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11. 遣らずの雨から攫いだしてよ


 あれだけいいことあったなら、きっと雨も降らないはずだ。自分勝手にもほどがある楽観視をしていたが、そんなに人生甘いはずもなく、夕方からしとしとと雨は降り始めた。
 部活中は小雨で済んでいたのだが、終わりの時間に差し迫ると本降りに移り変わってしまっていて、部活仲間のほとんどの子は傘もささずにユニフォームで帰ることを選んだほどだった。
 その子たちのように自転車や徒歩通学だったら、私も迷わずにそういう選択肢も取っただろう。だが、あいにく私は通学に電車を利用している。同乗した人に迷惑をかけるわけにはいかない、というのも理由に含まれる。だが、一番の問題はユニフォームでは電車に乗れない、ということだ。流石に胸のところに大きく「」と書かれたユニを来たまま電車に乗るほどの度胸を持ち合わせていない。
 結果、雨が止むまで待つことを選ぶしかなかった。
 中には一緒に雨が止むのを待とうか、とか、駅まで送ろうか、と提案してくれた子もいたのだが、それらをすべて丁重に断って彼女たちの背中を見送った。
 シャワーを浴びている間に雨が止めばいいと更衣室へ戻ったが、身体を温め終える頃にはバケツをひっくり返したような雨に変貌してしまっていた。選択を誤った自分を嘆き、運が悪いにも程があると下足場で肩を落としているのが現状だ。
 間断なく雨を降らせる空を睨みつける。そんな視線を向けても雨が収まるはずもなく、その勢いをじっくりと目に焼き付けるだけとなった。
 大きな溜息を吐き出すのはこれで何度目だろう。下足場の入り口に寄りかかったまま視線を落とし、腕に巻きつけた時計に目をやると、かれこれ10数分ここで立ち往生していることを知る。
 止みそうな気配を全く見せない空の先を目を凝らして見てみたが、視界に入る範囲の空すべてが厚い雲に覆われているのを再認識するだけだった。
 ――ちょっとでも止めばいいと思ってたんだけどなぁ。
 制服が濡れてしまうと臭くなると親が怒りそうだが、もうこれ以上待っていても帰りが遅いと心配をかけるだけだ。中庭にある公衆電話で家に連絡を入れた方がいいだろうか。少しだけ考えてみたが、そこに行く道の途中に屋根のない場所があることを思い出す。そんなところで濡れるくらいなら駅まで走った方がましだと考えを改めた。
 大仰に息を吐きだしながら身体を起こし、傍らにおいていたスポーツバッグの中から大きめのタオルを取り出す。駅で拭こう、と予備のバスタオルを部室から持ってきたのだが、これだけ降っていては後から拭くよりも雨よけにして駅まで走った方が被害が少ないはずだ。
 頭からタオルをかぶり、両肩が隠れるように覆ってから、置いていた鞄を拾い上げる。空に一瞥を投げかける。止みそうもない雨に、ひとつ息を吐き出した。
?」
 下足場から足を踏みだそうとした瞬間、背後から声が飛び込んでくる。怪訝そうな声で紡がれた私の名前に振り返って見れば、そこには長谷川が立っていた。
 後ろ姿で、しかもタオルを被ってしまっているので肩くらいまでは完璧に隠れているから、私じゃないかもしれないと思ったのだろう。長谷川は、私の姿を目に入れた途端、少しだけ安堵したように息を吐いた。 
「長谷川……っ」
 頭にかぶせていたタオルを剥ぎ取り、思わず後ろ手に隠す。今しがたとった奇行を見られたことには変わりはないのだが、取り繕わずにはいられなかった。その名残さえも長谷川に見られたくなんくて、更に壁に寄り掛かるようにしてタオルを隠した。
「い、今、帰り?」
 誤魔化しにもならない言葉を掛けると、長谷川は縦に頭を揺らす。朝と同じように少しだけ汗の残る表情の長谷川は、自分の靴を履き替える前にこちらへと歩みを進める。
