012

12. 熱き血汐を秘めし柔肌


 靴を履き替えた長谷川が、先に下足場から出る。留め具を外し、傘を開くさまをゆっくりと目に焼き付けた。傘を掲げた長谷川が私を振り返る姿が、やけにスローモーションに見えた。

 私の名前を呼んだ長谷川は、入れ、という代わりに傘を少し身体から離す。ひと一人分空けられたスペース。それは、私のために明け渡された空間だった。
 降って沸いた僥倖を前に、平常心ではとてもいられない。長谷川の隣に並んでもいいのだと思うと、緊張で足が震えるようだった。
 頬や耳の後ろあたりに走る熱を持て余したまま、長谷川を見上げる。真っ直ぐに差し向けられる瞳に、何も言えなくなる。飲み下せない緊張感を抱えたまま長谷川の隣に飛び込むと、地面に触れた水が足元で小さくはねる音がした。
「よ、よろしくお願いします」
「あぁ……」
 途切れた言葉は、普段喋るときよりも何倍も小さな声となった。お礼の代わりに、と下げた頭を起こし、長谷川を見上げる。今までにない距離の近さを目の当たりにすると、身内が焦がすような熱が生まれてくる。
 先に歩き出したのは長谷川だった。遅れてはいけない、と私も長谷川に倣い足を踏み出した。革靴の先が濡れるのを見つめながら、一歩、一歩と歩みを進める。
 傘を打つ雨粒の音がやけにおおきく耳に響いた。それはふたりの間に言葉が交わされていない証明のようだった。黙ったまま歩く長谷川に、そう簡単に声を掛けれるはずもなく、私も口をつぐんだままでいる。
 初めて隣を歩いているということもあり、ぎこちない歩調を整えようとお互いに探り合う。正門を出る頃には、その歩調はなだらかなものへと変遷していた。普段の自分の歩き方と比べて、いくらかゆっくりな歩調であることに気付くのに、そう時間はかからなかった。チラリと長谷川の横顔を見上げながら、長谷川って意外とのんびり歩くんだな、だなんて考えた。
 だが、その考えも一瞬で薙ぎ払われる。長谷川が普段、歩く姿を目で追うことが多々あったが、こんなにゆっくり歩いているところなんて見たことがない。忙しないとまでは言わないが、体育会系の男子らしく、キビキビした歩き方をしているのを何度も目にしている。その度に遠くなる背中を、もっとゆっくり見ていたかったと何度嘆いたことか。
 その経験から考えると、自ずと答えが導き出される。もしかしたら、長谷川は私の歩調を誤解しているのかもしれない、と。歩き慣れない歩調で、しかも傘をふたりで入って歩くのは困難なのではないだろうか。いつもの長谷川の歩調に合わせた方がいいのかもしれない。
 頭の中を埋め尽くしていく疑念は、いとも簡単に私を惑わせる。戸惑いが表情に現れたのか、自然と唇が尖った。取り繕うように上下の唇を内側に隠しながら足元へと視線を落とす。
 狭い歩幅を眺めていると、その爪先に雨粒が落ちそうで落ないさまが目に入った。傘の大きさを考えたら今くらいの歩幅が適正のようだ。そう思いつくと同時に重石のように感じていた疑念が薄らいでいく。
 頭の中の疑念が晴れると同時に、それ以外の考えが頭の中に浮かび上がってくる。落としていた視線を、今一度長谷川へと差し向ける。引き締まった表情と真一文字に結ばれた口元を見つめ、自然と熱の上がる胸の内を抑えるように自分の胸元に手のひらを添えた。
 もしかして、と感じていた予感は、私にとって都合のいいものでしかない。せっかくかち合った歩調を乱すことは、この雨の中ではなにひとつ特にならない。それは大前提だ。だが、それだけではなく、長谷川がワザと歩調を緩くしているのは、ひとえに私のためなんじゃないだろうか。そんな自分本意な考えがさっきからずっと頭の中にチラついている。
 傲慢にも程がある考えに下唇に噛みつく。こんなの自惚れでしかない。そんな考えを頭に思い浮かべた自分を責めながらも、その憶測があながちハズレではないのだと確信していた。
