歩けるのならば階数が多いことはつまり、長く一緒にいられることを示している。
 4階でよかった、だなんて意見を簡単に覆す私は、我ながら現金な性格だ。自らを振り返り苦笑を浮かべていると、上履きに履き替えた長谷川がこちらを振り返る。
 もちろん、声を掛けた手前、というのが大前提なのだろうが、靴箱でバイバイ、とならなかったことに口元が自然と緩んでいく。待ち伏せるような真似をしたのは私なのに、長谷川が先を行くという選択肢を取らなかったことにどうしても喜んでしまう。その隣に本当に並んでいいのかと逡巡せずにすむのは、長谷川が自然にそういう優しさを垣間見せてくれるからだった。
 階段までの道を辿る途中、下足場の横に設置された傘立ての前で少し歩調を緩めた長谷川は、左手に持っていた傘をそこに差し込んだ。
「あれ?傘」
「え?」
「……今日雨降るの」
「……予報では」
 今朝の天気予報で雨だと聞いた覚えがなくて、長谷川の答えに思わず表情を曇らせてしまう。
 朝ごはんを食べる合間も、学校へ行く準備をしている間も、朝のニュース番組にチャンネルを合わせているはずだし、出かける前に星座占いで1位だったことも見かけた記憶もあった。
 ただ、確かに天気予報を見た記憶がなく、更に記憶を巡らせれば今朝は寝癖がひどくついていて、鏡の前で格闘している時間がいつもより長くなってしたことに思い当たる。おそらく、その間に天気予報は終わってしまったのだろう。
 見てない時に限って、雨の予報を出してくるなんて運が悪いにも程がある。置き傘は原則禁止されていてそれを破る勇気もなければ、折り畳み傘を持ち歩くなど用意がいいわけでもなかった私には、雨に降られたらそれを防ぐ手立てがない。
 駅まで歩いて15分の距離は頑張って走っても10分弱はかかるはずだ。占いが1位だなんてウソじゃないかと責任転嫁のような気持ちを抱く。
 帰り道のことを考えると自然と階段を昇る足取りが重くなりそうになったが、長谷川を隣にしている状態でそんなことを出来るはずもなく、首の裏を掌で覆うことで浮かびそうな感情を抑え込んだ。
「傘、持ってきてないのか」
「うん……天気予報見逃しちゃって」
「そうか……」
 困ったように眉根を寄せた長谷川は、2階と3階の間の踊り場に差し掛かった際に、立ち止まってこちらを振り返った。
、今日、部活は?」
 長谷川の質問は端的なものだった。だが、同じ運動部に所属する者として、雨の日の部活がどんなトレーニングになるのかを尋ねているのかと肌で感じ取る。そういう会話は、中学の頃にもいろんな子と交わしてきた。
 私もまた後続の邪魔にならないように端に避けながら立ち止まる。心配そうに眉根を寄せた長谷川を見上げながら、先日、雨が降った時の部活内容に思いを巡らせた。
「雨降ったら筋トレか校舎ランニングかなぁ」
「なるほど」
 眉を下げた長谷川が再び足を進めたのにならい、私も長谷川の背中を追うように階段を昇る。4階まで登り切ったところで予鈴のチャイムが鳴る。
 もう少しで教室に着いてしまうことが惜しくて、少しでも話がしたいという気持ちに抗わず、言葉を繋げた。
「小雨ならグラウンドもあり得るんだけどね」
「……風邪引かないか?」
「部活の後すぐに学校のシャワーのお湯の方使えば、なんとか」
「あぁ、温水出るんだったな」
「使ったことある?」
「いや、いつも水だから」
「体育館暑いもんね」
 そこで長谷川のクラスに辿り着いてしまい、会話は打ち切られる。名残惜しいと思いながらも、まさか教室に入ることを阻むことも、サボらせるわけにも行かない。口元をニッと引っ張るように笑い、長谷川の数歩先に進んで振り返る。
「それじゃ、長谷川。またね」
「ん」
 教室に入る直前、こちらを振り返り、白い歯を零した長谷川は片手をこちらへ翳す。それに手を振り返すことで応え、長谷川が教室内に入りきったのを見送ってから、自分の教室へ向かおうと足を向けたところで、背後から声が掛かった。
っ」
 声を掛けてきたのは、先程、教室に入ったばかりの長谷川で、不意に顔を見れたことに吃驚して目を丸くしてしまう。私の反応を見た長谷川は、少し眉を落とし、目を細めて口を開く。
「……降らないといいな、雨」
「……うんっ」
「じゃ、また」
「うん、ありがとっ!」
 今度こそ教室に入っていってしまった長谷川に、それだけのことを言うために戻って来てくれたのかと胸が熱くなる。手の甲で何度も頬を擦ったが、浮かび上がる笑みを堪えきることは出来なかった。
 言葉少ない長谷川は、表情もまたあまり表に出さないなんて藤真は言っていたけれど、それでも去り際は笑ってくれるし、こちらが困ったと言えば合わせて眉を顰めてくれる。
 傘が無いことを心配させてしまったことは申し訳なかったけれど、それ以上に、長谷川の優しさに触れたことが嬉しくて仕方がなかった。やっぱり今日は星座占い1位な分いいことあるや、と単純ながらも思った。




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