Precious03

My precious one 03


 5月も中旬にさしかかり、もうすぐ中間試験がはじまるなんて切羽詰まった状況に陥ってもオレの状況はまったく改善されなかった。
 1対1の喧嘩が主流になったところで毎日のように喧嘩を売られては、比例して生傷が増えるばかりだった。
 喧嘩の傷は男の勲章だなんて思ってないし、殴られた傷に対する思い入れもない。怪我をすれば当然、治療が必要だと保健室へと足を運んだ。薬品管理のために書かされる利用者カードには半分くらいオレの名前で埋まっていたんじゃないかと危ぶむほどだったが、学校内で怪我をしたんだからしょうがないってやつだ。

 今日も今日とて、体育の授業を終えたオレは出来たばかりの傷を抱えて保健室へと駆け込んだ。

「先生! またやっちまいましたー」
「また来たの? 君、保健室の皆勤賞でも狙ってるんじゃないでしょうね?」

 連日通えば、当然保険医の態度は気安くなる。心証が悪い、と危ぶむ程では無いとは言え、思うところがあるらしい保険医は歓迎は出来ないとばかりに渋面を刻んでいた。

「いやぁ、毎日は来ていないはずですよ。それに体育の授業でついた怪我かもしれないですし」

 体操服であると見せびらかすようにその場でくるりと回ってみせたが保険医の表情は険しいままだ。

「擦り傷をこさえてきたって言うのなら信じてあげられるけど……どうやったら頬にそんな拳一個分の痣が出来るのか教えて欲しいもんよ」

 軽い言い訳を挟んでみたが、そんなもの通用するはずもなく保健医は呆れたように息を吐く。
 ――まぁ、実際殴られましたし。
 内心でペロッと舌を出しながらも、殴られるに至るまでも結構な被害を受けた記憶が脳裏に浮かぶ。
 今日の体育は、本当に散々な目に遭った。せっかく大好きなサッカーの授業だったのにもかかわらず、合同授業というのもあって他のクラスの男子から的にされたのだ。
 ボールを運ぶ度にぶつかられるのは序の口で、スライディングで足を削られそうになるし、パスと見せかけてシュートが顔面に飛んでくる始末だった。
 挙げ句の果てには授業後に立ち寄った水飲み場で丁寧に殴り飛ばされたんだから溜まったもんじゃない。相手のみぞおちを思いっきり蹴り飛ばして勝ちを得たものの、保険医が苦言を呈すほどくっきりと殴られた痕が残ってしまった。
 出入口に掛けられていた利用者カードにクラスと名前を書き、慣れた態度で丸椅子に跨がるようにして座る。慣れているのはお互い様のようで話している間に保険医は治療の準備をしていてくれたらしく、手早く手当てに取り掛かられた。

「痛い。痛いッス。先生」
「喧嘩の傷よりもマシでしょう。我慢しなさい」
「いや、結構五分五分っていうかこっちの方がじわっと痛いッス」

 消毒液のニオイには慣れたけど、この染み入るような痛みにはどうしても慣れない。殴られた時とは違う種類の痛みに顔を顰めていると、顔の左半分を隠すほど大きなガーゼで頬を覆われる。貼られたばかりのテーピングをさらにくっつけるべく指先で押さえつけていると、手早く片付けを始めた保健医がひとつ大きく息を吐いた。

「たまには殴られないように立ち回ったらどう? 君、いつも喧嘩には勝ってるんでしょ?」

 不謹慎にも悪のススメを説いた保険医にオレは眉尻を下げるほかなかった。無傷の勝利を得られるのならそれが一番いいのだろう。だが、こちらも傷を負わなければ正当防衛は成立しない。周りの同情や理解を得るには、オレも少しは怪我をしなければならないのだとすでに学習していた。

「はは、ちょっと考えときます」
「喧嘩しないのが一番だけどね。はい、それじゃ、授業に遅れないうちに教室に戻りなさい」
「はい、ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げ保健室を退出した。頬に貼られたばかりのガーゼに手を添え、その下にある傷を労わるように撫でていると、階段前の曲がり角で出会い頭に襟首を掴まれる。

「おい、ちょっとこっち来いや」

 降ってきたドスの利いた声に思わず顔を顰める。
 ――まさかの第2ラウンドかよ。
 短いスパンで喧嘩を売られるのにも結構慣れてきていたが、授業間で2回戦なんて事態はさすがに初めてだ。さっきのヤツが起きてリベンジというのならまだ理解できるが、見上げた顔はさっき喧嘩した相手とはまた違う他クラスのもので自然と溜息がこぼれた。
 初っ端から喧嘩腰の態度で見下す相手に「えぇ……まぁ、いいけど」と返せば襟首を掴まれたまま校舎裏へと引き摺られた。
 人気のないところまで連れていかれると乱暴に放り投げられる。ズサッと土を擦る音に比例して手のひらと尻に痛みが走った。解放された首元を擦りながら相手を見上げれば、耳にタコができるほど聞かされたイチャモンが降ってくる。

「生意気だ」
「ムカつくんだよ」
「金出せや」

 ――ハイ、恐喝成立。
 顔も見た事ない相手が並べ立てる理不尽な言葉に心の中でツッコミを入れる。放っておけばいつまでもべらべらとおしゃべりを続けそうなヤツの相手をするのにはもう飽きていた。
 とりあえず立ち上がるかと膝に力を入れ、尻についた砂を払う。体操服でよかったなんて考える間も相手の口上は続いていた。
 ――口喧嘩しに来たわけじゃねぇんだろ。とっとと殴って来いよ。
 ひとつ息を吐き出し、何組の誰それに勝っていい気になっていると続ける男子に差し向けていた視線を脇に逸らす。そうやってワザと隙を見せれば簡単に相手は乗ってきた。