 いつもと同じ調子で歩いたら、私を置き去りにしてしまうと危惧してくれているんだ。長谷川は心遣いをしてくれるけど、それを言葉にしない慎ましさも併せ持つ人だから。きっと私が気付かないところでも助けてもらっているんだろうな。
 長谷川のことをもっと知りたいと思う。発見がある度に大きくなる欲求に自分が強欲であることに気付かされる。今だってそうだ。もし、私が歩調を早くしたら長谷川はそれに合わせてくれることを知っている。行動に移さないのは、少しでも長く長谷川の隣に並んで歩きたいという自分の欲求を満たすためだった。
 長谷川の意を汲むんだなんて理由を並べ立てて、結局優しさを利用しているだけに過ぎない。浅ましいなぁ、なんて自分が嫌になったが、溜息を吐いて長谷川の気を引くような真似はしないように極力平然と振る舞うよう努めた。
「今日、な」
 正門を過ぎ、学校の前の大通りに差し掛かった頃、長谷川が不意に口を開く。車道を走る車が水を撥ねる音に紛れて、長谷川の声が掻き消されてしまいそうだ。彼の言葉に集中すべく、車道側を歩く長谷川を見上げた。
 長谷川もまた、こちらをゆっくりと見下ろす。かち合った視線に、思わず怯みそうになる。ぐっと喉元で堪えた感情を飲み込み、長谷川の言葉を促すように小さく頷いてみせた。
「本当は朝、と教室で別れる前に言おうと思ったんだ」
「え、なにを?」
「……今日一緒に帰ろうかって」
「えっ!」
「さすがにそれはお互い部活があるから無理だなって」
 傘を持たない方の手のひらが翻る。その手で額を覆う長谷川の細い目は隠されてしまったが、ふわりと持ち上がった口元が逆に強調されるようだった。
「よかった、間に合って」
 柔和な声で告げられた言葉に、今度は私が視線を覆う番だった。気にかけてくれたことが嬉しくて、泣きそうになる。唇を震わせながらも小さく息を吐き、平静を装う準備が整わないままで口を開く。
「長谷川、面倒見よすぎるよ……」
 ついて出た言葉のあまりのかわい気のなさに頭を抱えそうになった。嬉しかったと素直に伝えるのが憚られたのは、自分の感情を誤魔化さなければ、そのままの勢いで好きだと口にしてしまいそうだったからだ。
 今のような状況で言われても長谷川を困らせるだけだ。手を引き剥がし、もう一度長谷川を見上げる。泣くのを堪える為に尖らせた唇も、下がった眉も隠しようがなかった。
「でも、ありがとう」
 言葉と同時に顔が綻んだ。好きだという感情を飲み込みきって、それを言葉として口に出さない代わりに情愛が自然と顔に浮かび上がる。私の表情の変化を目の当たりにした長谷川は、目を瞬かせて戸惑いを示したものの、私と同じように笑ってくれた。
――たまんないなぁ。
 今の私の顔を、私をよく知る人が見たら、100%長谷川のことを好きだということがバレることだろう。そのくらい締りのない顔をしているのが鏡を見なくても分かった。表情を引き締めようとする努力が意味のないものと思えるくらい、簡単に口元が持ち上がってしまう。
 ただ、私が冷やかされるのは致し方無いとはいえ、長谷川に迷惑がかかるのであれば隠す努力は続けなければいけない。両手の平を頬に持って行き、感情を押し潰せない代わりに頬を抑えつけた。
 そのまま横目で長谷川を見上げると、長谷川が真っ直ぐ進路に目を向けて黙々と歩くさまが目に入る。
 長谷川の中には、私と噂されたら恥ずかしいとか、そういうのは無いのだろうか。先日、藤真から長谷川に彼女はいないということは聞いていたから、こういう優しさを私相手に向けても別に誰にも咎められるものでもない。ただ、そこから沸き起こる弊害が、今更ながらに脳裏を掠める。
 ――あ、でも噂されるほど目立った女じゃないな、私。
