013

13. ふたりのウワサ


、お前一志とキスしたって本当か」
 昼休みも中盤に差し掛かった頃、と連れ立って食堂前の自販機でブリックパックのオレンジジュースを買っているところに、食堂から出てきたばかりの藤真から唐突に声を掛けられる。あまりの内容の突拍子の無さに、取り出し口から抜き取ったばかりのパックを取り落としてしまうほどだった。
「ハァ?」
 私よりも先に買ったバナナオレから口を外したが眉根を寄せて藤真を睨みつけるのが横目に入った。
「き、キスって……」
 落としてしまったパックを拾い上げ、その表面についた砂を払い平静を保とうとしたものの、先程の藤真の言葉を反芻すると途端に頬に朱が走る。その反応を肯定と取ったのか、藤真の頬が赤く染まったが、笑うような困るような複雑な表情を取る。
「えっと、藤真……? なに、それ」
 恐る恐る藤真に尋ねてみたものの、口元を開いたり閉じたりと言葉を探す藤真にそれ以上の言葉を掛けられなくなる。
「まぁ、ここじゃ人目がありすぎる。一旦教室に戻るぞ」
 パックの表面を撫ぜていた私の手を掴んだ藤真は、言うが早いか、たたらを踏む私の手を引いたまま教室へと歩き始めた。


* * *


「で、お前と一志と、今、何がどうなってんだよ」
 教室に戻るや否や、私を自分の席につかせた藤真は、その前の席を陣取り声を潜めて質問を投げかけてくる。気怠げについてきたは、私の隣に座り、黙ってバナナオレの続きを飲みながらこちらを見るだけで助け舟を出してくれる様子は見られない。
 ガシガシと後頭部を掻いた藤真は少しだけバツが悪そうに口元を尖らせていて、あまり機嫌が良さそうには見えなかった。
「何がどうも……一体何でそういうこと言うの?」
「さっき食堂で飯食ってたらさ、いろんなやつがお前と一志のこと噂しててよ」
「噂って」
 もしかして昨日一緒に帰ったことを言われてるのだろうか。昨日はあの後、結局、互いの最寄り駅が隣の駅だったということもあって、電車に揺られる時間、ほぼ長谷川と一緒にいることが出来た。当然長く一緒にいればそれだけ同じ学校の人に見られる可能性が上がるというのも理解できる。
 ただ、藤真が持ち込んだ噂の、事実無根の内容に困惑を隠せない。電車内で立ったままでいたから、時折、揺れる電車に互いの肘がぶつかることはあったけれど、よもや唇を触れさせることなんて当然起こり得るはずがない。
 チラリと長谷川の薄い唇が脳裏を過ったが、頭を乱暴に振り散らすことで煩悩を抑えこむ。そんなこと、簡単に表情に出る性質の私が藤真やの前で想像したらナニを言われることか。
 気を落ち着かせようと、ブリックパックにストローを差したものの、口にすることは憚られる。また突拍子もないことを言われたら藤真の顔面に、飲んだそれを吹きかけてしまいそうだと思ったからだ。
「でさ……飯食ってる時一志もいたからさ、デマだろうなって思ったんだけどよ。でも一応な、一志にも聞いたんだよ。との噂って本当かって。そしたらアイツ、合ってるって言うんだよ」
 頬を紅潮させた藤真は眉根を寄せたままではあったが、いつになく饒舌に語る。ただ身体が追いついていないというか、言いたいことが纏まっていない様子で、言葉を妙なところで区切って話すもんだから、こちらとしては煮え切らないものを感じてしまう。
「だからさ、どんな噂なのさ」
 黙っていたが、ストローに噛み付いてプラプラさせながら口を開く。どうやらパックの中身をすべて飲み干してしまったらしい。
「だからと一志がキスしたって噂。それ以外だと同棲してるとかってのも流れてるぜ」
「へ?」
 キスどころか同棲してるとまで言われて、思わず手の中のパックを握りつぶしそうになる。ほんの少しだけストローの先から垂れたのが目に入り、慌てて口元に持って行き吸い付いた。
 甘酸っぱい味が口内に広がって少しは落ち着くかと思ったが、首筋に篭もる熱は誤魔化しようもないくらい頬を熱くさせる。
「いや、同棲とかねぇのわかってんだよ。だけどお前キスくらいならちょっと勢いでしててもおかしくねーだろ」