「テメェ、余所見してんじゃネェぞ!」

 罵声の奥に喜色の滲んだ声と共に相手はこちらに殴りかかってくる。右頬に入ったストレートパンチ。つい先程治療してもらったばかりのそこに入った拳は想像以上に重く、勢いに押されて上半身が傾いたが、足を引いて後ろに倒れそうなのを堪える。ついでに拳が離れるよりも先に下から両手で引っ掴んだ。

「……ヨシ、殴ったね? じゃあここから先は正当防衛だからなっ!」
「アアッ?!」

 反論めいた声を上げた相手の腕を勢いよく引き、前のめりになったところで腹に膝蹴りを食らわせる。不意のダメージに戸惑う男の顎を目掛けて、上げたばかりの足を振り抜いた。
 サッカーボールよりも硬いそれを蹴り飛ばすと足の甲に鈍い痛みが走ったが、相手の被害を思えばこのくらいは甘んじて受け入れるべきだろう。
 急所を狙ったとは言え、タフなやつなら二発目を放ってくることも少なくない。反撃に備え半身を引いたが、どうやら相手は気を失ったらしく、白目を剥いてその場に倒れていた。

「あちゃー。また気絶させちゃったかぁ……」

 顎への衝撃は想像以上に脳を揺らすのだろう。ぴくぴくと小刻みに震える喧嘩相手を見下ろしながら後ろ頭を搔いた。
 顎、みぞおち、こめかみ。挙げればキリがないほど人間の身体は急所に塗れている。もちろん、相手を殺すつもりなんて微塵もない。だけど、降りかかった火の粉は払うほかなく、手短に用件を終わらせるには急所を狙うのが一番楽だった。
 だからコイツも、さっきのやつにも等しく急所を狙ってやった。狙う箇所は異なったものの、結果は等しく気絶。ノックダウンした相手を見下ろしたまま、オレはひとつ溜息を吐きこぼした。
 ――手加減って難しいなぁ。
 効率よく捌くためにも急所を狙うと決めているのだが、必要以上に痛め付けるつもりもない。なんならある程度は力を抜いてやらないと重症を負わせかねないとすら思っている。だが、なにぶん、喧嘩なんて代物を始めたのがここ最近なモノでどこまで力を入れたら相手を気絶させずに無力化できるかわからなかった。
 ――まぁ、でも喧嘩両成敗ってことで。
 本を正せばオレに喧嘩を売ってきた相手が悪い。骨を折られないだけマシとでも考えて欲しいもんだ。開き直りにも似た考えだが、向こうだってオレに痛い目に遭わせるために喧嘩を売ってきたんだ。返り討ちにされる覚悟も同時に抱いておいて貰わないと困る。
 相手の傍らに膝をつき、形だけの詫びを込めながら両手を合わせる。謝罪の意を示しているとは言え、唇は「南ー無ー」と紡いでいた。
 不謹慎な謝罪を知られたらまたもや殴りかかられそうだが、相手の意識はまだどこか遠くに行ってしまったままなのでセーフだ。一通り自分の中にある謝罪や戒めを精算したところで突き合わせていた手を少しだけ離し、パンと高らかに打ち鳴らす。

「ハイ、反省終了っと!」

 立ち上がりながら膝についた砂を手で払うと、相手の意識が戻る前に退散すべく踵を返す。教室に戻るのが遅れると女子の前で着替えるハメになっちゃうし急がなければ。
 気持ち小走りで下駄箱に向かいながら、軽いボヤキを吐きこぼす。

「あーぁ、今日はこれで終わりだといいんだけどなぁ……」

 喧嘩は一日一回のノルマ制ではない。日に何度も呼び出される日もあれば、一週間くらい音沙汰がない時もあった。
 つつがなく過ごせるのがベストだが、あいにく今日はもう二回も襲撃に遭ってしまったので平和な一日とは言えなくなった。こうなってしまえばこれから何も起こらないよう祈るのみだ。
 ――負かしたばかりの相手が仲間を呼んで再戦を仕掛けてくるのが一番厄介なんだよなぁ。
 一度負かした相手というのは厄介で、いくら噂を流してソロで挑むように仕向けたところで「勝ちゃいいんだよ」となんて考えに囚われるらしい。二、三人で徒党を組んで挑まれると、難易度は格段に上がる。とりあえずひとりずつ倒せばいいとは言え、立ち回りに気を付けなければ袋叩きにされる可能性を孕んでいた。
 スリリングな日常は面白みが勝つなら大歓迎なんだけど今のところ迷惑しか降り掛かっていない。
 ――モテる男は大変だぜ。
 辿り着いた昇降口に駆け込みながら、誰かに聞かれたら「ふざけるな」と殴られそうな言葉を思い浮かべる。こういうところが生意気だと言われる理由なんだろうか。だが人の性分に口を出されても「これがオレなんで」ってやつだ。
 想像の中にいる敵に嫌気がさしたオレはひとつ息を吐き出すと砂がついているだろう上靴を脱いで軽く靴底を叩きあわせた。
 二回の喧嘩と保健室での治療。授業間の10分休憩が過ぎてないのが奇跡みたいなものだ。
 これはもう着替える時間は残っていないかもしれない。まぁでもなるべく間に合わせるよう努力はしよう。
 そう思い、ある程度で砂を落とし終えたと判断したオレは上靴の踵を踏んだまま、教室へと向かう階段を駆けのぼった。



error: Content is protected !!