Encounter 02

Another encounter 02


 コンビニで買ってきたジュースとお菓子を片手に家庭科室に戻ると、相変わらず手芸部のやつらは黙々と作業に臨んでいた。ミシン針が動く音と縫い方の相談らしい会話がそこかしこから聞こえてくる。だが、オレが家庭科室を出て行く直前まで、どの音よりもハッキリと聞こえていた安田さんの声が聞こえない。
 視線を巡らせてみれば、入口付近でオレと同じクラスの女子とふたりで本と布を見比べながらなにやら縫っている姿が目に入る。
 ――あれ、ぺーやんはもういねぇのか?
 そこにぺーやんの姿がないのを確認し、改めて家庭科室内を見渡した。だが、安田さんから解放されたはずのぺーやんの姿が一向に見つからない。の近くにでも座ってんのかと視線を差し向けたが、さっきよりも眉根を寄せてミシンと向き合っているひとりしか目に入らなかった。
 ――もしかしてぺーやんのヤツ、追い出されちまったのか?
 十分ありえそうな予想に目を丸くしながら、奥に座る三ツ谷の元へと歩み寄る。さっき来たときと同じようにこちらを一瞥した三ツ谷は、作業する手を止めることなく話しかけてきた。

「おかえり、パーちん」
「オゥ、ぺーやんは?」

 三ツ谷に話しかけながらも周囲をぐるりと見回す。立ち位置を変えてもなお見つからない姿に首を捻れば、作業を止めないままこちらを一瞥した三ツ谷が軽い笑いを漏らした。

「あぁ、ぺーならついさっき〝オレもジュース買ってくるワ〟って、出てったよ。入れ違いだな」
「ハァ? なんだよ、それ。メールでもくれりゃ一緒に買ってきてやったのになぁ」

 オレが買いに出てんだからわざわざ出向くなんて面倒なことしなくてもいいのに。すでにコンビニから出てたってんなら断るけれど、そんな話さえもちかけられなかったことに釈然としない気持ちが残る。
 不満げな声をあげるオレに苦笑した三ツ谷は、布の周りについた糸くずを手の甲で払うとようやくこちらに視線を向けた。

「まぁ、にちょっかいかけて追い出されたみたいなモンだからな」
「あぁ……なるほどな」

 つい先程、予想したばかりの展開が起こったのだと口にする三ツ谷に軽く頭を揺らして応じた。の顔つきが険しいのもぺーやんに話しかけられて集中力が途切れた分、取り戻そうとでもしてんだろうな。
 の性格をベースに勝手に思いを巡らせながら丸椅子に腰掛けると、買ってきたばかりのペットボトルを口元で傾けた。初夏にすらなっていない季節とは言え、ちょっと歩けば喉は渇く。オレンジ味の炭酸を喉に流し込み、口の中を潤していると、ふと、さっき出会ったばかりのチビのことを思い出し、思わず眉間にシワを寄せた。
 ――そういや、アイツなにか難しい言葉を言っていたんだよな。
 あとで三ツ谷に聞こうと思って、なんとなく覚えておいたつもりだったが、ウロウロしているうちに忘れてしまった。
 ――四文字熟語ってやつは、どうにもこうにも覚えにくいんだよなぁ。
 東卍の特攻服に書いてあるやつもぼんやりとは覚えているが、紙に書いてみろって言われたら書けない予感しかない。そんな状況なのに、一度聞いただけのものをオレが覚えていられるはずがなかった。
 それでも気になったことをそのままにしておくのも気持ち悪くて、思い出そうと必死に記憶を辿る。
 ――なんだっけ、なんかちょっとかっこいいやつ。ボクシングで聞いたことあるような、ないような。
 あれこれ考えを巡らせるものの、チビが暴れ回る姿ばかりが頭の中に再生され、肝心の言葉だけがさっぱり思い出せない。
 ――たしか「せ」から始まった気がする。センコードーテイでもなくて、セイコウトウテイでもなくて……。
   あぁでもないこうでもないと思いつく言葉を頭の中でこねくり回していると、不意に、喜色に満ちた笑い声を上げたチビの姿が思い描かれる。それと共に、チビが高らかに口にした台詞がパッと脳裏に閃いた。