「おかしいよっ!」
「ちょっと、。アンタいつの間にそんなことになってたの?」
「違う違う違う違うナイナイナイナイ!!!」
「何回言うんだよ」
 茶化すように言ったへ反論すると、藤真は呆れたように溜息を吐いた。何度も頭を横に振ったことと、話の内容に思いがけず目眩が引き起こされ、左手で額を抑える。
 今日一日、なんとなく周囲の視線がいつもと違うように思えたのはこういうことだったのかと、頭の冷静な部分が判断する。脱力するように頭を下げ、机に突っ伏した。頭を横に動かし、チラリと視線を教室内に向けると、いくつかの視線が私から逃げていくのが目に入る。どうやら私の憶測は当たってしまったらしい。やっぱりそうか、と長い溜息を吐いた。
 投げ出した上体を起こしながら、片手に持ったままだったパックをもう一度口元に運ぶ。
「……昨日はたまたま……っていうか初めて一緒に帰っただけだよっ」
 クラスのみんなの耳に入れば、と弁明するように普段よりも少しだけ大きな声で言葉を告げる。
 だから付き合っているどころか、キスもしてないし、同棲なんてとてもじゃないけどしてませんよ。
 それだけの言葉を告げるには、恋愛的な経験値や度量が絶対的に足りず、釈明というには程遠いものになってしまったが今の言葉が私の精一杯のものなのだから仕方がない。
「は?」
「そんだけ?」
 藤真もも目を丸くしてこちらを覗きこんできたので、私はジュースを飲み下しながら首を縦に振った。それぞれに視線を向けると、2人共キレイに眉根の間に深いシワを刻みつけている。
 疑われているのだろうか。身に覚えのないことを言われてもしてないものはしてないとしか言いようがないのに、とストローから口を外して小さく息を吐いた。
「駅前でのキスは」
「そんな……しないよ、してないっ! 出来るわけないっ!」
「電車の中で仲良く抱き合ってたってのは」
「……揺れた時に支えてもらったことだと思う」
「明日の朝飯の話してたってのは」
「朝ごはんはパンより米だよねって話?」
「……子供が出来たってのは」
「イトコが飼ってるねこにこどもが生まれたよって…」
 藤真とに交互に投げかけられた質問をそれぞれ一様に打ち返すと、今度は脱力した藤真が机の上に上体を投げ出す番だった。サラサラの髪が腕に触れる。突然の接触がこそばゆくて、椅子を下げ藤真から距離を取る。
「んっだよ、それ!」
 頬を机に乗せたまま左手で乱暴に頭を掻いた藤真はそのまま机の端を叩く。怒ったようなその仕草にビックリして思わずに視線を送った。だが、彼女もまた同様に机に肘をつき、両手で顔を覆っていて、とても藤真を思いやるどころではなさそうな様子だった。
「尾ひれ背びれどころじゃねーな」
 頬が机に圧迫されているせいか、普段とはちょっと質の違う声で唸った藤真に、思わず両手を膝の上に揃えてしまう。口元を真一文字に引き締めてじっと藤真のこめかみ辺りを眺めていると、藤真は大仰に溜息を吐き出した。
「はー……なんだよ、ったく……」
 不貞腐れた顔で起き上がった藤真は顎肘をついて半眼で私の顔を睨めつける。目を丸くして藤真を見返すと、藤真の手がこちらへ伸びてきて、軽く指で弾かれる。思わぬデコピンに、大げさに頭を揺らしてしまう。
「なにすんの」
「うるせー、バァカ」
 私とは視線を合わせるつもりがないかのように鼻先を廊下側へと向けた藤真のつむじを唇を尖らせて睨みつけたが当然反応が返ってくるはずはない。膝の上に不安定に置かれていたブリックパックを机の上に持ち上げ、指先の腹で額を撫で付けていると、またひとつ、藤真は溜息を吐き出した。
「くだらねーだけのデマだってなら噂してる奴らとっちめてやろうと思ってたんだけど、一志が合ってるだとか言うからホンットに焦ったわ」
「藤真のことからかったつもりだったんじゃない?」
「えぇ? 一志がァ?」
 心底胡散臭そうに目を細めた藤真は、ちらりと私の顔を見て、それからまた教室内へと視線を戻した。