 雨の様子を確認したいのだろうかと思い、下足場の入り口を塞がないように避けたが、長谷川は私の正面で立ち止まった。向かい合って立つ長谷川を上目遣いで見上げる。普段、話をする時も同じような距離感になるのだが、背後のタオルを見られるのが恥ずかしくて身体に緊張が走った。
「そっかぁ。お疲れ様でした」
「あぁ、もお疲れ」
 いつもみたいに笑みを浮かべなかった長谷川は私を見下ろして、それから空に視線を向けた。長谷川の手には朝持ってきていた傘がしっかりと握られていて、私がもしも傘を忘れなければ、一緒に帰ろうと声を掛けれたんじゃないかという考えが過る。
 自分の準備の足りなさが嫌になったが、そもそも傘を忘れなければこんな時間まで残っていないわけで、どちらにしろ縁がないのだなと不運に思った。
 実現しないからこそ、想像だけは大胆になった。実際、天気が良くて、帰るタイミンがかち合ったとしても、一緒に帰ろうと長谷川を誘えるはずもないのだけど。
 空を見上げていた視線をこちらへ落とした長谷川は、やはりその表情にほんの少しだけ渋面を浮かべていた。なにか怒らせるようなことをしただろうかと、疑問に思うと同時に、背中に隠したタオルを持つ手に力が入ってしまう。
「……ソフト部のひとを待ってるのか?」
「んーん。私が最後。元々自転車で来てる子多いってのもあるんだけど……雨止まないかちょっと待ってたんだ」
 自虐的に笑ってみせたが、長谷川は困ったように眉を下げるだけだった。肌で感じとった違和感を厭い、首の裏に右手をやって、乾ききっていない髪の毛を指先で掴む。逃げるように視線を長谷川から外し、下足場の奥へと投げかける。
「は、長谷川こそ、藤真たちとは一緒じゃないの?」
「あぁ……後から来るんじゃないか」
「そうなんだ。それじゃ、藤真に見つかったらバカにされそうだし、私先に帰るね」
 長谷川は当然、藤真を待つのだろう。そう見当をつけ、一方的に会話を終わらせる。
 身の置き所のない感覚を味わってしまったのは、バカみたいな行動を取っていたのを見られたのが恥ずかしいというのももちろんあったのだが、どこか長谷川の様子がおかしかったことが一番の理由だった。
 今の長谷川は、なんだか喋りかけてはいけないような雰囲気を醸し出している。踏み込みたいという気持ちはあったのだが、まだ実際そこまでしていい間柄ではないと躊躇してしまう。
 部活で疲れているだけならいいのだけど。そう願いながら、長谷川に背を向け、隠していたタオルをまた頭にかぶせる。変な格好を見られるのは嫌だったけれど、それ以上に防衛本能が、自然とそうさせた。
「それじゃ、長谷川また――」
。待った」
 明日、と続けるつもりの言葉が遮られる。首を捻って長谷川を振り仰げば、長谷川は口元を掌で覆い隠し、私から視線を逸らして靴箱を睨み据えていた。
 どうしたのだろう、と身体を反転させてみたものの、同じ体勢のまま長谷川は黙りこんでしまったままだった。一向に口を開かない長谷川を見上げる。口元が覆い隠されているため、表情のほとんどは伺えなかったが、何かを口にすることを躊躇しているのだろうかと訝しんだ。
 たっぷり10秒ほど待った頃合。どうしたの、と声を掛けようかと口を開きかけたのと同時に、長谷川の低い声がポツリと零された。
は電車通学か」
「え? まぁ……うん、そうだよ」
「そうか……」
 唐突な質問に戸惑いながらも応えると、またもや逡巡したように長谷川は口篭る。
 本当にどうしたというのだろう。確かに長谷川は饒舌な性格ではないようだが、こんなに話しにくそうにしているのは見たことがない。
