014

14. タイトロープを掴んで


 教室を出ると、ドアの脇で長谷川が立ち止まる。ここで話すのだろうか。問いかける代わりに、背の高い長谷川と視線を合わせるべく見上げてみた。長谷川もまたこちらへと一瞥を落とす、だが、そのままひとつ頷いた彼は、また私に背を向けて歩き始めた。
 ふと、長谷川の足取りが、先程よりも緩やかになったのに気付く。どうやら彼は、私が追いつくまで待ってくれたらしい。小さな気遣いは、簡単に私の胸の内を熱く焦がす。
 曖昧に視線を横へとずらし、長谷川の背中を追いかける。一歩分、あった距離を詰め、隣に並ぶ。チラリと長谷川の横顔を眺め、かち合わない視線を確かめた後、改めて正面を向いた。
 横に並んで歩く間、流れる沈黙を噛み締める。妙に落ち着かない心境を、お腹の上で両手を組んで親指同士を突つき合わせることで誤魔化そうとする。だが、そんなことで抑え込めるものならとっくの昔に立ち消えているというものだ。
 つい先程、見上げたはずの横顔さえ目にすることが出来ない。きゅっと下唇を噛み締めて、自分自身の照れくささから目を背けるように、廊下の窓の外を眺め続けた。
 階段の手前に差し掛かった長谷川が不意に立ち止まり、屋上へとその視線を向けた。屋上に上がるのだろうか、と先んじて身体をそちらに向けたが、長谷川は反対側へと進みだす。
 その背中を追いかけ、技術棟へと繋がる渡り廊下に出ると、少し前を歩く長谷川は手摺に手を添えながら足取りを緩やかなものにし、やがて半ばほど歩いたところでその足を止めた。
 普段ならばその横に、躊躇いながらも並ぶのに、今日はどうしてもそれを出来るだけの空気がない。長谷川に壁を感じるというよりも、私が勝手に引け目を感じているだけなのだが、その壁を乗り越えるための勇気を生み出すことが出来そうもなかった。
 微かに地面に視線を落とし、小さく溜息を吐き零す。まだ昼休みは15分ほど時間を残していたが、そこでお弁当を広げて食べる人はいない。
 視線を技術棟まで伸ばして見たが、今は幸い、誰もいないし、通り過ぎる人にさえ気を付ければ話の内容を誰かに聞かれることはなさそうに思えた。
「……どうしたの、長谷川」
 こんな風に呼び出されることは初めてで、落ち着かない心情のまま長谷川の言葉を促す。早く会話を終わらせたいというよりも、緊張感を纏うことに、もう耐えられなかったからこその行動だった。
 横から吹く風に靡く髪の毛を軽く手櫛で整えながら、中庭に視線を向けた長谷川を見つめる。その横顔を目に馴染ませると同時にじくりと堪え切れない感情が胸に広がり、何かに縋りたくてこめかみ辺りの髪の毛を掴み、長谷川の言葉を待つ。数秒の沈黙の後、小さく肩で息を吐いた長谷川がこちらを振り返る。
 久しぶりにかち合った視線。目に入った長谷川は笑顔とは程遠い表情を浮かべている。眠たいのを我慢するように寄せられた眉根に、あまりよくない話をされるのだなと悟った。
「いや、結構な噂になってるってクラスのやつに言われたんだ……」
「あ、長谷川も聞いちゃったんだ」
 軽く笑んで返す。だが身内にある羞恥心を暴かれたくなくて、長谷川に向けていた視線を避けるように髪を触っていた手を目にかかる程度に下ろす。
 長谷川への気持ちを本人に伝えたわけでもないのに、それ以上の関係なのだと周囲に噂されているというのはどうにもバツが悪かった。
を、その、困らせてるんじゃないかと思って、様子見に来たんだ」
「困らせるなんて、そんな」
 長谷川は思ったより心を痛めているらしく、こわばった顔つきで私を見下ろした。憐憫にまみれた長谷川の言葉を、両手を眼前で振って否定する。あんな根も葉もない噂をされてしまった原因は、昨日傘を忘れた私にある。
 長谷川の性分がそうさせるのだろう。けれど、あまりにも優しすぎるその考えに、より一層長谷川を傷つけてしまったのではないかと罪悪感が増す。
「本当に、大丈夫か?」
「全然、そんな、平気だよ」
 無理をしていないのかと更に眉根を寄せた長谷川に、私は曖昧に笑んで応える。長谷川への申し訳なさと少しでも心配を取り除けれれば、と思ったからこその行動だった。だが、その中途半端な想いが表情に出てしまったことで、長谷川はますます申し訳無さそうに眉を下げる。
 うまいフォローの言葉を続けられない。後悔に抗えず、下唇に噛み付いた。ひとつ、息を吐き出し、今度は先程よりもきちんと笑って見えるように口角を持ち上げる。