「無いとは言い切れないけど……いや、アイツが嘘吐くなら他人巻き込むようなことはしないだろ」
 藤真の言に、確かに長谷川なら、もし冗談を言うとしても、誰かに不利益を被らせるようなことは言わなさそうだ、と思う。
 そもそも長谷川は誰かをからかったりするのだろうか。いつも真摯な態度で接してくれる長谷川のちょっとフザケた様子を想像してみたい気もしたが、見たことがないこともあってあまり上手に脳裏に思い描けない。
 無表情とは言わないけれど、あまり表情の変わらない長谷川の笑顔は、見たことがあるといってもほとんど目を和らげたり口角を持ち上げたりとささやかなものばかりだった。それでも鮮やかなものと思えるのは、ひとえに私から長谷川に向けられた好意の矢印のせいなのだろう。
 藤真は冗談めいて笑う長谷川を見たことがあるのだろうか。だとしたら羨ましいと思う、ちょっと、否、かなり。
 傍らに置いたままのパックを手に取り、ストローに口をつける。ジュースと一緒に、もたげそうだった嫉妬に似た感情を飲みくだした。
「まぁ、いいや。ちょっとシャレになんねー噂もあるしみんなに言っとくか」
 言って、立ち上がり際に2回私の頭を叩いた藤真は、教壇の前に集まった一陣に向かって声をかける。
「おーい、お前らの噂、全ッ然あってねーぞ!」
「え、なになにー」
 藤真に声を掛けられたことに色めきだった女子や、興味なさそうな素振りで視線をチラチラ寄越していた男子が、藤真の一言にわらわらと集まっていく。一瞬でその環の中に飲み込まれた藤真の姿は見えなくなったが、弾む声が耳に届けば今しがた私とした話をそのままクラスの人たちに話をしてくれているのだと知る。
 自分が一番情報通だと言わんばかりのその声は小憎らしいものもあるけれど、噂を撤回してくれているのだと思えば、助かったと思うほかない。ひと通りの話が終わったのか、藤真を中心とした集団から、ほんのちょっとの話が膨れ上がったことに同情の視線が向けられる。一挙に受けた視線に、軽く会釈して返すと、彼女たちもまた曖昧に笑んだり、片手を眼前に立てて謝罪の意を示したりと様々な反応を返してきた。
 横に座るが覆ったままだった手のひらを膝の上に投げ下ろしたのを横目で確認し、彼女の方へと身体を向き変える。
は、その噂……されてるの知ってた?」
「一応耳には入ったけど、根も葉もないことばっかだったからねぇ」
 呆れたように笑うに、少しだけ胸の痞えが下りるようだった。安堵に溜息を吐くと、じっと私の表情を見ていたが目元を少しだけ険しくさせる。
「高野なんかさ、が藤真とナントカ川と二股かけてんのかなんて言いやがって。思わず手が出そうになったっつの」
「そうなんだ……」
 ナントカ川というのは恐らく長谷川のことなのだろう。「長谷川だよ」と、小さく訂正したがは「あぁ、うん」と気のない返事を返すだけだった。
 ひとつ、溜息を吐きこぼす。興味無さそうなその態度に、釈然としないと思いつつもどこか救われるような気さえする。マイペースを貫くに慣れ親しんだ感覚を甘受しながら、そう言えば、まだに長谷川のことが好きだというのを伝えてなかったと今更ながらに思い出す。
 好きだと自覚してから日が浅いというのもあるけれど、あまりにも藤真がそのことで協力するだの長谷川はこういう男だとの囃し立ててくるから、より一層、ににそれを告げることに二の足を踏んでしまっていた。
 今この状況で伝えるのはシンプルな流れかもしれないけれど、どさくさに紛れて伝えるのもあまり好ましくないかもしれない。どうしたものかと指先で首の後を掻くと、は小さく笑った。
「大丈夫よ」
「うん?」
「単なるアンタの片想いだって解ってるからね」
 察しのいい友だちというのは時に助かる。だが、それと同じ頻度で困惑をもたらす。思わず真一文字に口を引き締めて、目を瞬かせていると、彼女は目を光らせて意地悪げに笑った。
 肯定するにしきれないこの状況に、私は頬を赤くしてうつむくことしか出来ない。だが、そのような反応を見せた私を見ただけで、がすべてを確信してしまうだろうことは、長年の付き合いでわかりきっていた。