 例えば学年で有名な可愛い子が相手だったら違ったかもしれないが、私相手じゃ別にどうということはないはずだ。だいぶ自意識過剰な考えだった、と頭を振るうことでその考えを打ち消す。唐突な私の動きに長谷川は「どうした?」と口にする。
 それに対して「や、なにもないよ」と答え、また顔を上げると長谷川の左肩口がかなり濡れそぼっていることに気付く。
「長谷川、めっちゃ肩濡れてる!」
 焦りにより自然と大きくになった声に、長谷川は目を丸める。
「え、あぁ。このくらいは、別に」
「よくないよっ! 風邪引いちゃう」
 長谷川の傘を間借りしている立場の私が全く濡れていないのに、持ち主の長谷川が雨に打たれていいはずがない。押し返すように長谷川の傘を持つ手に、手のひらを添えたが、力を加えても長谷川がそこから傘を動かすことはしなかった。眉根を寄せて長谷川を見上げると、長谷川もまた困惑を表情に浮かべる。
「……じゃあ」
 ポツリと零した長谷川は、ほんの少しこちら側へ歩み寄る。半歩分ほど開いていた空間がなくなり、歩けば自然と腕が触れるほどの距離に、顔を赤く染め上げるのを抑えられるはずもなく、慌てて俯いた。
 下を向けば長谷川の靴と並ぶ私の靴が目に入り、否が応でもその距離を意識させられる。同じ歩幅に合わせてくれた長谷川の歩みを目に入れながら、私の左腕と長谷川の右腕が掠めるのを感じ取る度に、強く目を瞑って感情を堪えた。
「そ」
「そ?」
「袖振り合うも多生の縁ってこういうこと言うんだっけ」
 長谷川に合わせられない視線を道の端に泳がせながら、口にした言葉はあまりにも突拍子もない事だった。感情をうまくやり過ごすことが出来なくて混乱が招いたこととはいえ、もっと他に場にそぐう言葉があったはずだと後悔する。
「いや、多分違うな」
 穏やかに否定され、しょげるままに肩を落としてしまう。だが、そのおかげで舞い上がってた気持ちが少し落ち着いた。
「そっかぁ……」
 照れ笑いを浮かべて、長谷川を見上げると、きゅっと唇を引き締めて横目でこちらを見下ろす長谷川と視線がかち合う。
「もう知らない相手ってわけじゃないだろ」
 低い声が耳に馴染む。その感覚を追うように、右耳に手を持っていった。黙りこくった私を目にした長谷川は、少し口元を緩めて笑い、また歩く方向へと視線を戻す。
「でも……その、縁は大切にした方がいい、よね」
 間違えた例を出したことが恥ずかしかった。それを払拭させるために言葉を紡いだが、またしても見当違いな言葉になってしまう。言葉尻を濁しつつも溜息を吐くと、長谷川は小さく笑った。
「……そうだな」
 歩きを進めるうちに、ふと、先程よりも長谷川の距離が近付いたような気がした。掠めるというよりもピッチリと触れた腕に、それが間違いではないだろうという予感はあった。
 長谷川でなければ意識しないほどの距離感に、喉の奥で呼吸が詰まったような感覚が走る。汗は流したけれど家に帰ったらまたお風呂に入るからと石鹸などで洗ったワケじゃないから汗臭さが残っているかもしれない、とか、もう少し髪型を整えて体裁を繕えばよかったとか、後悔ばかりが頭を過ぎる。
 長谷川は純粋な好意で駅まで送ってくれているのだから、せめて必要以上に近付かないように気をつけよう。長谷川とは反対側に来るように、斜めに掛けた鞄に両手を持って行き、その縁を握りしめる。脇を締め、体を小さくさせながら小さくなった歩調を忙しなく動かした。
 そのまま部活のことや藤真のことを話すことでぎこちない会話を繋げる。筋トレの方法などの練習の話は参考になったし、おすすめのスポーツショップの話を聞くと、意外にも自分が通う店と一緒でその店長の話で盛り上がることとなる。
 バスケ部の出身だという店長は、バスケの話になると目をキラキラとさせていたし、他の商品よりもバッシュの品揃えが豊富だったように思える。
