015

15. 眩しい微熱


「まさに雨降って地固まるってやつか」
「……うん?」
 したり顔で言った藤真の言葉に曖昧に頷いてみせると、藤真は厄介なものを見つけたような目で私のことを見た。長谷川と話すことで2人の間に微妙に生まれつつあったわだかまりを早々に解消できたことを藤真に報告しただけなのに、そんな蔑んだ目つきを向けなくてもいいじゃないか。
 溜息を吐き出した藤真から視線を反らし、先程まで長谷川といた渡り廊下へと視線を向ける。今までどおり話しかけてもいいのだという安堵感と、長谷川に笑顔を向けられたことへの充足感を思い返し、本当に良かったと胸を撫で下ろした。
「満足そうなツラしやがって……」
 耳に飛び込んできた声に振り返ると、藤真は目を細めて笑った。先程の視線にあった哀れみが一切含まれていない笑い方に、藤真もまた長谷川に降りかかった火の粉が払われたことにホッとしたのだろうと見当をつける。
 独善的に振る舞う割には意外と友達思いなところがあるみたいだし、多分その予想は当たっているはずだ。藤真に釣られるように笑いかけると、藤真は浮かべていた笑みを引っ込めて「なんだよ」と悪態をつく。腹が立つことはないけれど、その反応のギャップに思わず苦笑いを浮かべた。
「けどよ、
「んー?」
「お前、ちょっとは勉強した方がいいぞ」
「え、どうして?」
「再来週には中間試験だぞ。わかってんのか、お前」
 憮然とした表情で続けた藤真は椅子に背中を預けるようにしてふんぞり返る。唐突に教師のようなことを言われて、思わず目を瞬かせた。
 教室の前方に掛けてある行事予定表に目を向けると、夏服移行のお知らせと体育祭の種目別選手名簿が貼られているのが見て取れる。そしてそのプリントの横に先日まではなかった中間試験の範囲が示されたものが燦然と貼られていた。
「おぉ……」
「……もしかして今知ったとか言わねぇよな?」
「……………………」
「否定しろよ」
 声を尖らせた藤真は私に対してバカだとか間抜けだとか罵詈雑言を並び立てる。そう言えば試験期間に先立って部活も休みになることを部長からも言われていたっけ。
 じわじわと実感させられた危機感に、口元を引き締めてみたものの、迫り来る試験を無事突破できるはずがないと諦めにも似た思いが胸中に沸き起こった。