「あ、そうだ。なぁ、三ツ谷」
「ん?」

 縫い目に沿って針を動かす手元に視線を向けたままの三ツ谷に、頭に浮かんだばかりの質問を投げかける。

「オマエさ、セートーボーエーって知ってる?」
「え、正当防衛? どうしたんだよ、パーちんにしては難しい言葉知ってんじゃん」
「アァ?! 知らねぇから聞いてンだよ!」

 オレの言葉があまりにも予想外だったのだろう。わざわざ作業を止めた三ツ谷は、目を丸くしてこちらを振り仰いだ。その反応が気に入らなくて反射的に強く言い返せば、三ツ谷は肩を竦めて笑う。

「悪ィ悪ィ。パーを怒らせるつもりじゃねぇから。でもどこでそんな物騒な言葉覚えてきたんだよ」
「ちょっとさっき耳にしてよ」
「へぇ。誰から?」
「知らねぇ。なんかちっちゃくて、容赦ねぇヤツ」
「ふぅん?」

 オレよりも背が低いと伝えるべく座ったまま肩の下ら辺で手のひらを平行に動かせば、三ツ谷はその身長が相手の本当の身長と思ったらしく「それじゃルナよりちいせぇよ」と笑った。

「でさ、ソイツが言ってたんだよ。センポーリョーヘーってなんだ?」
「……言葉変わってんぞ? 良平はぺーの名前だろ」
「あ、そうだったワ」

 後ろ頭を掻いて間違いを認めれば、三ツ谷は小さく笑ったのち、再びミシンを動かし始める。規則正しく針が動く音に紛れて、三ツ谷は落ち着いた声音で言葉を紡いだ。

「これは実戦じゃなくて法律の問題で、要は〝喧嘩で先に手を出した方が不利ですよ〟ってことなんだけどさ」
「ウン」

 解説が始まったのだと察しがついたオレは軽く背筋を伸ばして三ツ谷に向き直る。手元に落としていた視線をひとつこちらに差し向けた三ツ谷は作業に取り掛かる傍らで説明を続ける。

「たとえばオレがパーを狭い路地裏に追い詰めて殴りかかったとするじゃん」
「うん」
「んで、さらにもう一発殴ろうとした。そしたらオマエどーする?」
「何すんだよって殴り返す」

 そんな事態が起こったら、拳を振りかぶられた瞬間にカウンターで殴り返すと思うが、殴られたってのなら殴り返すほかない。逃げ場がないなら尚更だ。キッパリと言い放てば三ツ谷は肩を揺らして笑った。

「そ。それが正当防衛」
「へぇ!」

 わかりやすい説明に感心しながら相槌を打てば、気を良くしたのか三ツ谷は口元を緩めた。
 
「まぁ、本当なら殴られる前に避けるか逃げるってのが前提なんだろうけど、やむを得ない場合ってのはあるからな」
「ヤムおえないって、なんだ?」
「んー。そうだなぁ……。こっちが殴り返さないと仕返しされるのが目に見えてるとか、相手がナイフを持って襲いかかってきたとか、そういうケースじゃないか」
「追撃される前にやらねぇとヤベェときってことか」
「そうなるな。まぁナイフなんて持ち出されちゃ喧嘩なんて言ってらんねぇから逃げて欲しいところだけどな」

 納得したと伝えるべく胸の前で腕を組み大きく頷くと、口元を緩めた三ツ谷は糸切りバサミで糸を切り、布の端を持ち上げて縫い目の状態を確認する。するすると布が動く様を目で追っていると、ふと、頭に浮かんだ疑問が口を突いて出た。

「じゃあ、オレがに殴られそうになったからって殴り返しても、のパンチなんてたいして痛くねぇから正当防衛にはならない?」
「物騒だけど……まぁ、そうなるかな」

 眉尻を下げた三ツ谷はこちらに一瞥を差し向けると、そのまま家庭科室の中央へと目を向ける。自分の作業が一段落したところで他の部員の様子が気になったのかもしれない。
 腑に落ちた心地とともに「うんうん」と頭を揺らしていると、離れたところから「三ツ谷先輩」と聞こえてくる。