「もしかしたら店であったことがあるかもね」と伝えると長谷川も「かもしれないな」と言ってくれた。こそばゆさもあったが、それがとても嬉しかった。


* * *


 駅が近くになるに連れて、少しずつ言葉が少なくなっていった。長谷川に苦労を掛けている自覚はあったが、もう少しこの時間が続けばいいと願ってしまう。
 ただ、無言の空気は、先程まで会話が弾んでいた分、やけに重く感じられる。信号待ちの時間がやけに長く感じられるのは、望ましいはずなのに息苦しくて仕方ない。
 時折、傘を持ち替える長谷川に、持とうかと手を差し出したが、「大丈夫だ」とやんわりと拒否される。小さく溜息を零し、途切れた会話の突破口を探すと、以前から聞きたかったことが頭を掠めた。
「ねぇ、長谷川」
「ん」
「そう言えば、この前、藤真に長谷川の名前聞いたよ」
「え?」
 今更どうした、という表情を浮かべた長谷川がこちらを見下ろすのと同時に信号が青になる。それを横目で捉えた長谷川が足を一歩踏み出すのに合わせてまた私も並んで歩く。
「自己紹介されてもないのに、なんか勝手に名前呼んじゃってたからさ。ちょっと白状しとこうかと思って」
「いや、オレものこと勝手に呼んでるし、別に気にする必要ないだろ」
「うん……そうだね」
 曖昧に笑んで応えると、チラリと長谷川の視線がこちらへ落ちる。その目を見返しながら、ぐっと喉元に力を入れる。
「たださ、それで、ちょっと気になってて……」
「うん」
 やんわりとした頷きに、訥々とした言葉であっても長谷川が待っててくれることを改めて自覚する。それに促されるように私は以前からの疑問を口にした。
「長谷川の、その、名前ってどういう字を書くの?」
 藤真に名前を聞いて以来、気になっていたことだった。長谷川、はなんとなく解る。だけどカズシという名前をどう書くのか気になっていた。
 平和の和とか数字の数だとか、しは司なのか史なのかとか、色々授業中に想像してはノートの隅に書き連ね、慌てて消しゴムで消すなんてことをここのところ繰り返していたのだ。
 藤真に聞くのも照れくさくて、いっそ長谷川のクラスの名簿でも見てやろうかなんて思いつめたほどだった。私の質問を目を丸くして受け止めた長谷川は、そのまま面食らった調子で口を開く。
「名前って……長いに谷に川だけど……」
「あ、えっと。違くて」
 長谷川にうまく伝えきれていないことに、恥ずかしくて右手のひらで顔を抑えながら左手で待ったを掛けるように空中で泳がせる。私の動きに口を閉ざした長谷川に、私は再度勇気を奮い起こし言葉を繋げた。
「か、カズシって……どう書くの?」
「あぁ。いや、うん」
 観念して口にした言葉は震えていたんだと思う。長谷川も少しだけ言い淀んでいるのはそのせいなのだろう。出来れば「いきなり何聞いてくるんだ」だなんて、引かれたとかじゃなければいいのだけど。
 手のひらで口元の熱を押さえつけながら、長谷川の方へと視線を向けると、長谷川は言い難そうに私から視線を外していた。
「……漢数字の一と、こころざし」
「こころざし……? って武士の士に似てるやつだっけ?」
 長谷川の視線が剥がれたことと、ようやく名前の字面を知れたことが合わさって心のなかから照れくささが薄れていった。だが、こころざしと言われてパッと字が思い浮かばなくて、手のひらに文字を書いて確認を取ろうと長谷川を見上げる。
「いや……」
 チラリと私へ視線を戻した長谷川は、信号を渡りきったところで足を止める。隣に並んで立ち止まり、なぜ、と首を傾げると、傘を左手に持ち替えた長谷川の右手がこちらへと伸びてきた。
 私の左手を掴んだ長谷川は自分の方へと引き寄せ、手を放したかと思うとその手のひらに指を這わせた。