 いつになく会話を詰まらせる長谷川に、やはり自分が何かしてしまったのかと不安に駆られる。頭上を覆うタオルの端を握る指先に自然と力が入った。
 鼻がムズムズとしてきた。もしかしたら湯冷めしただけなのかもしれないが、ほんの少し泣きそうになってるのかと我が身を疑う。だが、そのような考えも、長谷川から立ち上る緊張感を前にすると、喉の奥が詰まるような心地を味わい、その息苦しさに浮かぶ疑念のすべてが掻き消されてしまう。
「……駅まで、一緒に行こう」
 普段よりも小さな声で、でもキッパリとした口調で、長谷川はそう告げた。落ち着かないような気持ちを紛らわせようと、タオルの端を手の中でくしゃくしゃにしながら耳にしたせいか、長谷川の言葉の意味が、最初は理解できなかった。
 目を瞬かせながら長谷川を見上げると、口元から手を剥がした長谷川は、その細い瞳をこちらへと差し向ける。直向きなその視線を受け止めた途端、呼吸が止まるかと思うくらい、胸が詰まった。同時に耳と首の間がやけに熱を持つ。長谷川のその視線には、それほどの力があった。
 通常よりも数倍の速度で脈打っているのではないかというほどの胸中で、先程の長谷川の言葉を反芻する。だけどその言葉はどう考えても、私にとって好都合なものとしか捉えることが出来なかった。
「え? それ……って」
 長谷川の提案がにわかには信じられなくて、思わず聞き返してしまう。一瞬、長谷川の視線が怯んだように揺らいだが、それでもまたその目はまっすぐに私へ向かってくる。
「――……一緒に、帰らないか?」
 言葉を詰まらせて言った長谷川の言葉に、ようやく、私の考えが勘違いによるものではなかったと理解できた。2度も言いにくいことを言わせてしまったことに気が咎めたが、それと同時にひとつの仮定が頭に浮かび上がんでくる。
 もしかして、長谷川が普段より喋りにくそうにしていたのは、一緒に帰るかどうか悩んでくれたからなのだろうか。
 妙にしっくりときたその仮定に、ますます頬に熱が集まるようだった。傘なんてそんなに大きいものじゃないし、2人で入れば自分のテリトリーが確実に減る。それ以前に、私と長谷川は最近漸く挨拶をまともに交わせるようになったばかりの間柄で、友達だというには浅すぎる関係にすぎない。
 悩むくらいなら放っておけばいいのに、それでも声を掛ける選択肢をとってくれたのかとに喜びが胸に広がっていく。その気持だけで充分ありがたかったが、欲張りな私の感情は、大事にされているのではないかと誤解しそうになる。
 ――もしかして、単なる知り合いとかではなく、友達だと思ってくれているのだろうか。
 今までの関係の希薄さを顧みれば、そんなことはもちろんないと、即座に否定できた。だがこんな風に優しくされると安易な考えに流されてしまう。「もしかして」に縋り付きたくなる。
 身勝手な妄想は、自分の願望に塗れている。客観視がまるで出来てない考えを藤真に披露すれば、横っ面を叩かれることだろう。頭を横に振るい、雑念を追い払う。自惚れた考えを捨てるためにも、状況を整理する必要がある。
 もし、私が長谷川の立場だとしたら――つまり私が傘を持ってきていて、傘がなくて困っている人を見かけたら、どうするんだろうか。
 傘を忘れたのが長谷川だとしたら、絶対に声をかけることだろう。だけど、それは私の中にある長谷川への情愛が由来しているため、仮定するにしてもこの状況にそぐわない。
 ならば、藤真は。そう考えたが藤真は勝手に傘に入ってくることが想像に難くない。参考にならないとその考えを打ち捨てる。
 高野はどうだろうか、と考える。話の流れによっては入れて行くかもしれない。ただのクラスメイトでもこんなに雨が降ってたら駅まで一緒に行こうって言う。多分。多少無理矢理ではあったが、そう自分に言い聞かせる。