* * *


 放課後になり部室へ行く直前。気を利かせてくれたが試験範囲のコピーをくれた。聞けば先週配られたのだというそれには全部足せば教科書2冊分のページ数になるのではというほどの範囲が書かれている。
 漫画ならこのくらいのページ数あっさり読めるのにな、と代替にもならない考えを頭に浮かべ、小さく溜息を吐いた。普段と比べて全く高揚しない気持ちを抱えたまま部室へ向かう。階段を1段、1段と踏みしめていると自然と肩が落ち、よろめくような足取りになってしまった。
「気が重そうだな」
 唐突に頭上から振ってきた声に、淀んだ視線を向けるとそこには苦笑いを浮かべた長谷川が立っていた。
「わっ、長谷川っ!」
「ウォッス」
 小さく頭を揺らした長谷川は、階段を軽く小走りで降りてきて私の隣に並ぶ。呆けたように見上げたままだった私を目にし、今度は口元を綻ばせて笑った。
「どうした?
 突然の長谷川の出現に自然と頬が熱くなるようだったがなるが、聞かれた質問の内容にその熱さえも奪われる。
「中間が……」
 身内にある感情を制御しかねて覚束ない言葉で告げると、長谷川はその細い目を更に細めるだけの反応を取る。右手に持ったままだったプリントを長谷川の前に差し出すと、長谷川はそれを覗きこむようにしてこちらへと身体を前傾させた。
 肩が触れそうなほど近付いた長谷川の、慣れないその距離感に息が詰まりそうになる。
 ――藤真が踏み込んでくることにはだいぶ慣れたのにな。
 ドギマギとした心境で長谷川の横顔から視線を外せないままで立ち竦む。意外と眉毛細いんだなぁ、とまじまじと見つめていると、プリントに目を落としたままだった長谷川が、顔を上げる。当然じっと見つめたままだった私の視線とかち合い、長谷川は驚いたかのように更に上体を起こした。
 普段の距離感に戻ったことに胸を撫で下ろしたが、もう少し近くにいれるようになりたいだなんて強欲な考えが頭をチラついた。
「試験範囲、気になるのか?」
 手の甲で口元を隠した長谷川は、留めていた足を動かし階段を降りていく。その背中を追いかけながら言葉を返す。
「気になるというか……危機感を持ちまして……」
「まぁ、そろそろ日がなくなってきたからな」
「勉強苦手なんだよなぁ……」
「そうなのか?」
 先を歩いていた長谷川がこちらを振り返るが、その問にすぐに返答するのは憚られた。だが、バカなのだとバレたくはなかったけれど、事実は隠しようもない。コクリと小さく頭を揺らして答えると、長谷川はきゅっと口元を引き締める。
 呆れられるのが怖くて、曖昧に笑んで応え、少し歩調を緩めていた長谷川の隣に再度並ぶ。足元に視線を落とすと、長谷川に微妙な表情を見られずに済むような気がして少しだけホッとした。
「数学とか担任の先生だから頑張りたいんだけど……イマイチわかんないんだよね」
「……数学は教え方次第な面もあるからな」
 低い声で続けた長谷川に、チラリと顔を上げて長谷川の表情を伺う。大人びたというか余裕のあるというか。落ち着いたその言葉に、長谷川は数学が得意なのだろうかと訝しむ。もしそうなのだとしたら羨ましいなと思うと同時に、とある数学教師の評判が頭を掠めた。
「そう言えば長谷川のクラスの数学の先生ってすごく教え方上手いんでしょ?」
「そうだな。教え方がまったく嫌味じゃないから苦手意識を無くしてくれるし、教科書以外の例題もプリントで解かされるから他のクラスより実践的だろうな」
 饒舌な長谷川のその言葉に、数学教師への信頼が感じ取れる。もし私が追加でプリントを配られた立場ならその教師を意地悪だとも思いかねない。自らの考え方を改めなければならないと姿勢を正されるような思いを抱く。
「いいなぁ。こっちは解るまで立ってろって言われるから気が気じゃないよ……」
「それは嫌だな」
「って言っても、数学以外が得意なわけじゃないんだけどね」
 はぁと一つ溜息を吐きこぼすと、長谷川が労うように私の肩に触れた。
「……たしか、のクラスの古典の担当、評判いいんじゃなかったか」
「私、あの先生好き」
 古文や漢文を含め国語全般を担当している教師を思い出すと自然と口元が綻んだ。単なる単語の覚え方一つとっても例文を交えて情景たっぷりに教えてくれるから、関連付けて覚えられるし、単語のテストも授業の開始時に必ずするので多少無理矢理にでも勉強する習慣がついた。
 そのようなことを掻い摘んで長谷川に伝えると、長谷川は軽く眉を下げて口元を綻ばせた。
「オレはあまり文系が得意ではないから、のクラスが羨ましいな」
「あはは、お互いままならないねぇ」
 苦笑して答えながら、頭の中にある考えがチラつき始める。試験勉強にかこつけて、長谷川に迷惑をかけるのはあまりいいことではないだろうけれど、今一歩踏み込んだ関係になりたいと思うのなら、自分から動くしかないはずだ。
「……ねぇ、長谷川」
 言葉で引き止めるよりも先に、手が自然と動いて、長谷川の肘の辺りをつつく。階段を降りながらも長谷川はこちらを振り向いてくれたのを見て、引っ込めた手をお腹の辺りで組んだ。
「ん」
「長谷川は数学、得意?」
「得意かどうかは微妙だけど試験範囲ならバッチリだな」
 頼もしい受け答えに、考えていた言葉を観念して口にしようと、組んだ手に更に力を込める。
「恥を忍んでお願いしたいんだけど……」
「一緒するか」
「え」
「試験勉強」
 長谷川の言葉に、思わず口を閉ざし、目を瞬かせる。国語のノートと引き換えに数学のプリントを貸してくれないかと交渉をするつもりだったのに、それ以上の提案を出されてにわかに戸惑ってしまう。自然と手に力が入り、持ったままだった試験範囲のプリントに皺が入った。
「え、いいの?」
 短い問いかけに対して、長谷川は頭を縦に揺らす。
はオレに古文と漢文教えてくれたらちょうどいいだろ」
 あっさりと言ってのけた長谷川の言葉に、じわじわと喜びが体中に広がっていく。こんなに簡単に飛び上がってしまいそうなほど嬉しい約束が出来ていいのだろうか。
 昼休みに話をすることで難を逃れることが出来たと思っただけだったのに、以前よりも長谷川と距離が縮まったように思える。制服の下で粟立った肌を隠すように自分の手のひらを胸に押し付けた。
「教えれるか自信ないけれど……全力は尽くさせていただきます」
 意気込んで応じた言葉に、自然と頬が紅潮したのが解った。全力で頑張りたいのは勉強だけじゃない。目の前にいる長谷川に、全力で向かって行きたい。
 うん、と一つ頭を揺らした長谷川は、その細い目を更に柔和に細めた。