「おー、どーした?」
「お話中、すみません。ここの縫い方なんですが……」
「ん? どれどれ……」

 オレがひとり納得している間に席を外した三ツ谷は部員の質問に答えに行く。談笑をまじえた声が耳に入ってくるのを聞き流しながら、三ツ谷の説明を頭の中でもう一度なぞり、正当防衛の使い方を思い描く。
 あのチビは自分よりもかなり体格のいい男、それも三人も同時に殴られそうになったんだ。だからこそ、その正当防衛とやらが使えるのだろう。
 ――ん? 待てよ? 正当防衛は先に手を出すなって意味だって三ツ谷は言ってたけどそれのどこがダメなんだ?
 喧嘩は先に手を出さなきゃ、こっちがダメージを食らうだけだ。言葉の意味はわかったが、新しい疑問にぶち当たり首を捻ってしまう。
 三ツ谷は法律がどうのこうのと言ってたけど、法律を作ったやつは喧嘩なんてしたことねぇんじゃねぇだろうか。融通の効かなさに自然と下唇が突き出る。
 ――でもあのチビはあんなに喜んでたんだ、きっといいものなんだろうな。
 オレがその正当防衛とやらを使う機会はないだろうけれど、チビにとっては大事なことだったんだろう。先程とは違い、どこか納得いかない心地は残ったが、これ以上しつこく考えるのも苦手だし、と疑問の声を頭の中から追い出した。
 それと同時に、後輩の質問に答え終えたらしい三ツ谷がこちらへと戻ってくる。

「悪ぃ、話の途中で」
「ん? いや、もうカンペキ理解したから大丈夫だぜ」

 ニッと歯を見せて笑いかけると「そりゃよかった」と言った三ツ谷は「それでさ」と続けながら丸椅子に腰掛ける。

ってパーのこと殴ったりすんの?」
「え!? が? いやいや、オレはやられたことねぇよ」
「ふぅん? オレは、ってことはぺーやんは殴られてんだ?」

 不意打ちで投げ込まれた質問にギョッとしつつも答えたが、三ツ谷がさらに追い打ちで質問してくるもんだからますます驚いてしまう。いつになく掘り下げてくる三ツ谷に首を捻りつつも、がぺーやんを殴るなんて想像すらしたこともない映像を頭に思い描く。
 あまりにもしっくり来ない想像に、苦笑いすら浮かばない。そんくらいが強けりゃ心配ねぇのにな、としか思えなかった。

「それもねぇな。アイツらのがよく一緒にいるし、たまに揉めてるみてぇだけどに殴られたなんて話、聞いたこともねぇよ」
「……そうなんだ?」
「そうだって! ぺーやんはともかく、は手ェ出さねェよ」

 オレもふたりとは長い付き合いだが、家が隣同士なアイツらの方が気心が知れている分、色々と衝突することが多い。とはいえ、ふたりが喧嘩をしている場面に出くわしたところで殴り合いに発展することはないし、仲裁に入ればすぐに仲直りする程度のものしか起こらない。
 仲がいいからこそちゃんとお互い思っていることを言い合えるってやつだ。だが、そんなオレの言葉を耳にした三ツ谷の反応は予想外のものだった。喧嘩に挑むときと同じくらい眉を顰めてこちらを睨み付けた三ツ谷は、いつもと比べて幾分も低い声で言い放つ。

「……ハ? ぺーのやつ、のこと殴ってんの?」
「違ェって! 手ェ出すっつっても、つっつくとかデコピンくらいのもんだよ!」

 怖い顔してる三ツ谷に気圧されたわけではない。だけどぺーやんを誤解されたままなのも居心地が悪い。そんな思いと共にふたりの小競り合いがどの程度のものなのかを説明すると三ツ谷は顰めていた表情を引っ込め、詰めていた息を吐き出した。