「それに、藤真がちゃんと一緒帰っただけだって訂正してくれてるし」
「え?」
「え、って……なんで?」
「一緒に帰ったことが噂になってるのか?」
「へ? そう聞いたけど……」
 細い目を丸くした長谷川は、寄せていた眉根をさらに寄せる。混乱した様子の彼は口元を掌で覆い隠し、私から視線を外した。
「……どうして?」
「いや、オレが聞いてるのと違ったみたいだから」
 首を傾げて、長谷川と視線を合わせられないか試みた。だが、顔全体を背けてしまった彼にそれは叶わなくなってしまう。合わない視線を、横顔へと差し向ける。
 苦渋を絵に書いたような表情を浮かべた長谷川の様子を見ていると不安な気持ちが沸き起こる。心境が傾けば、思考も引っ張られるように変遷する。藤真から告げられた噂の内容が、生易しいものばかりではなかったことを思い出したのもそのせいだった。
 もしかして、先程から長谷川はそれを気にかけているのかもしれない。クラスの人達には藤真が訂正してくれたが、アレらの噂を知らない人たちから口にされているのを知って「全然平気だ」と称するのは強がりに聞こえてしまっても仕方がない。
「あ、もしかしたら……一緒帰ったっていうよりも、それよりもっと過激な……噂の……こと?」
「過激?」
 不思議そうにこちらを振り返った長谷川に、ドキンと心臓が撥ねる。合わせたいと思っていた視線が交わった。望んでいたことなのに、実際に交差すると真っ直ぐな視線を受け止め損ねてしまう。まごついた私を、今度は長谷川が覗き込む番だった。喉の奥がひりつくような緊張を飲み下し、薄く唇を開いた。
「……つ、付き合ってるとか、キスしたとかそういう」
「は?」
「アレ、違った?」
「……いや、オレが聞いたのとはまた違う」
「そうなんだ……なんかスゴイね」
 それ以上の言葉を差し出すことはできなかった。誤解とは言え、長谷川に対して付き合ってるだとかキスしただとか、そんな言葉を口にすると考えただけで体温が引き上げられる。
 熱くなる頬を誤魔化しながら、長谷川に降りかかった災難について考える。藤真やとの会話を思い返しなら、もしかして同棲だとか子供が出来たとか聞かれたのだろうかと見当をつける。
 チラリと長谷川の様子を盗み見る。思いついた案を問おうかどうか考えたが、確認するためであっても、口にすることが憚られた。うなじの辺りに手をやって痒くもないのに撫で付けてしまう。
「せっかく一緒に帰ってくれたのに迷惑しかかけてなくてホントごめんね」
 頭を下げて謝ると、長谷川は小さく狼狽したようにたたらを踏み、こちらへと歩み寄ってくる。昨日と同じように肩に手を添えて上体を起こされると、当然、頭上に長谷川の顔がある。
 逆光でもハッキリと解るほど眉根を寄せて、細い目を更に細めた長谷川の、その憂いの表情は私がさせてしまっているのだと思うと胸が痛くなった。
「いや、は何も悪くないだろ」
「や、でも……」
「オレの方こそ、浅はかだった」
 キッパリと告げた長谷川に、小首を傾げる。
「そういう噂とか、高校生にもなって、ましてオレが噂の対象にされるなんて思ってもみなかった……そういうのは藤真とか割と目立った奴がされるもんだろうなって勝手に考えてた」
「そういうもんかなぁ」
 上体を起こされるままに長谷川を見上げ、目立たないなんてことは無いと思うんだけど、と考える。どこにいても目を引くのはもちろん、私が長谷川のことを好きだからなんだけど、贔屓目を除いても目が離せなくなるような魅力は十分にあるように思えた。
 派手な人が多いバスケ部に所属し、その筆頭の藤真がだいぶ懐いているというのも大きいかもしれない。
 背の高さに追いついてないものの、標準的男子高校生と比べたら随分逞しい身体つきとか嫌でも目立つ要素だし、目が細くて精悍な顔つきの割に、物静かで柔らかな物腰のギャップとか結構キュンとくるのに。
 ――っと、これは単なる私の長谷川評でしかないかもしれない。
 まっすぐに長谷川を見つめることが出来なくて、慌てて視線を外す。きゅっと唇を結ぶと、不思議そうな声で長谷川が「?」と尋ねてきた。
 その声に潜む愛らしさに、自然と耳が熱くなった。浮かぶ感情を抑えつけるように無理矢理に笑い、もう一度長谷川を振り仰ぐ。
「そ、そう言えば、長谷川が聞いた噂ってどういうのだったの?」
「いや、それは……」