「……こう」
 一、と指の付け根をなぞるように大きく横切らせた人差し指は、続けて手のひらの中心に士、と書き、それから掌底にかぶさるように大きく心、と繋げた。
「武士の士の下に、心」
 字を書くために少しだけ前傾したのだろう。幾分か背の高い長谷川のその顎のラインが眼前にあることからもそれは推察される。耳に直接吹きこまれたわけでもないのに、耳から首にかけてがピリッと痛みに似た感覚が走った。
 身体を離す直前、長谷川の視線が私の目を射抜く。呆然と口を半開きにしたまま固まった私の顔を眉を下げて笑った長谷川は、また右手に傘を持ち替えた。
 まだ立ち止まったままの長谷川は、私のことを見下ろしていることだろう。視線を感じながらも、じっと長谷川が触れた手のひらを見つめる。
 長谷川が示した漢字は「一志」という字だった。
 ――一つの、志。
 字がわかった途端、その漢字の意味するものがすごく長谷川っぽいなと感じた。
「あ、そうか。志高く、の志だ」
 ポツリと言葉を零す。その言葉を口にすることで過去の記憶が鮮明に脳裏をよぎる。それに触発されて、放心状態だった心がようやく普段と同じように動き出す。
「中学の時に鞄に付けてたんだ。その、一球入魂とか一生懸命とか象ってるキーホルダー」
「あぁ、売ってるな」
「それで、私が選んだのが……」
「志高く、か」
「……うん」
 折れたバットを再利用して作られたそのキーホルダーにはいろいろな種類があった。
「真っ向勝負」や「三球三振」だなんてソフト部らしい言葉で選んでもよかったし、ちょっと趣向を変えたものでも「夢叶うまで挑戦」や「努力は無限大」だとかもあった。
 ただ、その中で「志高く」と選んだことが、ここに来てまた別の意味を持ったように感じられる。長谷川のことを好きになるのは、運命だったのかもしれない。こじつけであっても、そう考えてしまう。
「好きな言葉なのにパッと思いつかなかったや」
 自分勝手な考えを払拭するように、自分の勉強の至らなさを自虐的に笑い飛ばしてみたが、照れ隠しにもならなかった。それでも微かに笑った長谷川に、少しだけ救われたような気持ちになった。
は?」
「ん?」
って、どう書くんだ?」
 言いながら、長谷川は左手のひらを上に向けた状態でこちらへと差し出す。先程の長谷川がしたように書けということなのだろうか。
 朱に染まる頬が見られないように顎を引いて、右手の人差し指を伸ばしたが、若干腕の長さが足りず、少しだけ長谷川の方へと身を寄せる。上手く書けないから、と自分に言い聞かせながら、ほとんど長谷川に寄り添うように立つ。
 左手をどこに置いたらいいかわからなくて、触れないようにと気をつけながら長谷川の右肘の辺りに添えた。あまりの距離の近さに、心臓の音が聞こえたらどうしようかと戸惑いつつも、長谷川の手に平の上に「」と普段よりも丁寧に書いた。
「なるほど……」
 私が書いた文字を目を落として見つめる長谷川から、すぐに身を離し、ぎゅっと背中側で両手を組んだ。一志と書かれた手の感触が消えないように拳を握り込め、反対の手で手首を握りしめながら、長谷川の横顔を眺めていると、長谷川が手のひらを下げ、私を振り返った。
「覚えとく」
 眉を少し下げて口元を緩めた長谷川は、そう言い残すとまた駅へと向かって歩き始めた。便宜上とはいえ、長谷川に「」と呼ばれたことがにわかには信じられなくて、歩く長谷川の横顔を眺めてしまう。
 他の友だち――例えば、なんかに呼ばれるとはまったく違うように感じてしまう。
 また呼んで欲しいだなんて言えるはずがない。だからさっきの長谷川の声は絶対に忘れないでいよう。そう、心に固く誓う。
 触れられた左手のひらと、触れた右人差し指と。その両方の感触を確かめるようにモソモソと動かしながら歩いていると、程なくして駅が目に入る。もうすぐ駅に着いてしまうことに気がつくと同時に、自然と唇が尖る。