「あぁ……、なるほどね」
「そーそー。だからあんま心配すんなって。ぺーやんが本気でのこと殴るわけねぇじゃん」
「……それもそうだな」

 オレの言葉に納得したと言う代わりに頭を揺らした三ツ谷は、窓枠に背中を預けて深く息を吐き出した。安心したと言いたげな姿に目を丸くしつつも、いつもの三ツ谷らしさが返ってきたことにオレもまたホッと息を吐く。
 凄まれた時は「そんなにかよ」とびっくりしたが、それだけを心配してくれたってなら悪い気はしない。面倒見のいい三ツ谷ともなれば、女子が殴られてるなんて事件は見過ごせないのだろう。
 まじまじと三ツ谷の様子を眺めていれば、こちらに一瞥を流される。眉尻を下げて苦笑を浮かべた三ツ谷は傍らに置いていた布を広げ、また次の作業に取り掛かりはじめた。
 話に一段落ついたのかとペットボトルを傾けたが、針と布に目を向けたままの三ツ谷がゆったりとした口調で話しかけてくる。

「……デコピンされてもやりかえさねぇの、っぽいな」
「ん? まぁな。ヤられた時は〝なんでそんなことするの〟って顔してるけどよ。ぺーやんがそういうことする時は大抵が悪ィんだよな」
「あー……。見たことあるな」
「だろ?」

 ニッと歯を見せて笑いかけたが、三ツ谷は相変わらず手元に視線を向けたままだった。いつも思うけど話しながらよく細かい作業出来るよな。オレだったらどっちも出来なくなって混乱しちまいそうだ。
 感心すると共に縫われていく布を目で追っていると、三ツ谷が「まぁ、でも」と言葉を紡ぎ始める。

「変にやり返してトラブルに巻き込まれるより大人しく逃げてくれた方がいいよな」

 縫い終えた布を翻し、角を調整しながら三ツ谷は言う。ちょっとした誤解があるなと気付いたオレは一口分、ペットボトルを傾け、 再びミシンを滑らせ始めた三ツ谷に話しかける。

「いや、まったくやりかえさねぇってワケじゃねぇぞ。ナンパとかキャッチとか、肩やら腕やら触られたら引っ掻くくらいはしてるしよ」
「それは……。うん、まぁ、そんくらいしねぇと振り払えないなら仕方ないけど……」
「まぁ、滅多にそんなことにはならねぇけどな」

 またしても複雑な顔をした三ツ谷に、心配なんてしなくていいぞと言う代わりに軽く訂正を挟んだ。最近じゃそういう事態になる前にオレらが追っ払うってのが当たり前になってるしな。
 とは言え、傍目から見たら道を聞いているのか誘拐かどうかの区別もつかねぇから、間違って喧嘩を売ってしまうこともある。それでもが妙な目に遭いそうになるよりよっぽどいいと自分自身を納得させた。
 ――そいうや、が妙な男を引っ掻くのも正当防衛って呼ぶのかもしれない。
 ついさっき覚えたばかりの言葉を頭に思い浮かべると、状況や説明がしっくり来るような気がした。これが応用ってやつだな。賢くなった心境にウンウンと頭を揺らしていると、いまだに三ツ谷の表情が晴れていないのが横目に入った。

「どーしたんだよ、三ツ谷。変な顔して」
「ん? あー……、いくらナンパ相手でも他人を怪我させんのは心配だなって」
「正当防衛ってやつでも?」
「そ。が一発返して終わりってんならいいんだろうけど、相手が逆上したら危ねェだろ?」

 眉根を寄せた三ツ谷の言葉に本気でを心配しているのだと伝わってきた。ただの部員にも気を配るなんて、やっぱり三ツ谷は面倒見がいいな。そう感心すると共に、自然と笑みがこぼれる。
 だけど三ツ谷には妹たちがいるし、手芸部の部員だってこんなにたくさんいる。のことくらい、心配しなくてもいいって安心して欲しいよな。

「大丈夫だよ、三ツ谷。のやつ、結構逃げ足速いからいざとなったらちゃんと逃げるって」
「そうか? まぁ、パーちんがそう言うなら……」
「オゥ。それになんか起こりそうになってもぺーやんがすっ飛んでくからよ」

 ガキの頃からそうだ。急にの手を握ったりスカート捲ったり、余計なちょっかいかけた男には「になにすんだッ!」ってぺーやんが殴りかかっていた。保育園から続いたこの習慣は中学生になった今でも続いている。まぁ、さすがに小学校の高学年あたりには妙なちょっかいかけてくるヤツもいなくなったけどな。
 通りすがりのキャッチならともかく、日常生活でがやり返す姿をあまり見たことがないのもそのおかげってやつだ。そんな昔話を交えて三ツ谷に伝え「だから三ツ谷もあんまり気にすんなって」と笑いかけた。
 これだけ安全だと説明したんだ。当然、三ツ谷も笑うだろう。そう思っていたが、オレの言葉を聞いた三ツ谷は先ほどよりも眉間のシワを深めていた。