 自分の羞恥を誤魔化すために話を逸らしたが、今度は長谷川が、微かにたじろぎ、私から視線を横に逸らす番となった。左手を私の肩から外し、軽く拳を握って口元に持っていった長谷川のその表情は先程と同じく眉根を寄せていたが、先程のものとは少し違った表情に見える。
「もしかしてもっとマズイこと言われたの?」
「いや……が聞いたものに比べたらヌルい」
「そうなんだ……」
「いや、まぁ、マズイというか……」
「隠されると気になっちゃうね、なんて」
 私の言葉に小さく笑った長谷川は、笑みを隠すように下唇に噛み付き、それから私を振り返った。普段よりもまっすぐに私の目を見下ろした長谷川に、きゅっと甘苦い痛みが胸に走る。
「オレが、のことを好きだって噂」
 言い淀んだ長谷川が告げた言葉の意味を、汲み取りかねて目を瞬かせる。
 ――逆じゃ、ないのか。
 最初に思いついたのは、それだった。それ以外は何も考えつかず、ただ、呆然と、長谷川を見上げたままでいた。
 だが、当然のようにまっすぐに落ちてくる長谷川の視線と、右肩に添えられただけだったはずの手が食い込むような鈍い痛みに、ゆるゆると私の頭の中に、今しがた放たれた言葉の意味が広がっていく。
 都合よく「のことを好きだ」という部分だけが耳に再度沸き起こる。理解した途端、耳の後ろが熱くなった。
「う、うわぁ……」
 絞りだすように漏れた声は混乱に塗れた譫言にしかならず、掠れて喉に引っかかって思わず咳き込みそうになる。触らなくても解る。多分、私、今、かつてないほど顔が赤い。
「ちょ、ちょっと、それは、反応に困るね」
「あぁ……悪い、巻き込んでしまって」
「や、長谷川は悪くないっしょ」
「いや、それでも、きっかけはオレだから……スマン……」
 頭を振って否定したものの、目を細めながらバツが悪そうに呟いた長谷川は先程から表情を曇らせたままで、こちらまで苦しくなるようだった。
 視線を反らし、きゅっと唇を結ぶ。じわじわと胸に広がる罪悪感に触発されて焦燥が増幅される。うなされるような熱を抱え込みながら、昨日、長谷川と隣に並んで歩いた道を思い返す。
 あんなに甘い時間はきっと他の誰と一緒にいても過ごせない。私の思いあがりだとしても、長谷川がほんの少しでも心を許してくれたように感じられた。
 だけど今、妙な噂が原因で長谷川の纏う空気に、昨日まではなかった遠慮のようなものを肌で感じる。とんでもない勘違いな噂だと笑い飛ばせるような相手でもなければ、まして肯定して付き合っちゃおうぜなんて冗談を言えるような相手じゃない。
 出会って、名前を知って、普通に話せるようになって、幾ばくも時間は経ってない。育ちきっていない関係性は、ここで行動を間違えれば、修復しようと足掻いたところで、一から築くよりも得難いものになってもおかしくない。
 長谷川とこれっきりになってしまう可能性が脳裏を掠める。今はもう、長谷川の手が触れているこの肩のように、辛うじて繋ぎ止められているだけなのかもしれない。
 きゅっと拳を握り込める。ヤスリで削って整えた爪の先が手のひらに刺さった。手のひらよりも痛む胸に、熱が生まれる。
 こんなくだらない出来事で、長谷川への想いを手放せるわけがないし、お互いに引け目を感じて今までみたいに振る舞うことが出来なくなるなんて絶対に嫌だ。

 ――訳のわかんない噂なんかに、阻まれてたまるか。

 小さく息を吐き、顔を上げ、ハッキリとした視線を長谷川に向ける。微かに逸らされていた視線が戻ってくるのを確認し、口を開いた。
「ねぇ、長谷川」
「……ん」
「私が本当に長谷川のこと好きだって言ったら困る?」
 私を見下ろす双眸が揺らぐ。それでも離れない左肩の手に、一縷の望みを捨てられない。
 本当は長谷川を好きだから大丈夫なのだと宣言してしまった方が意図は伝わったのかもしれないけれど、こんな周りに盛り上げられた告白なんかでは、絶対に私の中にある感情を伝えきれる気がしない。場の空気に流された軽いモノだなんて、思わせたくはない。その気持ちだけは十分にあった。
「え――?」
 それでもその覚悟は、長谷川の眉根が困惑に寄せられるのを目にすれば途端に揺らいでしまう。長谷川の中に生まれた距離感のようなものを打ち崩したいと願ったけれど、それを叶える気が長谷川の中にないのなら、意味が無い。
「ごめん、今の状況だとたとえ話にもならないね」
 目を柔和に細め、右手を後頭部に回して髪を撫で付けながら照れ笑いを浮かべる。もっと良い言い回しがあったのではないかと後悔したが、ソフトで得意の変化球を実生活で巧みに操ることが出来るほど器用ではなかった。