 ヘマをすることがなくてよかったと安心すると同時に、やっぱりもう少し一緒にいれるものならいたいと思ってしまう。駅に着いて、傘を降ろした長谷川は、私に背を向けて丁寧に水を絞るように傘を閉じていく。その作業が終わるのを待って、振り返った長谷川に頭を下げる。
「今日は、その、ありがとうございましたっ」
「いや……」
 御礼になれば、とジュースを奢りたいという提案は道すがら拒否されてしまっていた。だからこそ、感謝の意を伝える手立てが、お礼を言う以外の方法がなかった。
 照れくさそうに口元を手の甲で抑えた長谷川は、頭を上げろという代わりに私の肩口に手を触れて上体を起こさせる。
「もしオレが傘忘れてきた時はを頼らせてくれ」
 その提案に、申し訳ないと萎んでいた心が瞬時に晴れていく。身を乗り出すほどの勢いで長谷川の顔を見上げ、手のひらを自分の胸に押し付けた。
「オッケー、任せて! どんどん忘れて!」
「どんどんは忘れないけど……」
 意気込んだ私がおかしかったのか、長谷川は白い歯を見せて笑った。慌てて身を翻し、胸に押し付けた手で鞄の紐に縋りつく。
「いや、もちろん忘れない方が長谷川にとってはいいんだろうけれど、でも御礼とかしたいし、頼りにしてほしいというか……」
「うん、わかってる」
 ふわりと目を和らげた長谷川はチラリと改札へと視線を向け、首の裏に手を持って行き、小さく言葉を零す。
は……電車、どっち方面だ?」
 羞恥に塗れた頬を拭いながら長谷川の質問を反芻する。ここまで一緒だった分、離れがたいという気持ちが不意に沸き起こるが、駅に着いた以上、電車に乗って帰らないわけにはいかない。
「えっと、下り側……」
 声が自然と小さくなった。もし時間が許すのならジュースをご馳走するという名目でどこかで話が出来ればというの考えがなかったわけじゃない。でもそれも既に打ち返されていたし、こうも簡単に帰路を促されると、浮かれていた自分がちょっと、いや、かなり寂しい。
「そうか、じゃあ階段のぼるか」
 長谷川の坊主頭を名残惜しむように見つめ、小さく唇を尖らせていると、長谷川の促す言葉が耳に飛び込んでくる。
「え?」
 首を傾げて、再度の説明を乞うと、長谷川は改札から目を離し、私を振り返る。
「オレも、下り」
 言葉が耳に馴染むと同時に、ドキリと心臓が高鳴った。ここまでの道は長谷川の好意に甘えて駅まで連れてきてもらうという名目で並んで歩いてきた。
 でも電車に乗ってしまえば、長谷川にとって私を傘に入れて歩くという義務は無くなる。改札で別れて、別の乗り場から電車に乗ることは出来るだろう。だけど、多分長谷川のさっきの言葉は、それを前提とした言葉じゃないと直感が知らせる。
「え、そ、そうなんだ」
「あぁ」
 さっき長谷川に触れた時、これ以上早く心臓は動かないんじゃと思った。それと同じくらい、鳴動する鼓動の音が、耳の奥で鳴り響く。勇気を出してもいいのだろうか。まだ一緒にいたい、一緒に帰りたいと願っても、いいんだろうか。
「じゃあ、その、もうちょっと一緒帰れるね」
 否定させないような言葉で続けたのは、かなりエゴイスティックだったかもしれない。だけどそれでも、長谷川は、きっと、私がそういう言葉を繋げてもいいと言ってくれるはずだ。
「あぁ、そうだな。一緒に帰ろう」
 言って、長谷川は鮮やかに笑う。その笑顔に釣られて、私も笑った。思いがけない延長線に、心臓が保たないかもしれないなぁなんて考えがチラリと過ぎる。
 望むところだ、と意気込んで、もう一度長谷川の隣に並んだ。



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