* * *


 長谷川との約束が実行されたのは部活禁止期間に入ってからの事だった。互いの家が駅1つ分離れているだけだとは知っていたけれど、さすがに部活帰りにどこかに立ち寄って勉強しようと提案できるほどの体力は残っておらず、また部活がなくても誘う度胸もなかった。
 そこまでの間柄になるにはもう少し時間と交流が必要で、今の私にはそれを越えることはできない。
 結果、放課後になったら長谷川のクラスに私が足を運ぶことになった。扉の影に隠れて、まだクラスの半数くらいの生徒が残る教室内を伺う。教室の後ろの方に座っていた長谷川を見つけると同時に、長谷川もまたこちらを振り返った。
、こっち」
 長谷川に手招かれて、教室の中に足を踏み入れる。周囲の視線がこちらに向いたと感じたのは、慣れない場所に赴いたせいだろうか。胸に抱えたノートに縋る手に力が篭もる。
 教室の奥の方に座っていた長谷川の元へ辿り着く頃には、顔だけではなく耳までもが熱を持っていた。
「オッス、長谷川」
 手を翳して長谷川に笑いかけると、長谷川もまた手を掲げて応えてくれる。長谷川の隣に座っている人がこちらを見上げていることに気付き、小さく頭を揺らした。
 さっき見た時は長谷川はこの人と喋っていたはずだ。そこに割って入ってしまったことが少しだけ気に掛かったが、その人は特に気にした素振りも見せず、「ここ、使っていいよ」と私に指し示し、長谷川に「じゃあな、一志」と言って立ち上がる。
 彼は長谷川と同じくらい背が高く、予想していたよりも遥かに頭上に頭が上がっていったことに思わず後退ってしまう。教室を後にするその背中をぼんやりと見送っていると長谷川が「バスケ部のやつなんだ」と私に告げる。持っていたノートを背中に隠し、長谷川を振り返った。
「ちょっと……吃驚した」
 簡潔に長谷川に感想にも似た言葉を零すと、長谷川は目を丸くする。
「どうして?」
「いや、だいぶ背が高いんだなって」
 言いながら手を翳して先程の彼の身長を示す。センターフライを追っていった時よりも高く掲げたのは誇張が過ぎるかもしれないけれど体格のいい相手だったことを思えば、あながち間違いじゃないはずだ。
「オレもそんなに変わらないんだけどな」
 困ったような表情を浮かべた長谷川は眉を下げて私を見上げる、上目遣いにも似たその表情に、喉元に変な力が入った。
「だって、長谷川はもう慣れたもん」
「え?」
「だからもう、驚いたりしない」
「あぁ……」
 頭を揺らした長谷川は、私を改めて見上げ、微かに口元を綻ばせた。それに安心して私もまた長谷川に笑いかける。
 教室内に人がいる間はなんとなく席につくのが憚られて、そのまま長谷川と取り留めのない会話を続けた。主な話の内容はテスト明けの体育祭の話で、長谷川も私と同じく学年対抗男女混合リレーに選出されているのだと教えられる。
 生憎、長谷川のクラスとはブロックが違った為、表立っては応援出来ないことが少しだけ残念だった。
 3分ほど話を続けた頃合だろうか。まばらではあるが教室内に居残った人数が減っていく。テスト勉強期間とはいえ、教室に残って勉強する人はほとんどいない。まっすぐ家に帰る人が殆どだったが、中にはこっそり部活に勤しむ人も居た。
 藤真なんかもさっさと教室から出て行って下足場とは別の方角へと足を進めていったものだ。居残り勉強組にとって、学内で一番人気が図書室というのは知っていたけれど、教えてもらうために言葉を交わすことさえも憚られる場所は二人で勉強する意味が無い。また、どうしても一人になりたかったとある男子生徒が、屋上の入り口に机を持ち運んでいったという話もあるらしく、思わず目を丸くしてしまった。
 そのような会話を続けていると、最初は数人残っていた人も、いつの間にか居なくなっていて、教室には長谷川と私だけが残される。他のクラスの人間なのに陣取ってしまって申し訳ないと思いつつも、長谷川と居ることで周囲の視線を気にしなくていいというのは少しだけ気が楽になった。
 噂されて間もないというのに、こうやって長谷川と一緒にいるとその噂を増幅させるのではと危惧もしたけれど、もう恐らく、事実無縁のものに振り回されることはないだろう。その程度の腹はもう据わっていた。