 ――やっぱ、忘れて。
 そう言い差した瞬間、長谷川の口が薄く開いた。
「――困らない」
 耳に馴染むその声で告げられた言葉と、まっすぐに向けられた眼差しに胸が熱くなるのを感じた。その熱は胸だけでは収まらず、首を伝って耳へ、頬へ辿り着く。
「困るもんか……」
 眉根を寄せて言った長谷川は、私の肩口に触れさせていた手を下げ、肘の辺りを掴む。ほんの少しではあったけれど、その腕を引き寄せられたように感じたのは、きっと勘違いじゃない。
 搾取したとも言える回答だったけれど、それでも長谷川が私を拒絶しなかったことに安堵が胸に沸き起こる。
「……ありがとう」
 頭を揺らして長谷川の言葉に応える。長谷川は口元を結んだまま私を見下ろし、小さく右手に力を入れる。縋るようなその仕草に、また一つ私の胸に勇気が生まれた。
「長谷川もそう思ってくれるのと一緒で、私も、困るとか迷惑だとか……そんなの絶対にありえない」
 右手を左へと持っていけば、私の腕に触れるその手の甲に指先が触れる。微かに反応したその手を掴むことが出来なくて、そのまま長谷川のブレザーの袖口を掴んだ。
 そう言えば、黒板を拭いてもらった時は、ブレザーの背中を引いたな、と少し前の記憶が頭を過ぎる。あれからまだ1ヶ月と経っていないのに、今は長谷川の正面に立っている。
 こうやって、少しずつでいいから、関係を深めて行きたい。自らの願望に促され、私は先程飲み込んだばかりの言葉を紡いだ。
「だから気にしないでこれからも、今までみたいに仲良くしてくれたら嬉しい」
 長谷川が嫌だというのなら避けられても仕方がない。そういう言葉を添えることも出来た。だけど、それを提案できるほど、私は出来た人間じゃない。
 離れることを自分から選ぶような謙虚さが、美徳だなんてことは絶対にない。長谷川に向けた視線を離さずに見つめていると、袖口を掴んだ手にきゅっと力が入る。つまらないことで距離を置きたくないという気持ちが自然とそうさせた。
「わかった……」
 私を見下ろしていた視線を離さないまま頷いた長谷川は、引き締めていた口元をほんの少しだけ緩めた。その眼差しには先程まであった遠慮は消え失せ、いつものような親しみが込められていると感じ取る。
 長谷川の心にある重石のような感情を少しでも軽く出来たのではと思うと、涙こそにじまないものの、鼻の奥がツンとするような痛みが走った。溢れ出しそうな安堵感を抑えきれず、天を仰いで息を吐き出す。
「よかったぁ……」
 不安で寄せられていた眉が下がるのと同時に、顔が緩んだ。改めて長谷川に向き直ると、長谷川は目を丸くして瞬かせて私の目を覗きこんだ。
「どうして?」
「だって、もう長谷川と喋れなくなっちゃうかと思ったんだもん」
 くしゃりと笑ってそう答えると、長谷川は口元をポカンと開けて固まり、それから声に出して笑った。快活とは遠い笑みだったが、普段の穏やかなものとはまったく質の違う笑い方に、思わず面食らってしまう。
 唐突な長谷川の代わりざまに今度は私が驚かされる番だった。
「えっ、なに、なに長谷川」
 私から手を離し、自分の口元を隠して笑う長谷川は、顔を私からそむけながらもこちらへと視線を向ける。
「さっきまでのと全然雰囲気が違うから……」
「そ、そうかな?」
 くつくつと笑う長谷川の言葉に頬が熱くなり、思わず目を伏せる。長谷川のことを諦められないと必死になりすぎたことを指摘されているような気がしていたたまれない感情を抱いた。
 照れ隠しに鼻の頭を指先で掻きながら長谷川を振り仰ぐと、手のひらで口元を覆った長谷川と視線が交わる。その瞳のもつ柔和さに、先程とは種類の違う熱がまた頬に生まれた。
 両手の平でそれぞれの頬を抑えて浮かぶ熱を誤魔化しながら、さっき長谷川が口にした噂のことを思い出す。
 ――長谷川が、私のことを好き。
 今のような状況で、長谷川の言う噂をドサクサに紛れて、むしろ逆が正しいんだなんて訂正するわけにはいかないけれど、いつか、そこに辿り着きたいという願望がないわけじゃない。
 偶然もチャンスのうちかもしれないけれど、そういうチャンスは自分が作らなきゃ意味が無い。もっと大事にしたい。この想いはもう誰にも邪魔はさせない。
「ありがとうな、
  朗らかに笑った長谷川に応えるように、私も白い歯を見せて笑った。




error: Content is protected !!