「ん、そこまでは聞いてねぇ」

 オレの言葉をはねつけるように言った三ツ谷に目を丸くする。どこかトゲのある言葉を吐き捨てた三ツ谷は、横顔でもわかるほどぶすっとしているが、一体どうしたんだろう。
 もしかしたら話が弾みすぎて縫うのをミスったんだろうか。だったら悪いことしちまったな。浮かび上がった考えにしょんぼりと肩を落としたが、さっきと同じように三ツ谷の手元は滞りなく動いていて、何も問題がないように見えた。

「なぁ、縫うのミスったのか?」
「別に、そんなんじゃねェよ」
「そうか?」
「ん」

 ミスったんじゃないならいいか。急に機嫌が悪くなるなんて三ツ谷にしては珍しいが、生きてりゃたまにはあるよな。
 そんなことを考えながらペットボトルに手を伸ばし、喉を鳴らしてがぶ飲みする。炭酸のしゅわしゅわとした刺激に、そろそろじゃがりこを食うタイミングなのではと思えてきた。
 一瞬、ぺーやんが帰ってくるまで待つか考えたが、そんなに待てないとばかりに腹が鳴る。
 ――三ツ谷も食うかな。
 チラリと視線を三ツ谷に差し向ける。相変わらず口元をへの字に曲げた三ツ谷は、不機嫌だと隠しもしない様子で作業を進めている。
 今のところ、ジュースを飲むのはセーフのようだが、お菓子を食べ始めたら今度はオレが叩き出されかねない。過去に何度かあったやりとりを思い返し、食うなら別の場所だなと結論づける。

「ちょっとンとこ行ってくるワ」
「ん。の邪魔にならないように気をつけてな」
「オゥ」

 不満げな顔でも部長としての一面は忘れない三ツ谷に苦笑しつつ、お菓子とジュースをそれぞれの手に持ち丸椅子から立ち上がると、の座る位置を確認する。
 奥に座るの元に行くのならどう通っていくか。通りやすいルートを頭の中で組み立て、それに沿って歩き始める。
 ただでさえ狭い作業台同士の通り道は、布や道具が置かれた丸椅子がポツポツあってなおさら歩きづらい。なるべく端っこを通りはしたが、それでもの元へ行くには自分たちの作業に没頭する女子たちの背中と背中の間をくぐり抜けるしかなかった。
 女子たちは、オレが思っているよりもめちゃくちゃ弱い。ちょっとぶつかっただけでも痛いと叫ばれた経験が頭を掠めると気をつけなければと身が引き締まる。
 腹や腕がぶつからないように、腹に力を入れて引っ込めて慎重に歩いていく。だが、狭い場所を用心して歩くのは結構難しい。
 奥に座っていたの元へと辿り着くころには、喧嘩とはまた違う疲れにゼェゼェと息を吐くほどになっていた。自然と止めていた呼吸を取り戻すべくフーッと長い息を吐き、肩にのし掛かる違和感を打ち払うと、オレが来たことに気付きもしないに声をかける。

、じゃがりこ食わね?」

 掲げたじゃがりこのパックを横に振りしゃかしゃかと音を鳴らしたが、は一向に振り返らない。際限なく続くミシンの音に掻き消されてしまったのかもしれないと思い、もう一度声をかける。