「おい、誤解解いてきてやったぜ」
 胸を反らせた様子で告げた藤真は、どこか誇らしげに見えた。熱くなった頬を手の甲で擦り、の追求から逃げるように藤真を振り返る。
「藤真、サンキュね」
「おー、まぁ一志のためでもあるからな」
 私の座る前の席にどっかりと腰掛けた藤真は、チラリとこちらへと視線を向け、そして先程のと同じような笑顔を浮かべる。その表情に嫌な予感しかしない。逃げの気持ちの現れか、背を反らすとキシっと椅子が鳴った。
「で、よ」
「う、うん」
「お前、オレへの報告が足りねぇんじゃねーか」
 睨めつけるように私に視線を向けた藤真は、また顎肘を付いた状態でこちらへと顔を近付けてくる。
 眼前に差し迫った藤真の端正な顔からは一切の甘ったるさは感じない。迫力満点のその目の威力に鼻水が出そうになるほどだった。
「その一緒に帰ったって話、詳しく聞かせてもらおうじゃねーか」
「あ、それ私も聞きたい」
「ちょっと
「しょーもない噂は興味ないけど、からの真実なら聞きたいわ」
 藤真の言葉に尻馬に乗ったは、椅子を引いてこちらの話に加わろうという姿勢を見せる。2人の間に挟まれては逃げ場がない。明白な事実を前に萎縮してしまう。腕こそ掴まれてないものの、心情的に絡めとられているような気さえする。逃げ出したいのに、逃げ出せない。
 唯一、私に出来た抵抗は、更に椅子を下げることだけだった。だが、それも背後の机にぶつかってしまったらそれ以上動くことは出来ない。
 マズイ、と唇を引き締めて、藤真の顔を押し退けようと手のひらで抑えていると、不意に廊下から声がかかった。

 明朗とは言い難い。それでもハッキリと聞こえたその声に振り返ると、そこには長谷川の姿があった。
 教壇側の入り口。扉付近に立った長谷川は、私と視線が合うと小さく口元を引き締める。いつもなら目が合えば手を翳してくれたり口元を緩めたりしてくれるのに、今日はそれが成されない。
 普段とは少し違った長谷川の様子に目を丸くすると、長谷川は少し頭を下げて教室に踏み入ってくる。
 咄嗟に藤真から手を離す。そんな反応を見せた私に倣い、藤真もまた上体を反らして私から距離を取った。
 噂の片棒を担がされた長谷川の登場に、クラスの人たちが途端に色めき立つ。だが、それらに気付いていないのかあえて無視しているのか、長谷川は他に視線を向けることなく、まっすぐに私の元へと来る。一歩、近づいて来る度に、胸の内に焦燥が積み重なっていく。
 私のすぐ隣に立った長谷川は、一瞥を藤真へと投げかけ、そして視線を翻し私の瞳に照準を合わせた。
……ちょっと、いいか」
「え、うん」
 話があると言外に含ませた長谷川は、言葉少なに私を誘う。反射的に返事をし、立ち上がる。長谷川の出現に気を取られていたせいか、微かに震える足を椅子の脚に軽くぶつけてしまう。
 痛みに顔を歪めた私を気遣うように、こちらへと手を差し出した長谷川が私の腕に触れる。倒れ込むようなことはなかったが、じくりと胸が痛むのは抑えきれなかった。
 誤魔化すように長谷川から身体を離し、藤真たちを振り返る。
「ちょ、ちょっと、行ってくるね」
「お、おぅ」
 呆気にとられたような表情を浮かべたふたりを見つめながらそう告げる。見つめる、とは言ったが、動揺支配された視線は定まっていなかったことだろう。落ち着きのない私の様子を目にしたはずの藤真たちは、それでもすんなりと送り出してくれた。
「おお、アレが噂のナントカ川……」
……テメェ、絶対に手ェ出すんじゃねーぞ」
 声を潜めてボヤいたを制する藤真の声が耳に入る。感じるのはそれだけじゃない。普段あまり喋ったことのないクラスメイトたちの必要以上の視線が執拗に背中にまとわりつくような感覚を味わう。
 身震いするような居心地の悪さから逃げ出すように、先を歩く長谷川の背中を小走りで追いかけた。



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