「そろそろ始めるか」
「うん、よろしくおねがいします」
 帰り際に使っていいと申し出てくれた長谷川の隣の席の人の椅子を借りて、長谷川の真横に並ぶ。1つの机を二人で使うの流石に距離が近すぎかとも思ったけれど、机を2つ用意したところで同じノートを覗きこむのであれば結果は同じことだろう。
 古文のノートを開き、試験範囲の内容を教師に教えられたとおりに長谷川へ伝える。思ったよりもなめらかに口から出てくる説明に、長谷川はすんなりと聞き入れてくれる。
 どうやら長谷川と勉強するのだと決まってからは以前よりも授業に身が入ったらしい。我ながら単純だと苦笑する。
 私の拙い説明を覚えようとしているのか口を閉ざし考えこむ長谷川の横顔が目に入る。こんな浮ついた気持ちでいたら駄目だ、真面目に勉強するのだと自らを戒めてみたけれど、その目線が長谷川から離れることはなかった。
 部活中なら遺憾なく発揮される集中力も長谷川を前にすると途端に消え失せた。シャーペンの頭を顎にトントンと2回押し付け、もう一度長谷川が数学の先生に余分に貰ってくれていたプリントに目を落とす。
 同じ範囲の問題が色々と出題されていたのだが、上から順番に難しくなっているのが目に見えて分かった。そこからは基礎からじっくり教えてくれる気概が感じられ、単純かもしれないけれど少しずつ理解出来るように感じられる。
 時折、長谷川に解き方を聞きながらではあるものの、黙々とプリントをこなしていると、不意に長谷川が小さく笑った。それに触発され顔を上げると、長谷川は口元をペンで隠すようにしていたけれど、その下からはほのかに笑みが浮かんでいるのが目に入る。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと……」
「なに? なんか、あった?」
 長谷川が目にしているのは古典のノート。つまり私が書いたものだった。もしかして誤字でもしていたのだろうか。それくらいならまだましで、なにか落書きを残したままにしていたかもしれない。そう言えば、棒人間が踊っているのをノートの上の欄に並べて書いたのはどの教科のノートだったっけ。
 ペンを持つ手にも自然と力が入った。肩に緊張が走ったのか小さく身構えて長谷川を振り仰ぐ。
「ここ」
 言いながら長谷川は私のノートの真ん中辺りを指し示す。他に書いている文字よりも歪んだその文字は、止まるべきところで止まらず、ノートの端までその線を伸ばしていた。
 長谷川が言わんとしていることがわかり、にわかに頬に熱が走る。
「眠かったんだろうなって」
 追い打ちにもなりかねない言葉を続けた長谷川からノートを隠すように上体を机に押し付ける。
「言わないでっ!」
「いや、もう見てしまったから」
 隠しようがないとでも言いたげな長谷川の口調には普段よりも軽やかなものに感じられた。くつくつと笑う長谷川に恥ずかしさが増して、ノートに額さえも押し付ける。
 目をぎゅっと瞑り、自分の中にある感情を押し込めようとしたが、耳にさえ現れるその熱を誤魔化せる気がしなかった。
「もう……笑わないでいいじゃん……」
「悪ぃ」
 その謝罪の声は笑い含みのもので、益々居たたまれない気持ちが沸き起こる。顔を捻って頬をノートに付けたまま長谷川を振り仰ぐと、やはり想像通り長谷川はまだほんの少しだけ笑っていた。
が眠くならないように、ちゃんとしないとな」
 からかうように笑った長谷川の手が不意に翻り、私のこめかみと耳の間に収まった。反射的に目を瞑ると、大きなその手が撫で付けるように動くのを肌で感じ取る。
 その手が離れていくと同時に、今しがた長谷川が取った行為の意味が理解できて、思わず目を見開いて固まってしまう。暖かな陽気が窓辺から差している。それを背に受けて優しく笑う長谷川が私の頬に少しだけ掛かった髪を指の甲で梳いた。その名残惜しむような仕草に、胸の真ん中辺りに甘い微熱が走る。
「寝ないよ……」
 そう返すのが精一杯で、口元を結ぶ。照れくささに目元が滲みそうになるのを感じ、目元に力をこめる。机に押し付けた耳に、ドクドクと血が巡る音が響いた。



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