 単純な喜びと自分勝手な妄想のせめぎ合いに数秒の時間を要してしまい、返事を待ってくれていた長谷川は眉根を寄せて首を傾げた。仮定に塗れた考えを投げやった私は、タオルを持つ手に自然と力が入るのを感じながら長谷川を見上げる。
「ありがとう。たださ、えっと、ま、待たなくていいの?」
「なにを?」
「なにって……藤真とか?」
「……別にいいだろ、たまには」
「あ、回り道させるのはちょっと気が引ける」
「いや、オレも電車だから」
 一緒に帰りたくないわけじゃない。むしろ出来ることなら駅まで並んで歩きたい。
 それでもやはり長谷川に迷惑を掛けてしまうのではないかと考えると、この申し出は断るべきだ。そう思い、いくつか逃げるような言葉を用意したが、それらを簡単に長谷川は打ち返した。
 優しくされたときは素直にありがとう、という方がかわいげがあっていいのだろう。そう頭で理解しつつも、いざそのような場に自分が立たされると迷惑をかけてしまうのではという考えに支配されてしまう。
「傘デカイの使ってるし、遠慮ならしなくていい」
 これ以上断るのは失礼かもしれない、と気持ちが揺れる中で、長谷川のその言葉はぐらりと気持ちを傾かせた。私の中にある不安を言い当てた長谷川は、さらにそれさえも心配するなと言ってくれる。
 なんて懐の広い人なんだろう。好きだと自覚する前から漠然と優しい人だと知っていたけれど、ここまでとは思わなかった。感動すると同時に見習わなければと自分の普段の態度を改めようという気持ちにもさせてくれる。
 右手の指の甲で口元に触れ、目を伏せる。喜色に満ちた目の縁は、気を抜けば潤んでしまいそうだった。
 浅い呼吸を繰り返すと、予想以上に熱のこもった呼気に触れる。
 ――もう少し落ち着いたらきちんと答えよう。今はちょっとまだ無理。
 熱くなる頬を誤魔化すように指の甲で頬をなぞっていると、長谷川の右手が持ち上がるのが横目で見えた。それを目で追うよりも先に、頭のてっぺんにあったタオルが首の後ろに落ちる。
 なぜ、と追いついた視線を伸ばすと、長谷川の指先が私のタオルに触れているのが目に入った。
「このまま帰すのも心配だから」
 一緒に帰ろう、と掠れるくらい小さな声で続けた長谷川の言葉と行動に、自然と手から力が抜ける。思いもよらない行動に、ぽかんと唇が開いた。
 タオルから手を離し、自分の方へと引っ込めようとする長谷川の指先が、左耳と首の間を淡く掠めると、波紋が広がるように熱が全身を駆け巡るのがわかった。
 タオルを剥がれるのと同時に、強い想いが溢れてくる。

 長谷川が、好きだ。

 心配だと言われたことに申し訳無さを感じるよりも強く喜びを感じた。もっと頑張りたいと藤真に言ったことは、間違いじゃなかった。頑張って、長谷川に認められたい。そして、もっと仲良くなった暁には、好きだと、言いたい。
 ――まずは今、長谷川に、言わなきゃ。一緒に帰りたい、って。
 高い目標にたどり着くためには、まずは今日できることに挑まなればいけない。意を決して顔を上げると、口元を引き締めた長谷川と視線がかち合う。
「ご迷惑おかけしますが……よろしくお願いシャスっ」
 首に残ったままだったタオルを引き抜き、その勢いのまま頭を下げる。もっと良い言い方はなかったものだろうか。体育会系然とした言葉を後悔したものの、一度出した言葉を引っ込めることなど出来るはずがない。
 色んな意味で赤くなっているだろう顔を隠すため、タオルを拾い上げ、口元を覆いながら頭をあげる。靴箱で顔を合わせて以来、表情を固くさせていた長谷川が口元を緩めて笑っていた。





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