「なぁ、? 聞いてンのか?」

 さっきよりも声を張ったが、それでもの反応はなかった。一瞬、無視されているのかと危ぶんだが、に限ってはそんなことねぇよなと浮かび上がったばかりの考えを打ち捨てる。
 は昔っから集中すると周りの音が聞こえなくなる性質だ。部活中ならなおさらだろう。
 こっちに一瞥すらくれない横顔を見下ろしていると、自然と古い記憶が脳裏に蘇ってくる。
 保育園の時だったか小学校に入ってからかは忘れたが、ガキのころのが、自分が落としたお菓子をアリが巣に運ぶさまをじっと見ていたことがあった。あの時もオレやぺーやんが隣に座ろうが声をかけようが振り返っちゃくれなかった。
 結局、痺れを切らしたぺーやんが、耳元で「おきろ!」って叫んで、びっくりしたがひっくり返っちまったんだっけ。
オレが今、同じように叫んだら、はあの時みたいにひっくり返っちまうんだろうか。そんなイタズラめいた考えが浮かんだが、椅子から落ちんのはさすがにかわいそうだと思い直す。
 三ツ谷の言う通り、邪魔しないのが一番なんだろう。集中した横顔にちょっかいをかけるのはよくないなんて、馬鹿なオレにでもわかる。
 けどよ、話しかけに来たんだからこっち向いて欲しいじゃん。
 そう考えるのとほぼ同時にの手が止まる。
 ――お、ナイスタイミング。
 ニッと口元をほころばせたオレは、ミシンを止め何やら検分を始めたの耳元でじゃがりこのパックを振る。一段落しても作業に意識が傾いたままだったのだろう。 突然降って湧いた異音に、は背中をびくりと震わせた。

「?!」
「はは、起きたか?」
「……寝てない」

 恐る恐るこちらを振り返ったはオレの姿を目に入れると、きつく寄せた眉根をほんの少しだけゆるめた。それでも十分顰めっ面に見える顔つきのまま頭を横に振り、縫い終えたばかの布に縋るように胸にかき抱いた。
 ほどけきらない表情に苦笑しつつも、近くにあった丸椅子を引っ張って隣に腰かける。

「集中するのもいいけどよ。ちょっと張り切りすぎじゃねぇか? 少しは休んだのかよ」

 オレの言葉にぎゅっと強く目をつぶったは数度まばたきを繰り返した後、眉間にシワを寄せたまま目元を擦り始める。
 目が疲れているのだと言わんばかりの行動に、どうにかしてやりてぇな、って気持ちが湧いてくる。
 ハンカチでも濡らして来てやったらいいかな。でも今日はトイレの後で手を拭くのに使っちまったし汚ぇよな。
 ウンウンと頭の中で何をしてやれるかとこねくり回していると、手元にあるペットボトルが目に入った。

「あ、ファンタならまだ冷てぇけど目に当てるか?」
「大丈夫……」
「じゃあ、じゃがりこは? 食うだろ?」
「ん」

 こくんと頭を揺らしたは、こちらに手を伸ばそうとしたが、ハッとなにかに気づいたように動きを止める。ちらりと手元の布やミシンに目を走らせると同時に手を引っ込めたに、「なんだ?」と首を捻った。だが、疑問に思ったのも束の間、こっちを振り返ったが「あ」と軽く口を開いたことでその意図が伝わってくる。
 手を汚したくないけど食べたい。だから食わせろ、ってことかよ。

「しょうがねぇなぁ……」

 パッケージの蓋を開け、その中の一本をつまみ上げるとの口元に差し出した。唇の先で受け止めたじゃがりこを、手を使わずにポリポリと食べ始めたを眺めながらオレもまたじゃがりこを口に運ぶ。
 行儀がいいのか悪いのかわかんねぇ姿を見ていると、ふと、ポチにおやつをあげた時の姿が重なって見えた。
 ――場地もだけど、もちょっとポチに似てんだよな。
 肩にかかるくらいの長さの髪を見つめながらそんなことを考える。むしろ髪色が明るい分、場地より似てるかもしれない。
 ふたりと一匹。勢揃いしたのを見たことないから、いつか見てみたいよな。今度、散歩に行く時にでも呼び出してみるかな。もしかしたら見分けつかねぇなんてことになったりして。
 ぺーやんに伝えたら「そんなわけねぇだろ」と苦笑いされそうだ。それよりも顔合わせた途端にポチに吠えられて逃げちまうかもな。ぼんやりと思い描いた光景に口元をゆるめる。
 あ、そうだ。今日も天気がいいし――。

「……帰ったら散歩に連れて行ってやんねぇとなァ」
「散歩?」

 頭に思い浮かぶままに零れた言葉を拾い上げたは、不思議そうな顔をしてオレを見た。「そーそー」と返しながら、なんとはなしに手のひらの中に視線を落とせばが右手を載せてくる。

「ん? どーした?」
「お手したらいいのかなって思って」
「いや、なんでだよ」
「ポチの真似」

 得意げに口元をゆるめたに目をぱちぱちと瞬かせる。
 言われてみれば、椅子にお座りしてるし次はお手って言われるのを想像してもおかしくはない。だが「さすがに幼馴染を飼い犬扱いはしねェ」と伝えると、今度はが目を瞬かせる番だった。
 ピンと来てない様子に苦笑いを浮かべつつも、の左手を取って両手並べて掬い上げる。まぁ、がお手ってんならそれでもいいけどよ。そう思い、ポチにそうするように上下に振って動かして遊んでいると、正面から「ふふ」と笑い声が聞こえてきた。

「パーくん、今日嬉しそう」
「え?」
「なにかいいことあった?」
「急に言われても思いつかねぇなぁ……」

 突然の指摘に困惑し思わず首を傾げた。機嫌が良いと言われてもまるで自覚がない。それどころか家庭科室に来る前までは試験が近くて落ち込んでたくらいだ。
 や三ツ谷と話をして気が紛れたってのが関係しているのかもしれないが、それで機嫌がよくなった、とまで断言されるのは腑に落ちない。
 ――あぁ、でもここに戻ってくる前からテストのことはすっかり頭の中から消え去ってたな。
 家庭科室に満ちたいつも通りの空気がオレを安心させるのに一役買ったのは間違いない。けど、それよりももっと違う理由があると思い出した。
 頭の片隅にあるのは、コンビニに行く途中で見かけた光景だ。それが、今、オレの胸のうちを静かに弾ませているのだとハッキリ自覚する。

「そう言えばよ、さっき変なヤツに会ったぜ」
「変な?」

 オレの言葉を拾い上げ怪訝そうに眉根を寄せたにとっては変なヤツ=悪人の図式が成立しているのだろう。嫌悪混じりの反応に、慌てて言葉を取り繕う。

「いや、変なヤツって言ってもヤなヤツって意味じゃなくてさ。なんていうか……また話してみてぇなって思えるヤツ」

 言葉にするのが難しいけれど、なんとなく胸に生まれた気持ちを下手くそながらも形にする。変なヤツだけど、また会ってみたい。さっきの出会いを悪くないと思えた理由はこれだけで十分だ。
 元々、骨のあるヤツは好きだし、ちゃんと話してみたらウマが合うんじゃないかって予感もある。次に顔を見たときは、もしかしたら敵同士なんてこともあるかもしれないが、その時は対戦してみたいよな。

「興味深いとか、そういうこと?」
「そう、それ!」

 うまく言葉に出来なかったものがちゃんとに伝わったらしいと知り、顔をほころばせた。だが歓喜の声を上げたオレとは裏腹に、の眉根はさっきよりももっときつく寄せられる。

「……その子、男の子?」
「ん? そーだよ」
「じゃあいい」

 意図のわからない質問に首を傾げたが、ひとり満足した風のがきゅっと口角を上げたのを見て、話が終わったのだと悟った。掴んだままだったの手を離しがてら頬を掻く。

「まぁ、なんだ。次、ちゃんと知り合ったらにも紹介するよ」
「うん。――それで、その子、どんな子なの?」
「それがよー。オレよりちっちゃくて、でも意外と喧嘩が強い……っていうか、上手いやつでさ。ひとりで三人を瞬殺しててよー」

 面白いと思った気持ちが蘇ってくると、自然と声は弾む。身振り手振りでチビの戦いっぷりを話せば、は眉を顰めたり口元を手の甲で隠して笑ったりと楽しそうに聞いてくれた。
 結局、課題の手が止まったを心配した三ツ谷が、オレにブチギレて迎えに来るまでふたりでずっと話し込んでいた。
 戻ってきたぺーやんはというと、不機嫌そうな三ツ谷の態度に「なんだ?」って不思議がっていたけれど、のところに行こうとしたもんだからとばっちりで三ツ谷に怒られる羽目になる。既に怒られ済みだったオレは「三ツ谷はヒデぇな」と思いつつもなんだかおかしくて笑ってしまった。



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